【第13話 勝利の宴】
第13話:勝利の宴
エストニア要塞は、アルディニアの手に落ちた。
その夜、要塞の大広間では、勝利を祝う宴が開かれていた。
長い木の卓には、肉料理とパン、酒の入った杯が並んでいる。
昼間まで剣を握っていた者たちが、今は肩を組み、互いの無事を確かめるように笑っていた。
勝った。
生き残った。
その実感が、ようやく少しずつ広間に広がっていく。
レオも、珍しく気が抜けたような顔でパンをかじっていた。
「石みたいなパンよりは、だいぶマシだな」
「それ、褒めてる?」
「かなり褒めてる」
そう言って、レオは小さく笑った。
僕も少しだけ笑った。
けれど、胸の奥には、まだ小さな違和感が残っていた。
ヴァルグ・レイヴェンハルトの姿を、僕たちは見ていない。
ルーナは言っていた。
虚空の腕輪を持つザルディアの将軍が、この戦いに参加するはずだと。
それなのに、エストニア要塞が落ちるまで、彼は一度も姿を見せなかった。
戦場には勝った。
けれど、何かを取り逃がしたような感覚だけが、ずっと胸の奥に残っていた。
広間の奥では、エクセリオン・ブレイズハートが杯を掲げていた。
「今夜は休め。だが、勝利に溺れるな。戦いは、これで終わりではない」
その声に、広間の空気が少しだけ引き締まる。
紅蓮の騎士団団長。
戦場では炎そのもののようだった男が、今は静かに傭兵たちを見渡していた。
その隣には、蒼玄の騎士団団長グラシス・ブルーレインズの姿もあった。
彼は杯を手にしていない。
ただ、広間のざわめきを冷静に見つめている。
宴は夜更けまで続いた。
笑い声も、歌声も、杯を打ち合わせる音も、少しずつ小さくなっていく。
一人、また一人と席を立ち、疲れ切った兵士たちが宿舎へ戻っていった。
僕とレオも、大広間を出た。
廊下に出ると、さっきまでの熱気が嘘のように消えていた。
石壁は冷たく、松明の火だけが細く揺れている。
「……終わったんだな」
レオがぽつりと言った。
「宴はね」
僕がそう答えると、レオは少しだけ笑った。
「嫌な言い方するなよ」
けれど、否定はしなかった。
僕たちは宿舎へ戻り、武器を壁際に置いた。
体は限界だった。
それでも、すぐには眠れなかった。
勝利の余韻。
戦場の音。
ヴァルグの不在。
虚空の腕輪。
いくつものものが、頭の中で絡み合っていた。
しばらくして、要塞全体が静かになった。
宴の声も消え、廊下を歩く足音もほとんど聞こえなくなる。
その静けさが、妙に冷たかった。
まるで、何かが起きる前のように。
虚無の将
深夜。
眠りかけていた意識を、低い衝撃音が引き戻した。
最初は、夢の中の音かと思った。
けれど、次の瞬間、壁にかけられていた小さなランプの火が大きく揺れた。
僕は反射的に体を起こす。
隣の寝台で、レオも目を開けていた。
「……今の、聞こえたか」
答える前に、もう一度音が響いた。
今度は、はっきり分かった。
何かが壊れる音。
そして、遠くで誰かが叫ぶ声。
「団長の部屋だ!」
その言葉が、廊下の向こうから飛んできた。
僕とレオは同時に動いた。
剣を掴む。
レオが斧を担ぐ。
扉を開けて、廊下へ飛び出す。
要塞の廊下は薄暗く、松明の光が石壁に揺れていた。
奥へ進むほど、空気が重くなっていく。
焦げた匂い。
冷たい魔力の気配。
そして、血の匂い。
エクセリオンの部屋の前には、
すでに数人の兵士が倒れていた。
扉は内側から吹き飛ばされたように壊れている。
中へ踏み込んだ瞬間、息が止まりそうになった。
部屋の中央で、エクセリオンが膝をついていた。
甲冑は裂け、肩から血が流れている。
何より目を奪われたのは、その腕だった。
紅蓮の焔石を宿していたはずの片腕が、
肘から先ごと失われていた。
床には、砕けた装具の破片が散らばっていた。
その中で、赤い魔石だけが転がっている。
紅蓮の焔石。
割れた石床の上で、それだけがまだ、
消えかけの火のように弱く光を放っていた。
エクセリオン団長は死んではいない。
けれど、もう戦える状態ではなかった。
紅蓮の騎士団団長は、
確かに戦場から引きずり下ろされていた。
その前に、一人の男が立っていた。
黒に近い銀髪。
影のような外套。
