宝石びとの道案内
涙が暗闇のなかでわずかに落ちる、途方もない旅にいつ終わりが訪れるのか、光に手を伸ばそうとすると否応なくその手を現実が遮断する、虚無感が胸にこみ上げ、居ても立っても居られずに本当の姿を心の奥底に置いて、感情のない生き物のように装う。
『なにもないなら、なにもないままでいい』
『ただ、私だけは私という生き物を理解していたい』
「ここはどこ?」
ぐるりと周りを見回しながら孤独で寂しい顔を嫌でも作らされる。暗さに圧倒され闇と同時に恐怖というものがこの身に襲い掛かって来る、息を一瞬止め素早く手で目を覆い隠す、体がヨロケそうになり不意に足を動かすと、地面に生える草の音が地上であることを確認させてくれた。
風が音を立てて通り過ぎる。風に乗って緑の匂いや草などが体に触れてきた。私は暗さで薄くしか見えない自分の体を手で軽く払った。
私が女だからだろう汚れることを嫌う習性がある。
名前はミルネイ。イルミネーションからとった名前らしい……本当は良くわからないけど、ふと頭に浮かんだ言葉。なんかとても大切な言葉。たしか【ミルネイ】だったと思う。
「あれ? 私の顔ってどんなだっけ」
両手で頭を触り髪の長さを調べると、首辺りまで伸びてふわりとしている。
顔の頬を触ってみると少しふっくらしているような気がする。いまはこれくらいしかわからない、鏡があれば見えるのに……でも暗いから見えないか。
なんとなく覚えている私の顔。うっすらだけど記憶はある。
周りをよく見ると、星に薄く照らされる背丈の低い草原いた。風と共に聞こえてくる草の音色。それ以外はなにも聞こえない、なにも見えない。
見えない空間を見ていると頭がボーっとなる。その場に居ても暗闇が押し寄せてくるだけ、背中を押す風が止むと私は歩き出した。
暗い足元。踏んでいる地面。歩く音をしっかり確認しながら進む。
草が生えている地面が細く少し盛り上がっている、そこを踏み越えてまた進む、広々とした空間はいつしか木々をそばに感じる狭い空間になっていった。
真っ暗な深い森を手探りの状態で進む。少し歩き周りを確認してからふたたび歩く、地面の暗さで宙にいる感覚が頭を時々クラっとさせる。
ほんのひとつの小さな光だけでも見えれば希望が持てるに、一歩一歩と前へ進むのがやっとだ、木と木のあいだを通ったり、木の生えていないちょっと広いところを歩いたり、なにも背負っていないのに暗闇で体が重く感じる。
途中で少し立ち止まって夜空に浮かぶ星たちを木々の隙間越しに見上げていると、一陣の風が(ヒュー……)っと通り過ぎるのを体に感じた、そうしているとなぜだか不安な気持ちが薄らいでいくのがわかった。
しばらく歩いていくと、風に乗って虫やケモノたちの鳴き声が遠くや近くで聞こえてきた。オオカミやコオロギの鳴き声だと思う。なにも持たずに歩くのは危険なのかも知れない。でも、先入観は捨てようと思った。
歩きながら少し考えてみた。このまま歩いていって本当にいいのかと、このさきにはなにもないんじゃないかって。ここで立ち止まっていても見えない恐怖がついてくるなら歩いていくしかない、たとえこのさき、なにが起ころうとも歩き続けなければならないんだと。
前へ進め進める距離はほんの少し、その小さな一歩を少しずつ積み重ねていくことだけに集中する、怖いということをなるべく考えずに。
辺りの暗さに目を凝らしながら木や茂みを恐る恐る見ていくと、(ガサッ)と近くの茂みが揺れた心臓が一瞬止まり冷や汗が出る。そこからなにモノかが現れて襲ってくると思った。
恐怖を感じて身構える。しばらくのあいだ立ち止まりその茂みに視線を集中させるとなにごともなかったように茂みはただの植物へと戻った。
構えを戻し胸をなでおろす、小さなため息をひとつ吐き注意しながら茂みを通り過ぎようとした、そのとき。
音を立ててさきほどの茂みが大きく揺れるとなにモノかが前に飛び出してきた。その方向にとっさに身構えると暗闇に微かに浮かぶふたつの鋭い目が下のほうに見える。そこから聞こえてくる荒々しい唸り声は犬やオオカミの類のモノだった。
身構えながら目を逸らさずに、あとずさりをしていくと、体の輪郭だけがわかりケモノは一体だけと判断できた。相手が静止している隙に少しずつ距離を遠ざけて、足音を出来るだけ立てずに動いた。
