第30話 苛むは、彼女自身の
奉納の舞を完璧に終えて――私たちは舞台の上で、皇帝陛下へと向かって一斉にひざまずいた。とたんに割れんばかりの拍手が起こり……同時に演目の途中は静かだった観衆たちの間に、再びのざわめきが戻る。
「あの娘、なんと美しい……まるで水の女神そのもののようではないか」
「なんでも、あの砂漠一の美姫と呼ばれたロシャナク族のアナーヒターと、西方人との間に生まれた娘らしいぞ」
「おおそれで……異国情緒がまたなんとも、魅惑的よのう」
そんなざわめきのはざまに聞き覚えのある名を聞きつけて、私は耳をそばだてた。だがそれは単なる賞賛の声だけで、その名を持つ人間の行方を示すものではないらしい。私が少しだけ落胆していると、頭上から皇帝陛下の御声がかけられた。
「我が妃たちよ、素晴らしい舞であった。特に今年の水の女神は、まるで本物と見紛うほどだと評判ではないか」
「お褒めにあずかり、恐悦至極に存じます」
「第十六妃アーファリーン、そなたには特別に褒美を取らせよう。何なりと申すがよい」
観衆たる、並み居る部族長たちの耳目を集める中で……私は深く頭を垂れたまま、静かに口を開く。
「では……我が義父に、偉大なる皇帝陛下へ直々に御挨拶させていただく栄誉を賜れますでしょうか」
「ほう……許そう」
実はここまで、皆さまへ角が立たないよう事前に根回ししておいた通りの展開である。名を呼ばれた義父は初めて見るような得意げな笑みを満面に浮かべて席を立つと、揉み手をしつつ御前へと進み出た。後ろに引き連れているのは、私の方へチラチラと意味ありげな視線を向ける婿殿と、苛立ちが隠しきれていない様子の義妹との、二人である。
「畏れ多くも御前にはべりまするは、ロシャナク族長ベフナームにございます。いやはや、アーファリーン妃様のなんとお美しかったことでしょう! 我が娘ながら、鼻高々でございました!」
義父は陛下に向かい両ひざを突き、叩頭――つまり額を地に着ける型の挨拶を終えたところで、心にもないだろう賛辞を述べる。そしてさっそく次代のロシャナク族長として、自慢の婿殿をいそいそと陛下に売り込み始めた。紹介を受けて力強く名乗りを上げるカムラーンへ、だが陛下は詰まらなさそうに目をやると……にこりともせずに、口を開いた。
「そなたは『獅子殺しの勇者』と呼ばれているそうだな」
「はっ! 私めはかつて部族の成人の儀にて、砂漠の獅子を仕留めましてございます!」
だが不穏な様子に気付かないカムラーンは、ひざまずいたままそう声を上げて胸を張る。
「ほう、それはそれは素晴らしい狩りの腕を持っておるようだな。ところで……余の名『アルサラーン』の語源を知っておるか?」
「そ、それは……不勉強で……」
だがそう言うカムラーンの顔面は、すぐに蒼白になった。きっと彼は、本当は気付いてしまったのだろう。『アルサラーン』とは、この国の古い言葉で――『獅子』という意味なのだ。
「知らぬのならば、それで良い。だが……狩場を、間違えるなよ?」
「は、ははーっ!」
途端に緊迫した雰囲気に、義父も慌てたように床へと叩頭して見せる。その姿を見届けた私はあえて衆目にアピールするかのように、パラストゥー師直伝の甘やかな声を作って、言った。
「わたくしの寛大なる皇帝陛下、もうひとつだけ、ご褒美をおねだりしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ、そなたがおねだりとは珍しいな……よい、何なりと申せ」
「では、わたくしめに……久方ぶりに家族と水入らずで過ごす時間を、どうかくだされますよう」
「なんだ、そんなことか。構わん。だが、妃には常に供の者をつけねばならぬのが規則だ。……サイードを連れてゆけ」
そこまでは打ち合わせになかったが、勘の鋭い陛下はどうやら私の様子から何かを汲み取ってくださったらしい。筋書はかなり変わりそうだけど、見張りがサイード様ならば好都合だろう。
「かしこまりました」
陛下の傍らにひかえていたサイード様が、すぐさまそう頷いて……皆で連れ立ち、面会用に用意された別室へと向かうこととなった。
◇ ◇ ◇
――この宮殿では珍しく、入口に扉のある部屋が閉ざされるなり……もう我慢できないといった形相で、アルマガーンが口を開いた。
「ちょっとあんたファリンのくせに、下っ端の妃になったくらいでいい気になりすぎでしょ!? 本当は、私がそこにいるはずだったんだから! あんただけが特別だなんて、思わないことね!!」
「女、妃に対して無礼である」
だがそこですかさずアルマを窘めたのは、彼女の父でも夫でもなく、私の後方に離れて立っていたサイード様である。するとアルマは扉のそばにひかえる彼の方へチラリと眼をやると、小さく鼻で嗤って無視を決め込んだようだった。
「なによ、偉そうに! 妃だなんて言って得意げな顔してるけど、しょせんは大勢いる中の一人じゃない。たった一人だけを愛し愛されている私の方が、女として何倍も幸せに決まってるんだから!」
「いいかげんにしろ。妃や後宮に対する侮辱は、皇帝陛下のご威光への侮辱にあたる」
再度の注意を重ねた彼に、アルマは肩を怒らせつつ顔を向けた。
「なによ、その服、小姓のお仕着せでしょう!? まあ、多少見目は良いから皇帝陛下のお気に入りなのかも知れないけれど……しょせん下僕ごときが、上から目線で口を挟まないで!」
「俺はジャハーンダール族のサイード、小姓頭を拝命している。……皇帝陛下の忠実なる下僕には、相違ない」