冷たい灰色の瞳。
そして、右腕に装着された黒い腕輪。
虚空の腕輪。
見た瞬間、分かった。
あれが、ルーナの言っていた神器だ。
男はゆっくりとこちらを向いた。
何かを呟いていた声は静かだった。
けれど、その静けさが、かえって恐ろしかった。
エクセリオンが、歯を食いしばりながら言う。
「ヴァルグ……レイヴェンハルト……」
その名を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。
虚無の将。
ザルディア王国の将軍。
虚空の腕輪を持つ男。
ヴァルグは、倒れかけたエクセリオンを見下ろした。
「さすが紅蓮の騎士団長だ。
即死しないとは思っていたが、本当にしぶとい」
「貴様……最初から、要塞が落ちた後を狙って……」
「勝利の後ほど、人は油断する」
ヴァルグは淡々と言った。
「宴が終わり、兵が眠り、英雄が一人になる。
その時を待てばいい」
「次は...」
その言葉に、部屋の空気が冷えた。
エクセリオンは生きている。
けれど、この傷では、すぐに前線へ戻ることはできない。
紅蓮の騎士団の柱が、折られた。
そういうことだった。
レオが斧を構える。
「てめぇ……!」
レオが踏み込もうとした瞬間、ヴァルグの姿が消えた。
完全に消えた。
そこにいたはずの男が、音もなく視界から消えた。
次の瞬間、レオの背後に黒い影がにじむ。
「レオ!」
僕は反射的に飛び出した。
振り下ろされる刃の前に、古びた剣を差し込む。
金属音が、部屋に鋭く響いた。
腕がしびれるほどの衝撃が走る。
受け止めたはずなのに、そこにヴァルグの姿はなかった。
刃の向こう側に、影がにじむように現れる。
ヴァルグだった。
彼はわずかに目を細め、僕を見た。
「反応したか」
その一言だけを残し、また姿が消える。
音もない。
気配も薄い。
ただ、部屋の空気だけが冷たく揺れた。
見えない。
どこにいるのか分からない。
虚空の腕輪。
その力は、想像していた以上に厄介だった。
紅蓮の魔石
部屋の中で、僕たちは完全に翻弄されていた。
音もなく消え、別の場所から現れる。
攻撃の気配だけが残り、姿は見えない。
レオの斧は空を切り、僕の剣も影を追うことしかできなかった。
「くそっ、どこだ!」
レオが叫ぶ。
その直後、彼の肩口から血が跳ねた。
「くっ!」
短い呻き声が漏れる。
続けざまに、腕、脇腹、太腿へ赤い線が走った。
見えない刃が、少しずつレオを削っていく。
レオは痛みに顔を歪めながらも、斧を振るった。
けれど、当たらない。
相手の姿が見えないままでは、どれだけ力を込めても届かない。
僕も剣を構えた。
でも、次にどこから来るのか分からない。
焦りだけが、胸の奥で膨らんでいく。
その時、エクセリオンの声が聞こえた。
「床だ……!」
そう思った瞬間、エクセリオンの声が聞こえた。
「床だ……!」
僕は反射的に足元を見た。
壊れた装具の破片。
その中に、小さな赤い石が落ちていた。
紅蓮の焔石から欠け落ちた、魔石の欠片。
それは弱々しく、けれど確かに赤い光を放っていた。
「拾え……!」
エクセリオンが血を吐くように言った。
「お前なら……反応するかもしれん」
意味は分からなかった。
けれど、考えている時間はなかった。
僕は床に手を伸ばし、その魔石を掴んだ。
熱い。
指先が焼けるようだった。
それでも、不思議と手を離そうとは思わなかった。
その瞬間、魔石が強く脈打った。
赤い光が、右手の中でほどけるように広がっていく。
石が消えた。
いや、消えたのではない。
右手に吸い込まれたのだ。
皮膚の内側を熱が走る。
血の流れに、炎が混ざったような感覚。
息を呑む。
同時に、古びた剣が震えた。
剣の奥に眠っていた光が、右手に宿った赤い魔力と呼応する。
胸の奥が熱くなる。
あの夜、ブラッドを消し飛ばした時と同じ感覚。
けれど、今度は違う。
ただ暴れるだけの力ではない。
手の中で、かろうじて形を保とうとしている力だった。
ヴァルグの気配が動く。
姿は見えない。
けれど、分かった。
来る。
僕は右手で剣を握り直した。
魔石の熱が、一気に膨れ上がる。
炎ではない。
ただ燃えるだけの力ではなかった。
