婚約は保留にしてほしい
爽やかな風と共に馬車から降りた私は、久しぶりに会うアルテミオに、果たしてどんな顔で会ったら良いものか分からなかった。
(幻影とはいえ、口づけを…)
記憶を、大切に何度もなぞる。
大切にしすぎて記憶の箱にしまうけれど、また取り出しては大切にしまって、そしてまた蓋を開けて取り出す。そんなことを繰り返すたびに顔が熱くなる。
でも、それをトノリーやレイランに知られまいと必死で平静を繕った。
玄関ホールに降りると、ズラッと使用人が出迎えてくれたので、何となく恐縮してしまう。
「お疲れでしょう、まずはお寛ぎ下さいませ」
と言われて応接間に通された。
しばらくするとノックが響いて、白衣姿の侍医が入室して一礼する。
「あちらでもガーゼは交換されていたと思いますが、傷の様子を見せていただいてもよろしいですかな?」
私はこくこくと頷いて袖を捲る。
もう殆ど瘡蓋も取れて完治に近かった。
「むう…これはいけませんな。跡が残ってしまっています。申し訳ありません」
「もとより覚悟しておりましたわ。なぜ謝るのです?」
そう言うと侍医は恐縮して診察の手を止めた。
その姿に微笑みながら言う。
「もう痛みもないし、幸いにも目立たない場所で良かったですわ」
「はあ、しかし…」
医者とて万能ではあるまい、なんだかこちらが申し訳なくなる。
侍医は、ひとしきり謝罪し退室した。
「気にされますな。彼はいつもああなのです。どうにも腰が低いのを通り越して自己肯定感が低い。ですが腕は確かですから」
レイランが言う。
「こちらも、早く良くならなくちゃという気になるわね」
廊下が俄に慌ただしくなるのを聞いて背筋が伸びた。
ノックもそこそこに扉が開く。
「リリー姫!」
やはりアルテミオだった。
レイランが咳払いをする。
「あ…すまない、レディがいる部屋に半ば突撃の様な格好で入室してしまいました。非礼を詫びます」
ふふふ、と笑うとレイランは言う。
「リリー様はお優しすぎます」
「おや、レイもご苦労だったね。勝手が違って大変だったろう」
「仕事ですから。なんら問題なく。後ほどご報告兼ねてお伺いします」
そう言ってレイランはお辞儀をして続けた。
「ですので、邪魔者は一旦退室しましょう」
「え、レイ!」
私の声掛け虚しく、扉は閉ざされた。
横目でアルテミオを見やる。
侍女にもきちんと労うことのできるアルテミオが好きだな、とそんなことを思って顔が赤くなるのを感じる。
彼の手がすっと伸びて、心臓が跳ねた。
「あ、あの、カードはすごかったですわ!魔力で離れていても、あのような…!貴重なものを送ってくださって…」
「リリー姫…」
「は、はい!」
「すまない」
突然彼は頭を下げた。
「婚約の件、一度保留にしていただけないだろうか?」
「え…?」
彼は頭を上げない。
「なぜ?なぜですか?」
「君のことを大切に思うあまり先走ってしまった。この城には滞在していて良い」
「それは…どういう…」
ぐっと姿勢を正して息を整えた。
アルテミオも顔を上げる。ほとんど泣きそうな顔だ。
「私のことを憐れに思って、一時の感情に流されましたか?それならば、私はもうここにいる事はできません」
「違う!そうじゃない!」
彼は大きな声を出す。
私はビクッと肩を震わせた。
「お願いですから…そのように大きな声…やめて下さいませ」
心臓がきゅっとする。
「すまない」
アルテミオは私の肩に触れようとする。
「おやめ下さい。婚約は取りやめるのでしょう?触れないでくださいませ」
違う違う!と彼は訴えた。
「取りやめるのではなく、訳あって保留にして頂きたいのだ」
彼はため息をついて居住まいを正した。
「聞いて、くれるかい?」
優しい、けれど悲しい声音は懇願するように言った。
「ええ」
アルテミオは目を伏せた。
目を落とすと、微かに手が震えている。
「もともと僕は鷹族の姫君と婚約関係にあったのだよ」
(別の女性がいらしたのですね…元から付け入る隙はありませんでしたのね…)
彼の言葉を邪魔してはいけないと思い、言葉には出さなかった。
「これは、一族間で結ばれた婚約、恋愛感情はもとよりない。それは信じて欲しい」
(信じろと言われても、私にはそんな余力はもう残っていないと言うのに)
アルテミオは続けた。
「君があの森で襲われて、この城に来るよりも前に婚約は破棄されたはずなのだよ。ところがどう言うわけか、婚約破棄に関する書状が鷹族に届いていなかった。三週間前のパーティの案内状の返事もなく不思議に思っていたら、昨日、滞っていた書簡が纏めて届いた旨を聞いてね。先ほど鷹族の王に会ってきたのです」
(つまり、婚約が白紙になる前に私に求婚したと…)
「あのパーティでの一件を、噂伝いで聞いた鷹族は不義理だと」
「失礼ですが、それはそうかと思います。鷹族の意向を聞いて書面上でも白紙になったことを確認した上で求婚されなかったのはなぜですか?」
私が滞在中たくさんのことを教わった王子の失態にはとても思えなかった。
「そう思うだろう?」
言ってアルテミオは紙を一枚差し出した。
見ると、イリス・セントナードの署名と共に婚約破棄について全て了承した旨が書かれている。
「鷹族の姫の署名だ。問い合わせたが本物の署名だ」
「もう、訳がわかりません」
二人の間にため息だけが漏れる。
「これまで本当に、ありがとうございました。私はこのままここを発ちます」
「待ってくれ、頼むから」
「鷹族の姫君と婚約関係が続いているなら、私がここにいる事はアルテミオ様にとってあらゆることが不利になりますわ」
「君は聡明だ。だが、僕のわがままを聞いて欲しい」
お願いだから、と言われて抱きしめられた。
「…離してください」
そう言っても抱き締める力は強くなるばかり。
ふわふわのグレーの髪が頬に触れる。
(この髪を撫でてみたかったわ)
アルテミオの髪の毛から5センチほど浮かせた空中を撫でる。
「君がどこへも行かないと約束してくれるまで離さない」
「その約束、破ったらどうなりますか?」
「全てを投げ出して地の果てまでも探す」
「……兎は追われることが苦手です。どうか、そっとしてくださいませんか」
「ずるい」
アルテミオは腕の力を緩めた。
「頼みがあるのだ…」
アルテミオは金色の瞳で訴えた。
続きは明日15時ごろ投稿します。
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