第02話 『砂かぶり』
「本当に、一人で大丈夫かい?」
「うん、平気! 最近けっこう力もついてきたしね」
心配そうな顔をする家畜番のおかみさんに笑顔を返すと、私は大きな水瓶を抱えて立ち上がった。ずっしりと重たい瓶の中身は、さっきおかみさんと一緒に絞ったばかりの、山羊の乳である。
私は少しだけヨタつきつつも、なんとか無事に瓶を厨房へと運び込むと。休む間もなく野菜くずの入った籠を受け取って、屋敷の横手にある厩舎へと向かった。
屋敷と同じ薄黄色の日干しレンガでできた厩舎の中にいたのは、何頭かの驢馬、そして駱駝たちである。飼料桶から古くなった葉屑を掻き出すと、新しい飼い葉と野菜くずを桶いっぱいに詰め込んでゆく。すると待ちきれないかのように、長い鼻面が伸びてきた。
「おはよう! 今日もたくさん仕事があるみたいだから、しっかり食べてね」
話しかけつつ、温かな首筋をちょっと強めに撫でてやる。するとラクダは気持ちよさそうにその長い睫毛を瞬かせ、フフンと鼻息で応えた。
ここは砂漠の中ほどにある、とある大きなオアシス――私が生まれたのは、そのオアシスの街を拠点として辺り一帯を治める有力部族の、長の家である。東西交易の要衝にあるオアシスの街々は、かつては都市国家群とも呼ばれ、砂漠を行き交う隊商たちでいつも大いに賑わっていた。
その豊かな街の族長の孫として生まれた私は、幼い頃は何不自由なく育てられていた記憶がある。だが両親が八つで姿を消し、そして代わりに後見してくれた祖父をも十二の年に喪ってからは……毎日大人の使用人と同じ時間に寝起きして、働きづめの生活を送っているのだ。
「やあお嬢さん、今日も気持ちの良い朝で」
私が次々と桶を飼い葉で満たし続けていると、厩舎から厩番の青年が顔を出した。
「おはよう、こっちはもう少しで終わるから」
「後はオレがやっておきますよ」
「でも……」
「いいから、ファリンお嬢さんは少し働きすぎですよ」
そう言って、青年が朴訥とした笑みを浮かべた、その時。
「おい、小娘! また使用人に色目を使って手抜きしようとしているな!? まったく、血は争えんというものだ!」
不意に飛んできた怒号に、厩番はそそくさと厩舎の奥へと引っ込んだ。薄情なようにも見えるけど、下手に庇おうものなら私の立場がより悪くなるということは、彼もよく知った上での行動だろう。
今の私の形式上の養父は、祖父の跡を継ぎ族長となった、この伯父ということになっている。だが伯父は、『砂漠一の美姫』などと呼ばれ周囲から溺愛されて育った妹のことを、昔からあまりよく思っていなかったのだ。
部族のために定められた婚約者がいたにもかかわらず、このオアシスに研究のため長期滞在していた西方人との間の子――つまり私を身籠ってしまった母は、それを責める両親に向かって言った。
『彼との結婚を許してくれないなら、私、この街から出て行くから!』
娘に甘々だった祖父は『身重で砂漠を旅させるなどありえんだろう!』と、その一言で簡単に折れてしまったらしい。だが正反対に跡取として厳しく育てられていた伯父は、その扱いの差を不公平だと、ずっと苦々しく思っていたようなのだ。
「まったく、メス猫の娘はすぐ男を誑かそうとするから、油断できんわ!」
伯父はそう、忌々しげな顔をして吐き捨てると。しばらく私の、そして使用人たちへの愚痴を言ってから、ようやく立ち去って行った。……もしも両親がまだここにいてくれたなら、今ごろどんな暮らしをしていたのだろうか。
かつてこの砂漠の帝国と西方諸国との間に戦争が起きたとき、父ロードリックは『不毛な争いを止める!』なんて夢見がちなことを言って街を出た。すると『やっぱりロディと離れるなんて耐えられない!』などと言い出して、すかさず母アナーヒターもその後を追った。そんな二人が姿を消してから、早くも七年――戦争は数ヶ月で収束したにもかかわらず、未だ両親の消息は、不明のままである。
『父さま、母さま、なんで、むかえに来てくれないの……?』
幼い頃は、そう何度も泣いたものだけど――もはや残っている感情は、ただ、諦めだけだ。
私はそのまま午前の仕事を片付けると、昼食のパンをひと切れ厨房でもらってから、使用人たちが住まう離れにある自室へと向かった。真上に来た太陽は今日もじりじりと照りつけて、文字通り火傷しそうなほどである。
私は真っ赤に焼き腫らした顔をかばうように麻のショールをしっかり被り直すと、屋根の下へと向かう足を急がせた。この地に住まう皆より肌が日差しに弱いのは、西方人である父に似たせいだろうけど……この砂漠では生きづらい理由の一つになるだろうか。
ようやく自室の入口に到着した私はほっと一息つくと、靴を脱いで擦り切れた絨毯に足を下ろした。落ち窪んだ床が敷物の下で軋む音を聞きながら、狭い部屋の奥へと進む。
壁に打ち込まれた杭に脱いだショールを引っ掛けてから、私は部屋の隅に片付けていた籠の蓋を持ち上げた。中から出てきたのは、大きな赤い布地と色とりどりの糸である。私は布地を抱えて絨毯の上に座り込むと、黙々と刺繍の続きを刺し始めた。
この高価な色糸をふんだんに使った刺繍の布は、この国伝統の婚礼衣装に使われる。本来は、これを纏う花嫁が自ら刺繍するはずのものだ。だがこれは、私が着るためのものではない。刺繍を面倒がった義妹のアルマガーンが、私に押し付けて行ったのだ。
「ねぇ、ちょっと、まだできてないの!?」
噂をすれば影が差すというもので、断りもなく部屋に入ってきたのは件の義妹である。私より半年ほど遅くに伯父の一人娘として生まれた彼女は、この国の成人である十六歳になる今年、近隣の部族から婿を迎えることになっているのだ。
元はといえば、その縁談は祖父が私のために話をまとめてくれたものだったのだが――祖父の死後、気付けば義妹のものになっていた。もっとも、一度も言葉を交わしたことのない婚約者になんて、思い入れも何もなかったんだけど……よりにもよってその元婚約者に嫁ぐための花嫁衣装を私が刺繍しているなんて、笑い話にも程があるだろう。
内心げんなりとしつつ、それでも仕方なく顔を上げると。私は無難な解決策を提示した。