45.ミノタウルス
「私よ、マヌーレよ、王子」
「小塚君っ、大丈夫」
しかし揺さぶっても返事は無い。
もしかしてあの火事騒ぎの時に、逃げないように薬を盛られた……。
鍵がかかっているかと思ったが、格子に付けられている扉は少し力を入れると難なく開いた。
中に入る、と――。ぎょっとして体が硬直する。
部屋の片隅に、大きな顔にずらりと鋸歯状の歯を並べた恐竜が立っていた。大きくはない。変身前の私とほぼ同じ。頭から尾までほぼ水平で、大きな頭にはまるでジッパーで開けたかのようなぱっかりと大きな口が開いている。
口には肉食の証、鋸歯状の歯がずらりと並んでいた。
特筆すべきは額の上にある円錐状の二本の角、四本指を持つお飾りのような短い手。全身がブツブツとしたうろこ状の固そうな皮膚で覆われている。
私の恐竜の本には同じものは載っていなかったが、『肉食の雄牛』と言われるカルノタウルスをずっと小型化した感じか。これはハサニゲルによって作られた造竜なのだろう。
それは小塚君の方にゆっくりと視線を向けた。空腹なのか、涎を垂らし大きく開けられた口は、明らかに彼を狙っている。
「鍵を使わなければ、戸を開けた途端結界が消失して、造竜が彼を襲う仕組みだったのね」
マヌーレがどん、っと私の背中を押す。
「あいつの気を引くのよ、ミノタウルス。やっつけないとあの大きさでは迷路の中まで私たちを追ってくるわ。それじゃ、私は王子を連れて逃げるから」
腹の立つ言い方だが、その選択肢しかない。小塚君との再開を喜ぶ余裕なんてなかった。
唇を引き締めて獣脚丸を握る。獣脚丸は虹色の大剣となり、私は同時に変身を遂げた。
とりあえずこちらの方に注意を引かなくては。
ダッシュして後ろから造竜に跳び蹴りする。吹っ飛んだ造竜は私の方を向き直って、鋭い歯の並んだ大きな口を目一杯開いた。
次の瞬間、まるで頭が飛び出るような勢いで噛みついてくる。
目の前で飛び散る唾液。
体が小さい分、考えていたより素早い。
目の端に、王子を背中に担ぐようにして引きずりながら出て行くマヌーレの姿が眼に映った。
服に隠されてわからないけど、前世で彼女はけっこうな筋肉質だった。
なんとか小塚君を安全な所まで連れて行ってくれるだろう。
造竜が短い角を振り立てて、頭から突っ込んでくる。
大剣を振り抜くが獣は器用にそれを飛び越えて壁にぶつかった。すばやい。壁が壊れてランプの灯りが消える。
瞬間、真っ暗闇となった。
ヴーッッッッッッ
軽いうなり声が聞こえるが、部屋に反響してどこから来た音なのか方向がわからない。
目もまだ暗闇に慣れてなかった。
いきなり風圧を感じ、身を沈める。
ぼたぼたっ、と背中に唾液が落ちた。体の上を奴の頭が通過したようだ。
すかさず大剣を握って切りつける。しかし、造竜の皮膚は思いの外固くて、剣がめり込んだ。握り直して引き抜こうとする。足を踏ん張って――。
だが、ネバネバした唾液に足を取られて滑り、体が宙に浮いた。バランスを取ろうと、無意識のうちに剣から手が離れる。
造竜がすかさず飛びかかってくる。
ギリギリで転がるように飛び退いて、這いつくばる。
まずい。
あまり、獣脚丸から離れると私は元の姿に戻ってしまう。剣を取り戻さないと。
奴はどこにいる。こめかみを汗が垂れる。
ヴ――ヴヴヴヴヴヴッ
奴が歩き回って、私を探している。
足から全身に小刻みな震えが駆け上がる。
落ち着け、落ち着け、気配を消すんだ。学校でやっていたみたいに。
温かい闇の中で、何も見えないように目を閉じていた。
膝小僧を抱き、まあるくなって。
だけど震えながら、外界の物音だけには聞き耳を立てる――。
ゆっくりと息を、奴の呼吸に同期して。
恐怖も、不安も、忘れろ。大丈夫、私にはできる。
奴が動くのをやめた。
気配が空気の震えとなって伝わってくる。
頭の中にぼんやりと、奴の位置が浮かび上がった。
チャンス。最初で最後の。
応えて、獣脚丸っ。叫びが心をつんざいた。
暗闇の中、ぼうっと虹色に光る私の剣が周囲を照らし出す。
それは浅く造竜の足にめり込んでいた。
だが、光はもろ刃の剣。奴にも私の姿が見えたはず。
かぎ爪の足が床を蹴る。そしていきなりトップスピードに。
飛びついた剣の束が手にめり込む。
私が剣を握ったまま造竜の体が動き、くるりと体勢を変える。
造竜とともに私の体が壁にぶち当たる。壁を破壊しながら剣を振り抜いた。
ボタボタと涎が背中をぬらし、激痛が走る――。
部屋全体を揺らして、造竜が倒れる音が響いた。
見ていないから、恐怖は無いけど。多分背中が歯で切り裂かれている。
背中から体全体に拍動とともに鈍くて激しい痛みが広がってきた。
足を伝って、床に血だまりができているようだ。
片足になって立ち上がれない造竜にとどめは刺さず、私はフラフラと獣脚丸の光を頼りに迷路に入るドアを手探りで探す。
ドアの入り口に置かれていた毛糸玉はすぐわかった。
拾い上げると、それは抵抗なくすんなりと私の目の前にまで――。
毛糸は途中で切れていた。
「ひっかかったわね、おバカなミノタウルス」
頭の中で、マヌーレの笑い声が響いた。




