第24話 出ない杭なら打たれない
「これは、パラストゥー様……ごきげんよう」
だが彼女は私に挨拶を返すことはないまま、眉を吊り上げ、大きく声を上げた。
「前々から頻繁にヴィラに出入りさせて怪しいとは思っていたけれど、こんな昼日中から堂々と親密な様子を見せつけるなんて……一体どういう了見かしら!? 皇帝陛下の妃ともあろう者が小姓と不義密通など、死に値する重罪よ!」
突然の追求劇に怯んだ私がとっさに声を出せないでいる間に、サイード様が一歩前に出る。その背中から響いて来た声は、これまで聞いたことがないほどの、不機嫌さを隠さない低音だった。
「言い掛かりはやめてくれ。俺がアーファリーン妃と行動を共にしているのは、あくまで陛下の命によるもの。正当な業務の範疇だ」
だがパラストゥー妃はその気迫に怯むことはなく、さらに強くこちらを睨め付ける。
「いくら陛下の命であれ、こんなにも目に余るほどだとは想像だにしていらっしゃらないはずですわ! 陛下に対する裏切り行為を、妃の一人として見逃すわけにはいかなくてよ!」
「――裏切ってなどおりません」
ようやく怯みから立ち直った私は、そう静かに口を開いた。
「口ではなんとでも言えるわ。それほど頻繁に二人きりで過ごしていて、密かに通じてなどいないなんて、言い訳が通るとでも思っているの!? たとえサイード様が陛下の甥御でいらっしゃるといえど、これは皇位の簒奪を狙うに等しき、大罪よ!!」
「密通……ですか。そのような事実などない証明でしたら、簡単ですよ。入宮時に行われた未通女検査を、もう一度やってもらえばいい」
怒りに染まった瞳を冷たく見返しながら告げると、その瞳はすぐに、驚愕の色へと変わってゆく。最後にはまるで信じられないものを見たような顔をして、彼女は言った。
「未通女って……アナタ、ここに二年近くいて、まだ一度も陛下の御渡りがないの!?」
「その通りです」
「なぁんだ、まだ女ですらなかったなんて……心配しちゃって損したわ!」
呆れたように声を上げて笑う彼女に、私はため息をついた。
「もうよろしいですか?」
「はいはい、お子サマたちに用はないわよ。失礼いたしました!」
この一瞬でもうすっかり興味を失ってしまったようで、彼女はパタパタと手を振って立ち去ってゆく。その姿が見えなくなるまで見送ると、サイード様がぼそりと言った。
「そうか、まだだったのか……もうとっくに、御渡りがあったものだとばかり」
「あの、そういうの恥ずかしいから再確認しないでください……」
「恥ずかしい、か。ならば……陛下に君の一連の功績を伝えて推薦しよう」
皇帝陛下の夜の御渡り先って、実務の功績をもとに推薦される系のものなんだ……はともかく、『恥ずかしい』の意味を、『陛下から一度もお声がけいただいたことがないのが恥ずかしい』のだと、誤解されてしまったようだ。確かに、そっちの方に考える妃が多いみたいだけど。でも、私は――
「せっかくですが、辞退させてください。私は今のまま、忘れられた妃でいいんです。他の妃と争いたくなんかないし、特別な寵愛なんていらないから、このままずっとみんな同じで仲良くやっていきたいんです」
せっかく似たような立場のみんなと仲良くなれたのに、コネを使って抜け駆けしたみたいになって、気まずくなるのは嫌だから……それなら今まで通り、みんなと一緒な方がいい。親しい人に置いていかれたり、離れていかれたりしそうなことは、私にとって、どうにも耐え難い恐怖なのだ。
「――かくいう君は、もし友人が陛下の寵愛を受けることになったなら……嫉妬して疎遠になるのか?」
「いいえ、もちろんそれが友人にとって幸せならば、ぜったいに応援します!」
もちろんこれは、一片の迷いもない本心である。私が即答すると、サイード様は真剣な面持ちで口を開いた。
「ならば君も友を信じろ。その友情が本物であれば、必ずや君の幸せを願ってくれるはずだ」
「友情、ですか……」