「はぁ? 頭なんて言ったところで、しょせんは下僕どもの中の……」
だがそこで、彼がその名をわざわざ名乗った意味にようやく気がついて……義父はとたんに、顔色を一変させた。
「こらっアルマ! ジャハーンダール族のサイード様といえば、皇帝陛下の甥御様だ!!」
「ええっ、この下ぼ……いえ、御方が……ウソ……」
「ロシャナク族のアルマガーンと言ったか。――その名、覚えたぞ」
サイード様が無表情のまま目を細めて言うと、義父たち三人はサッと顔を青ざめさせた。この状況であえてお互いの出自を強調するということは、宣戦布告にも等しいことだろう。
「どうだ、アーファリーン妃。貴女が望むなら、ロシャナクを帝国の直轄地とするよう陛下に進言してもよいのだが」
直轄地にする――それは兵を送り、支配権を奪りにゆくという意味だろうか。それを聞いた義父は焦ったように膝をつき、つらつらと言い訳しつつ揉み手を始めた。やがて娘の腕を引っ張るようにして、自らの横に膝を突かせると。その扱いにすかさず文句を言おうとした彼女の頭を、冷たい石の床に向かってぐっと強く押さえ込む。
だがその様子を私はひとつも表情を変えずに見下ろすと、穏やかに口を開いた。
「いいえ、不要です。ロシャナクに、そのような価値はございませんわ。どうぞ、捨て置かれませ」
「おお寛大なるお妃さま、ご慈悲をありがとうございます!」
ちょっと大げさなほどに自らの両手を握り合わせて、義父がこちらを向いて声を上げる。するとアルマガーンは伏せたままの青い顔を一転赤くして、ぶるぶると屈辱に打ち震えているようだった。
「認めない……こんなのぜったいに、認めないんだから……」
小声でボソボソと呟き始めた彼女の性格は、昔からよく知っている。部族を攻め滅ぼされることなんかより、自尊心を打ち砕かれることの方が、彼女にははるかに辛いことだろう。
――簡単に破滅なんて、させてあげないんだから。
そんな彼女へと向かい、私はふんわり優雅に笑って見せた。
「そうそう、ずっとアルマガーンに伝えたいことがあったのよ。義理とはいえ、貴女と私はたったふたりきりの姉妹なんだもの。これからもっと、仲良くしていきましょう。また宮殿へ招待するから、遠慮なく遊びに来てね?」
弾かれたように上がったその顔は、強い怒りの感情で歪められている。だが私は穏やかな笑みをたたえたままで、小さく首を傾げて見せた。
そう、こちらが手を汚してあげる必要なんて全くない。私はただ、幸せに過ごしているだけでいいのだ。そんな私の姿が目に入るたび、彼女は悔しさに歯噛みし続けるだろう。
だが――それらは全て、彼女の精神性が見せる幻だ。
彼女と私の立ち位置は、あの家を出た日から少しも変わってなどいない。彼女が下がったわけでも、私が上がったわけでもない。ただ彼女自身が私と自分を比べては、『負けている』と感じて自己を苛んでいるだけだ。肥大化してしまった虚栄心を彼女自身が捨てない限り、それは一生続くだろう。
彼女は顔を真っ赤に染め上げたまま、への字に引き結んだ唇をワナワナと震えさせていた。極限まで見開かれた目はひとつの瞬きもせずに、ただ宙の一点のみを見詰めている。その姿に仄暗い悦びを覚えて……私は自嘲した。
私だって、彼女と同じ。他人と比べて『勝つ』ことは、なんとも言い難い愉悦を生むものだ。でも私はもう、それだけじゃない。もっと他に、楽しいことがいっぱいあることを知っている。ここに来て、気の合う仲間たちと出会い、知ったのだ。
――この子にもいつか、気づける日が来るのかしら。
「ではまた、ね?」
地に伏せたまま屈辱に震える彼女を、最後にニッコリと鮮やかな笑みで見下ろしてから。私はくるりと踵を返し、悠然とその場を離れた。
だが部屋を出て、背後でバタンと木の扉が閉じられた、瞬間――これまでの色々な思いが去来して、固く見開いたままの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
まだダメだ。まだ、後ろにサイード様がいるのに……。
私のすぐ後に部屋を出たらしい気配は、まだ後ろを付いて歩いているようだ。私は気づかれないよう平気なふりして真っ直ぐに歩き続けたが、どうしてもあふれるものが止められない。
「……大丈夫か?」
「申しわけ……ございません……ちょっと目にゴミが……」
――その時。まるで肩の震えを抑え込むかのように、背後から強く抱きしめられた。血の気が引き、冷え切っていた肌に……じんわりとした温もりが広がってゆくようである。
「無理はしなくていい。よく、頑張ったな」
「……なぜ頑張った、と? もしかして……私がここに来た本当の経緯を、ご存じだったのですか」
「すまない。君が自分のことを『厄介払いされた』と言っていたことが気になり、ロシャナクへ人を遣って調べさせたんだ。行商のふりをして使用人たちに聞けば、簡単に教えてくれたそうだ。実家での君が、どんな扱いを受けていたのかを」
私は惨めやら恥ずかしいやらで、顔を真っ赤にして項垂れた。そんなふうに侮られた存在の『かわいそうな子』だったということを、ずっと表舞台で生きてきたのだろう彼には、知られたくなかった。なぁんて……見栄っ張りは、家系だったのだろうか。
そこに複数の足音が近づいてくるのに気が付いて、私たちは慌てて距離を取る。頭にかけていたヴェールを目深に被り直した理由は、もう、涙を隠すためだけではなくなってしまっていた――。




