第36話 真相と、真実と
――翌朝。サイード様と共に商人の夫婦に身をやつすと、私たちは驢馬に引かせた幌つきの荷車に半ば隠れるようにして、宮殿を出た。
カツラをやめて以来ずっと伸ばし続けている地毛は、ようやく肩甲骨の下あたりまで伸びている。だがそれは男装には違和感のある長さだったから、今日はショールで髪を隠して女の装いだ。
そのまま荷車に四半刻ほど揺られて到着したのは、皇都の外れにある小さな寺院である。あらかじめ使いを送っておいた私たちは、すぐにその一室へと通された。
間もなく出てきたのは、デルカシュ様と同じような年頃の、細身の尼僧である。それは確かに、かつてデルカシュ様の近くで何度も見かけたことのある顔だった。
「アーファリーン様、お待ちしておりました」
「待っていた、とは……もしや私がここへ来ることを、デルカシュ様は予見していたの?」
「……はい」
神妙な面持ちでうなずく彼女の目を真っ直ぐに見つめて、私は問うた。
「ならば全て、話してもらえる?」
再びの肯定と共に語り始めた彼女は、デルカシュ様の乳兄弟、つまり乳母の娘であるとのことだった。その縁でお嬢様の侍女として、出来たばかりの後宮に入ったのだという。
自らの結婚なども全て諦めて、彼女がデルカシュ様と共に後宮入りを決心するに至るには、理由があった。それはまるで実の妹のように可愛がっていたデルカシュ様の、あまりにも辛い運命ゆえである。
ずっと慕っていた従兄との結婚の日を指折り数えていた少女のもとに届いたのは、西方との内通罪で婚約者が処刑されたという知らせだった。それに追い打ちをかけるかのように、その喪も明けぬうちに父親から命じられたのは……最愛の婚約者を殺した男の元へ恭順の証として嫁げという、残酷なものだったのである。
だがそれを復讐の好機と捉えた彼女は、その心の内の狂気をひた隠しにしつつ、優しい女を演じて周囲の信頼を集めることにした。そして機を窺ったまま、三年余りが過ぎたころ――。身重の妃を不慮の事故で亡くしたとき、それまでは一分の隙も見せたことのなかった覇王の憔悴した姿を初めて目の当たりにして……彼女は、つぶやいた。
――なるほど、そうすれば、あのお兄様を殺した男を、あの自らの妻子をも見殺しにした男を、苦しめてやることができるのね――
「本当は見殺しになどしていないのだと、本当は正反対ながら同じ哀しみを背負う者同士なのだと、お嬢様は分かっておられたはずなのです。なぜなら、自らの死をもって陛下を苦しめようとした――つまり、陛下がご自身を大事に思ってくださっているということを、お嬢様はようくご存じだったのですから」
そこまで語り終えると、尼僧は衣の袖口で顔を覆い、その場に崩れ落ちた。
「わ……私が、何度も違和感をなかったことにしていたせいで! あのとき、引っ掛かりを覚えたときに、ちゃんと向き合ってさえいれば……!」
なぜ薄々気付いておきながら、私は真相から目を逸らしてしまったのだろうか。あのとき、ちゃんと真正面からぶつかって、しっかり話を聞いてさえいれば……こんな最悪の結末は、避けられたかもしれなかったのに!
だが後悔に震える私に向かい、尼僧は悲しそうに首を横に振った。
「……いいえ。そこで追及されていれば、きっと全てが早まっていただけでしょう。貴女さまの動向をそれとなく他のお妃さま方から聞き出しては、お嬢様は、困ったように笑っていらっしゃいました。どうやらまたファリンに見逃してもらったようだ。そろそろ潮時かと思っていたのに、と」
「そんな……」
「ですがもう、行き場のない思いが、お嬢様ご自身にもどうにもできなかったのです」
――このまま幸せになってしまいそうな自分が怖い。あの人のことを忘れてしまいそうな自分が怖い。だから、ここで終わらせるの――
そう微笑みながら涙を浮かべ、彼女は未だ袖を通さぬままの花嫁衣装を抱きしめた。ひと針ひと針想いを込めて、彼の好きな模様を刺した――あの鮮やかな、赤い衣装を。
「最後に、お嬢様はおっしゃっておりました。貴女さまならきっと、あの白花と赤糸の存在に気付いて真相に辿り着くはずだから、お嬢様のかわりに謝って『どうか赦してほしい。悪意に塗れた私は、もう天上のあの人のもとへは行けないのだから』と伝えてくれ、と」
彼女を裏から操っていた男は……もう、この世にはいない人。
「あの世ですら、想い合う相手と一緒になれないだなんて……」
そう呟いてうなだれた私に、サイード様は静かに言った。
「そこは心配しなくとも、今ごろとっくに再会を果たしているはずだ。デルカシュ妃の元婚約者の男であれば、確実に地獄にいるだろうからな」
「それって……何か理由が?」
かたわらに立つサイード様を見上げると、彼は悲しそうに、だがほんの少しだけ困ったように笑ってみせる。
「……天へ昇れるほど身綺麗な奴なんて、この戦乱のご時世にはそうそういないってことだ。かくいう俺も、な」
たとえそれが地獄の道行きなれど、願わくば、二人が再会できていますよう――。