友情だなんてそんな大げさなこと、考えたこともなかった。ただ一緒にいると楽しい、それだけの仲なのだ。そもそも最初にレイリが私に声をかけてくれたのは、ほぼ同時期に入宮して、ヴィラが隣だったからというだけで……そしてアーラも、人なつっこいレイリを介して仲良くなっただけである。
二人は私のことを、本当はどう思っているんだろう。正直言って、あまり自信はなかった。
「……やはり君のような人材を、後宮の奥に埋もれさせておくのは惜しい。君であれば、必ずや立派な御世継ぎを生んでくれるだろう」
言葉に詰まってうなだれていた私の頭上から、そう無機質な声が降ってくる。それを聞いた私は、なぜか無性に怒りがこみ上げるのを感じていた。
「そうですね。陛下の御子を産むため……そのためだけに、私たち妃はこの後宮で手厚く飼われているのですから。寵を望まぬ妃など、役立たずだと言うのでしょう? ああ、人質の意味もあるんでしたっけ。でも私なんかは、その役目すら果たせそうにないわ。ここへは、厄介払いされてきたんだから!」
こんなグチっぽいことを言うつもりは、なかったのに……陛下への不敬罪で処罰されても仕方がないし、こんなことは言うだけムダで、あきらかにバカな行為だ。でもなぜかこの人の口からだけは、そんな言葉、聞きたくなかったのだ。
――どうやら、一緒に過ごした時間が長すぎてしまったらしい。
「……少し、話を聞いてくれるか? 君さえよければ、少し庭でも歩こう」
本当は今すぐこの場から逃げ出してしまいたいけれど、私の立場で彼の提案を拒否することなんて、できるわけがない。私は黙ってうなずくと、彼が促すままに足を前へと動かした。ヴィラの間をつなぐ中通りを抜け、やがて広い庭園の外れにさしかかる。美しく整えられた植え込みの間を歩きながら、彼はようやく口を開いた。
「前にも少し話をしたことがあるが、この国は国土の大半を枯れ果てた永遠の砂漠に覆われ、農耕に向かない、人が住むには厳しい場所だった――」
――この中央砂漠地帯は西方の列強諸国や東方の大帝国といった豊かな国々に挟まれながら、東西交易の中継地点としてなんとか食いつないで来た地域である。だが大量の地下資源が発見されてから、事態は急転した。これまでは貧しい土地だと捨て置かれていたこの砂漠が、途端に最優先で奪う価値のある場所となってしまったのである。
アルサラーン陛下はそれにいち早く気付き、団結して砂漠の民の地位と権利を守ろうとしたのだ。だが現在のような陛下個人の御威光ありきの体制のままで、もし拠り所である陛下が倒れられでもしたら……砂漠の民はたちまち分裂してしまう――。
「――そのような事態を避けるためにも強い世継ぎを立て、皇家を取り巻く制度を拡充し、帝国を盤石なものとしなければならない。今陛下に必要なのは、一人でも多いお味方なのだ。後宮も、陛下の治世を助けるための重要な組織……妃たちには女性である前に、陛下の忠実な臣下たることが求められている」
厳しい表情で語っていたサイード様は、だがここで一転、どこか辛そうな表情を浮かべた。
「とはいえ陛下は、冷徹なように見えて……家族である妃たちの幸せを、誰よりも願っておられるのだ。どうかそれだけは、信じて欲しい。そうであってくれなければ、俺は、諦めきることが……」
彼はそこで言葉を濁らせると、自らの瞳を利き手で覆う。――こう言ってはなんだけど、今聞いたことはもう知っていたことばかりだ。だけどまさかこの人が、こんな表情を見せるだなんて。これじゃあ、まるで……。
「サイード様……まさか本当に、陛下のことを!?」
「……は?」
彼は目元から手を離すと、訝しげな視線をこちらへ向ける。私はその目をまっすぐに見つめ返すと……まるで自分に言い聞かせるかのように、拳を握ってしっかりとうなずいた。
「あの私、応援していますから。諦めずにがんばってください!」
「だから何故、そうなるんだああああ!!」
なぜか嘆くような、サイード様のらしくない叫びが……午後の庭園に、こだましたのだった。