第01話 天国から地獄
――これは、役得すぎる!
私は薄絹の陰から会話する二人の様子を覗き見ると、内心で神に感謝の祈りを捧げた。
ここは、この国で最も高貴なる人物が政務の合間に休息するために、外廷の奥に用意された私室である。目隠しのように張り巡らされた、艶めく繻子織の天幕の向こうにおわすのは、うち一人はこの国の皇帝であるアルサラーン陛下。そしてもう一人は、その腹心とも噂される小姓頭のサイード様だ。
この広大な砂漠を擁するバームダード帝国を治める皇帝陛下は、来年四十を迎えるとは思えない若さの美丈夫である。戦場においては常に自ら先陣を切る覇王とも謳われた皇帝は、だが今は滑らかな毛皮の敷物に寝そべって、ゆったりとくつろいでいるようだった。彼の長い黒髪もゆるく解かれて、背後へと流すように広げられている。
そんな皇帝陛下のそば近くに控えたまま何かを報告しているらしきサイード様は、そろそろ少年ではなく青年と呼んだ方がしっくりとくる年頃だろうか。
本来であれば頭とはいえ妃である私よりも位が低い小姓である彼に対して『様』付けしているのには、理由がある。それは彼が皇帝陛下の姉の息子、つまり甥っ子であるためだ。髪色は陛下と同じくこの国で典型的な黒であるが、こちらは短髪である。
この国の小姓たちは、平常時は主人の秘書業務にあたる側仕えのような存在だ。だがいざという際の身辺警護を兼ねているだけでなく、戦時は主君の盾をも担う役目を持っている。小姓といえば少年が多く働いているのだが、中には彼のように武官と見まごう精悍な体つきをした者もいるのだ。
対する陛下は血に飢えた野心家だの首狩王だのと揶揄され恐れられている御方だけれど、こうして距離を置いて眺めているだけの自分にとっては、むしろそういった俺様系の要素は加点だとしか思えない。さらにはお二方とも見目麗しいお顔立ちときた日には、こっそり垣間見たいと思うなという方が、無理な話ではないか。
私は薄い幕の陰にうずくまったまま、二人の姿を脳裏に焼き付けるよう布地の隙間から凝視すると。やがて満足して、そっと身を起こした。
今回の取材は、もうこのぐらいで充分かな。それに、とっても良いものを見られたし……。
ニマニマとゆるむ頬に手を当てて、ほうっ、と思わずため息をついた瞬間――深すぎた吐息が、絹の幕を微かに揺らす。だが仕事のできる秘書兼護衛はその気配を見逃してはくれなくて、まるで薄布を切り裂くように鋭い声が飛んだ。
「誰だ!?」
「あ……」
悪気はなかったとはいえ、皇帝陛下とその腹心の会話を盗み聞きするなどと……これはさすがに弁明の余地がない。萌えに目が眩みすぎて、なんてことをしてしまったんだろう!
すっかり血の気の引いた私が、激しく後悔していると――素早くこちらに駆け寄ったサイード様は間を隔てる薄絹を跳ね上げて、呆然とする私の手首を捻り上げた。
「いっ!」
思わず声を上げる私に、彼は鋭く問いかける。
「そのお仕着せは、小姓のようだが……賊でないならば、所属と名を言え!」
小姓のお仕着せ、つまり制服を着ていた私は、とっさに用意しておいたいつもの言い訳を口にした。
「ぼぼ、僕は、第二妃マハスティ様付きの小姓で……名はアフシンと申します!」
「マハスティ妃の? お前の様な小姓に見覚えは無いが。謀るならば、ただではすまさんぞ!」
怒りに満ちた声が響き、掴み上げる手に一層の力が込められる。ここであまり食い下がっては、いつも取材に協力してくれているマハスティ様たちにもご迷惑をかけてしまうことだろう。私は観念すると、本当の名と身分を明かすことにした。
「私はロシャナク族のアーファリーン。偉大なる皇帝陛下、第十六の妃にございます。本当に、申し訳ございませんでしたーっ!!」
腕を掴み上げられたまま、精一杯に頭を下げる。すると僅かに捻り上げる方の力はゆるんだが、それでも手首は逃げ出せないよう、ガッチリと拘束されたままだ。
「お前……いや、貴女が妃、だと!? 陛下、如何でございましょうか?」
「アーファリーンと言う名には、余も聞き覚えがある。だが、かの第十六妃は顔を覆わんばかりの豊かな黒髪を持っていたような気がするが」
そう答える陛下の視線は、私の砂色の髪へと注がれている。この砂漠の民には珍しい淡い茶髪は肩にも届かぬおかっぱで、この国の女性としてはありえないくらいの短髪だ。化粧もしていないし、近くではほとんど顔を合わせたことすらない陛下には分からなくても無理はないだろう。
だが主人の証言に色めき立ったサイード様が、再び声を荒げた。
「お前っ、やはり間者かッ!」
「お、お待ちください! 私は本当にアーファリーンで、いつもの黒髪の方がカツラなんです!」
「仮に本当に妃本人だとしても、わざわざ外見を偽るなどと……初めから、諜報を目的に入宮したということではないか!?」
「ちっ、違います! あのカツラには、事情があるんです……」
こうして弁明を始めた私は、この後宮に来るまでの日々に、思いを馳せた――。