今はただ、祈ることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
――寺院を出て、サイード様と共に宮殿への帰途につきながら……私は、重い口を開いた。
「先ほど聞いた話は、陛下には一部を伏せて報告した方がいいでしょうか」
だが御者台の上で共に幌に隠れるように揺られていたサイード様は、迷いのない瞳で前を見据えたまま、はっきりと答えた。
「いや、全てをありのままに報告しよう。アルサラーン陛下は、全ての否定をも受け止める覚悟を持って、この砂漠の皇帝となられたのだ」
「……サイード様は陛下への忠誠心は罪悪感からきたようなものだとおっしゃっていましたけれど、やはり私には、それだけではないように思えます」
「そうだな……。だが、俺はやはり、陛下の信頼を裏切ってしまったようだ」
「え、一体何が……」
「俺は……君を自分のものにしたいと思ってしまった」
「なっ」
思わず目を見開いて、隣に座るサイード様の方を見る。すると彼もこちらへと、初めて見るような熱を宿した瞳を向けていた。気づけば人通りのない郊外の道で、いつの間にか驢馬も歩みを止めている。
「君は陛下の妃なのだから諦めなければならないと、何度も自分に言い聞かせてきた。だが……もう、自分を偽ることはできそうにない」
「よりにもよってなぜ、こんな……」
「なぜこんな時に、と、思われるのは仕方ない。だがデルカシュ妃の話を聞いて、今言わなければ絶対に後悔すると思ったんだ」
サイード様の、あのいつも真っ直ぐな瞳が、今は自分の方へと向けられている。射竦められたかのように動けなくなった私を見詰めたままで、彼は言葉を続けた。
「戻ったら、陛下に君の下賜を願い出る。どうか君の正直な気持ちを、聞かせてもらえないだろうか?」
下賜とは、確か古の王朝に存在した制度だ。それは皇帝陛下の妃のうち一人を、臣下が妻として賜るという最上級の褒美のひとつであったはず。それはつまり、この人は、私を妻として望もうと言っているのだ。でも、私は――。
「……嫌です」
「そうか……だが俺は諦めない。いずれ必ず、君に『はい』と言わせて――」
「いえ、そういう話ではありません」
「ならば、どういう話なんだ?」
「貴方のような地位にある御方は、いずれは複数の妻を娶ることになるのでしょう? そんなの嫌です。……耐えられそうにありません」
思わず声を震わせる私に、だがサイード様は不思議そうな声音で言った。
「だが君は……すでに大勢いる陛下の妃の一人じゃないか」
「でも、それが貴方だったら……大勢のうちの一人になんて、なりたくない!」
「それはもしや、嫉妬してしまうということか?」
口を噤み、うなだれた私の表情を窺うかのように、彼はそっと覗き込む。
「それは、本当は君も俺と同じ気持ちなのだと……自惚れてしまっても、いいのだろうか?」
「それでも、どのみち、無理な話なんです。こんな事件が起こった直後に、まだ一度も前例のない妃の下賜を願うなど……せっかくの陛下からサイード様への厚い信頼が、瓦解してしまいかねません!」
「いや、まだ詳しく明かすことはできないが、この今だからこそ、なんだ。どうか、俺を信じて説得を任せてはくれないか? それにもし却下されたとしても、俺の一方的な横恋慕ということにしておくから、君に罪が及ぶことはない」
「でも、もしそれで陛下のご不興を買ってしまったら、サイード様のお立場が!」
「それでも、真摯に乞い願うしかない。君を得るためならば、俺はずっと逃げ続けて来た責任の代償を支払おう。俺の唯一はずっと君だけだと、約束する。だからどうか、俺の妻になってくれないか……?」
――私なんかにこの人は、ここまで、言ってくれるの?
一瞬、私だけが幸せになってしまってもいいのかと考えた。友人たちが、そしてデルカシュ様が、それを許してくれるのか、と。でもその時、『ならば君も友を信じろ。その友情が本物であれば、必ずや君の幸せを願ってくれるはずだ』という彼の言葉が、蘇る。
――覚悟を決めて、自分の気持ちを認めよう。
やっぱり私、サイード様のことが好きなんだ。
「……はい。どうか私を、貴方の妻に」
そう応えた瞬間――強い力で抱きすくめられて、私は息をのんだ。少しだけ掠れた声が、耳元で響く。
「必ず、必ずすぐに迎えに行く。だから陛下のお許しを賜るまで……少しだけ、待っていてくれ」
「いいえ、私も共にお願いしに参ります。もしもサイード様に罰が下されるというときは……私も、同罪ですから」
「ありがとう。だがどうか安心して、まずは俺に任せておいてくれないか」
「そう、ですか……でも何かあった時には、必ず私を呼んでください!」
バァブルが叶えられる『願い』は、物理で解決できるものだけだ。人の心を変えることはできないから、陛下の御心を変え許しをもらうという使い方はできないだろう。だが万一の事態があったとき、彼をどこか遠くへ逃がすことぐらいなら――!
――だがそれが、サイード様の姿を見た最後の日になろうとは……その時の私には、思いもよらなかったのだった。