第33話 似ている
「えっ、毒気!? しかし……」
戸惑いつつも頑として通してくれない護衛をどう説得しようか困っていると、そこに聞きなれた声が響いた。
「アーファリーン妃! なんの騒ぎだ!?」
「サイード様! この部屋、毒気が充満している可能性があります。どうか、すぐに中へ入れてください!」
「承知した。緊急事態だ、扉を開けてくれ。責任は俺が取る!」
「は、はいっ!」
サイード様と共に急いで薄暗い部屋の中へと踏み込むと、壁に掛けられた大きな肖像画の前に、座り込んでいる人影があった。
「アルサラーン陛下!」
急いで駆け寄ると、彼は焦点の合わない瞳でぼんやりと、赤子を抱いて微笑む女性が描かれた絵画を見上げている。
「陛下、どうぞお立ちください! 今すぐここを離れましょう!」
だが焦りに満ちたサイード様の声が響いても、その瞳が現実へと向けられることはなかった。
「行かなければ……ホルシードが、俺を地獄へ呼んでいる……」
「陛下……」
その様子を見たサイード様は、なぜか少しだけ泣きそうな顔をして、動きを止める。体質は遺伝するものだから、陛下の甥で過敏症の傾向が見られるサイード様も、ここに長時間いたら危ないかもしれない。
私は思わず二人の間に割って入ると、不敬を承知で陛下の胸ぐらをつかみ上げた。そして思いきり平手を振り上げると、力いっぱい眼の前の頬へと振り下ろす。
パァンっと高く乾いた音が響いた瞬間、私は叫んだ。
「目を覚ましてください! ホルシード様は最期に『貴方の信じる道を進んで』とおっしゃっていたのでしょう!? 未だこころざし半ばの貴方を、地獄へ呼んだりするわけがない!」
陛下の瞳に、わずかばかり光が戻る。それを見た私は胸いっぱいに息を吸い込むと、声の限りに叫んだ。
「立てッ、皇帝アルサラーンっ!!」
「そなたは、アーファリーン、か……」
ようやく定まった視線を受けて、私は安心して微笑んだ。
「はい、陛下。ホルシード様でなく申し訳ございません」
「いや……どうやら、余は腑抜けてしまっていたようだな」
「いいえ、陛下はけして腑抜けていらしたのではございません。この部屋の真っ青に塗られた壁……恐らく塗料の溶剤に、例の毒気が使用されています。それで、以前と同じ中毒症状を引き起こされていたのでしょう」
しかしこの壁、あまりにも真新しく、綺麗な色だ。きっと塗り直されたばかりなのだろう。上級妃の皆さまには陛下が毒気に弱い件をそれとなく伝えておいたはずだけど、わざわざ今この部屋の壁の塗り直しが行われたのは、気付かずにやったのか、それとも……。
考えつつも、陛下に肩を貸したサイード様と共に急いで部屋を出る。皆で内廷に移動した後も顎に手を当てて考え込んでいると、陛下が苦笑しながら言った。
「まだ痛むぞ。随分と、派手にやってくれたものだ」
「なんかその、すごく必死で……大変申し訳ございませんでした!」
だが慌ててその場に平伏した私の頭上に響いたのは、穏やかな声だった。
「いや、良くやってくれた。全く、そなたにこんなことができるなど、予想外だったが……久しぶりに迷いが晴れ、すがすがしい気分だ」
「恐縮にございます……」
よく考えたら皇帝陛下の頬を思いっきり引っ叩いた上に呼び捨てにするなんて、斬首レベルの不敬罪だ。なんであんなことができたのか自分でも不思議だけれど、陛下が怒らないでくれて助かった……。
「面を上げよ」
「はい」
少しだけホッとしながら顔を上げると、そこで思いもよらない言葉が続いた。
「そなたもここへ来て、そろそろ二年が経つか。良い表情をするようになったな。……今宵は、そなたのヴィラで休むとしようか」
その言葉の意味を理解しきれず固まっていると、陛下の傍にひかえていたサイード様が、慌てたように声を上げた。
「お待ちください! 今宵は典医の診察を受けてのち、ごゆっくりと休まれた方がよろしいのでは!」
「いや、この皇帝の頬を張るほど気強い女と共に眠った方が、悪夢も逃げてゆくだろう」
「……かしこまりました。そのように、手配、いたします」
そう応えて頭を下げるサイード様を見て、ようやく私は、自分が置かれた状況を理解した。
「アーファリーン、そなたも、よいな」
「か、かしこまりました……」
◇ ◇ ◇
とうとうこの日が、来てしまっただなんて……。
シャオメイをはじめとした部屋付きの侍女たちは喜んで、いつも綺麗な部屋をさらに飾り立てて準備をしてくれている。それなのに「状況が変化するから嫌」だなんて、言えるわけがない。そもそも私たち妃にとって陛下を迎えるのは義務であり、そのためにこのヴィラを与えられているのだ。
――その夜の遅く、とうとう私のヴィラにアルサラーン陛下が現れた。体調を気遣う会話を交わしているうちに、軽く肩を押されたかと思うと……気づけば私の視界は、天つ方へと向けられていた。
「サイードがな、よく面白そうにそなたの話を聞かせてくれるのだ。そなたのもとで庇護を受けた子は、きっと強く生き延びられることだろう」
――似てる。強い意志を感じる目元も、理想に輝く黒い瞳も。
覗き込む姿が見えないように目を閉じると、耳元で低く名を呼ぶ声までが、まるでかの人のように思えた。
――いくら血縁だからって、こんなに、声までよく似ているなんて。
きつく閉じたはずのまぶたから、熱いものがあふれ出す。すると大きなため息が聞こえて、すっと気配が離れて行った。
「それほど、嫌か」
「ちがっ……申し訳ございません!」
慌てて飛び起き平伏したが、陛下はそのまま寝台から立ち上がる。
「興がそがれた」
それ以上ひと言も発さないままで、彼はヴィラから出て行った。
――どうしよう……この後宮の主に対し、ありえないことをしてしまった!
だが一睡もできなかった翌朝ヴィラへ訪ねて来たのは、罪人を引っ立てるための兵士ではなく……なぜか、後朝の褒美を持った侍女だった。
後朝の褒美は陛下が訪れた翌朝に妃へと贈られるもので、通常であれば高価な衣類や宝飾類である。だが両手のひらに乗るくらいの小さな箱に添えられていた文には、こう書かれていた。
『お前に相応しいのはこの程度だ』
――やはり、ご不興を買ってしまったのか。
びくびくしながら箱の蓋を持ち上げると、中に詰め込まれていたのは小さな星を象った砂糖菓子である。思わずひと粒つまみ上げ、口に含むと――甘さがじわりと広がって、涙がひと粒、頬を伝った。