胸の奥から、何かが弾けるように広がっていく。
古びた剣がさらに強く震えた。
赤い光が剣へ流れ込み、刃全体を包み込む。
部屋のどこかで、ヴァルグが初めて息を呑んだ気配がした。
「その力……」
言葉が終わる前に、僕は踏み込んでいた。
「これ以上、誰も傷つけさせない!」
叫ぶと同時に、剣を振り下ろした。
次の瞬間。
紅蓮の光が、部屋の中心で爆ぜた。
炎が走ったのではない。
爆発だった。
床が砕け、壁が軋み、天井の石が震える。
赤い閃光がすべてを飲み込み、部屋そのものが一瞬、巨大な火球に包まれた。
「エクスプロージョン!!」
叫んだ瞬間、紅蓮の光が部屋の中心で弾けた。
炎が走ったのではない。
それは爆発だった。
床が砕け、壁が軋み、天井の石が震える。
赤い閃光がすべてを飲み込み、部屋そのものが巨大な火球に包まれた。
爆風が吹き荒れ、轟音に飲まれた。
やがて、光が少しずつ薄れていく。
焦げた匂いが、部屋中に満ちていた。
壊れた家具。
砕けた石床。
焼け落ちた壁。
その中心に、ヴァルグ・レイヴェンハルトが膝をついていた。
黒い外套は焼け裂け、
さっきまでの余裕は、もうどこにもなかった。
「……まさか」
ヴァルグが、かすれた声で呟いた。
「ただの傭兵が……この私を……」
その体が、ゆっくりと崩れていく。
倒れる寸前、右腕から何かが外れ、床に落ちた。
黒い腕輪だった。
虚空の腕輪。
それは床の上で、弱く、鈍い光を放っていた。
ヴァルグの姿は、赤い残光の中で崩れ、
やがて影のように薄れて消えた。
残されたのは、焦げた床と、虚空の腕輪だけだった。
右手には、まだ魔石の熱が残っている。
紅蓮の魔石はもう形を失い、僕の中でかすかに脈打っていた。
古びた剣は、静かに沈黙している。
「フィン!大丈夫か!」
レオの声が聞こえた。
返事をしようとした。
けれど、声が出なかった。
視界が大きく揺れる。
足元から力が抜ける。
僕はそのまま、床へ崩れ落ちた。
最後に見えたのは、レオがこちらへ駆け寄ってくる姿だった。
残された腕輪
目を覚ました時、朝の光が窓から差し込んでいた。
知らない天井だった。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
体が重い。
右手が熱い。
昨日の夜の記憶が、少しずつ戻ってくる。
宴。
衝撃音。
エクセリオンの部屋。
ヴァルグ・レイヴェンハルト。
虚空の腕輪。
そして、爆発。
ゆっくりと体を起こそうとした。
低い声がした。
視線を向けると、レオが椅子に座っていた。
肩と腕には包帯が巻かれている。
「レオ……」
「こっちの台詞だ。お前、あのまま倒れたんだぞ」
「エクセリオン団長は?」
そう聞くと、レオの表情が少しだけ曇った。
「命はある。けど、傷は深い」
その時、部屋の扉が開いた。
入ってきたのは、グラシス・ブルーレインズだった。
その後ろには治療兵がいる。
グラシスは僕を見ると、静かに言った。
「目を覚ましたか」
「エクセリオン団長は……」
「命は取り留めた」
その言葉に、少しだけ息が抜けた。
けれど、グラシスの表情は険しいままだった。
「だが、前線復帰は不可能だ。少なくとも、しばらくはな」
部屋の空気が重く沈んだ。
エストニアを落としたはずの夜に、
アルディニアは大きな戦力を失った。
勝ったはずだった。
なのに、勝利の余韻はもうどこにもなかった。
僕は右手を見た。
魔石を掴んだ手は、まだうっすらと熱を持っている。
「あの時、紅蓮の魔石が……右手に吸い込まれました」
そう言うと、グラシスの目がわずかに細くなった。
「吸収された、ということか」
「分かりません。でも、消えたわけじゃない気がします。
まだ、ここにあるような……」
僕は右手を握った。
熱は弱くなっていた。
それでも、確かに残っている。
グラシスはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「神器も魔石も、人を選ぶ。
だが、選ばれた者が必ずしも幸福になるとは限らない」
その言葉が、胸に残った。
紅蓮の魔石、古びた剣。
そして、この世界の争いは後戻りできない。