(ガウッ!)威嚇する声が耳を走る。それと同時に体が怯みケモノが飛びかかってきた。私はとっさに両腕を前に出し防いだ。ケモノの牙が左腕の袖の繊維を咬みきり皮膚を掠める。その圧力に押されて背中を地面に打ちつけた。
「うっ」一瞬息ができず声が漏れる。
続けて首に咬みつこうとしてきた。私は両手でその顔を押し出す……しかし力が強く押し返されてしまう。その頭はズシリと重く両手の隙間をつらぬこうとしてくる。暗いからわからなかったが巨体だ私の体と同じくらいかそれ以上。
耳元で聞く悪魔ような唸り声は全身を震え上がらせる。『こっ殺される』死の恐怖が脳裏を横切り私は死に物狂いに体を動かした。
歯を食いしばりながら顔を押し返し足をばたつかせる。それから足でケモノの体を思いきり蹴り上げると少し離すことができた。起き上がろうとしたとき地面に生える草ごと土を掴む。ケモノはまたもや飛びかかってくる。わたしは慌てながら握っている土をそれに投げつけた。ケモノは一瞬怯み、顔を前足で拭っている。私はその隙に走った。
暗闇のなかを走るとどこを走っているのかわからない、どこに居るのかもわからない。
「あっ!」なにかにつまづいて地面に両手をつき転んでしまった。そのつまづいたところを見てみると手の大きさぐらいの石が転がっていた。一瞬の静寂が嫌な汗をかかせる。
「速く!」
唸り声が暗闇から聞こえて近づいてくる。
とっさにその石を拾った。重いが片手で持てないほどでもない。ケモノが牙を見せ暗闇から飛びかかってきた。私は持っている石を思いきりケモノの顔に叩きつけた、殴ってしまった嫌な感触が手に伝わり痺れる。
ケモノはふらつきながら起き上がり震えるような唸り声を上げると恐れたのか足早に逃げて行った。その影が見えなくなるまで目を離さず身構えを崩さず静かにたたずんだ。
影が消えると同時に風が辺りをざわつかせる。焦燥感に駆られる体を擦りながら頭上を見上げてみると木々が踊るように揺れていた。まるでいまの心境を嘲笑うように。恐怖を煽る風が止むと震えと緊張が緩み、その場に膝をついた。
「なんでこんな目に……」
体についた埃を手で払いながらケモノの狂った顔と声を思い出すと、また震えて動けなくなる。私はうずくまり私の体を抱きしめた。
静寂が辺りを包むと落ち着きを取り戻しゆっくりと歩き出す。どこか別の場所を探して歩きたいが、この道しか進む方向がなくあと戻りもしたくなかった。来た道を帰る方が進むよりも暗い感じがしたからだ。
私は一体どこを歩いているのだろう?
どこへ向かって歩いているのだろう?
なんの当てもなくただ歩くだけ。時々デコボコ道につまづきそうになる。
ひとり、私はなぜひとりなんだ? なぜ暗いと怖くなるんだ? ひとりだからか?
「あれは?」
暗闇のなかを歩いていくと遠くのほうで黄色い光がぼんやりと見えてきた。なにがあるのかわからない。光に間違いはないがあれは希望の光なのか?
近づくにつれて少し不安になる。こんな暗い森に光などあるわけがない。あの光はただの光ではなくなにか別のきっかけ、この暗闇を抜け出せるきっかけになるかもしれない。
そういう風に前向きに捉えることでこの不安な気持ちを少しでも抑え、恐怖を振り払いながら歩を進めていく。
不安それでも不安。不安はどんなときでもつきまとう。なにをしていてもつねに不安、その不安から逃げることはできないのかも知れない、逃げたとしても結局また別の不安がつきまとう、きっと永遠だろう。
光に近づくにつれて周りの景色が徐々にはっきりしてきた。その光をよく見ると脇に人影らしき者が映っていた。30メートルか20メートルさきになに者かが立っているのがわかった。
その者との距離が短くなるにつれて慎重に歩き始める、いまさらながら私は着ているものを確認した。黒いハーフブーツに黒いタイツに黒いロングスカートに黒い長袖のセーター。手で触りながら、そんな様な物だろうと思った。
黒色と決めたのは周りが暗くなにも見えないから。もし本当に黒色を着ていたら……この暗闇の森に溶け込んでしまいそうになる。
その人影を見ながら歩いていると、こちらを見ているのに気がついた。
どうしてわかるのだろう? こちら側から向こうは見えても向こうから光のないこちら側は見えないはずなのに。
そのとき。
「ねェェッ! ちょっとそこのアンタッ! 早くコッチへ来なよ!」
人影から聞こえてきたのは女性の嬉しそうな声だった。一瞬立ち止まり驚きと同時にわけがわからなかった。なぜ私を呼ぶのか?
ちょっと足早になり近づいて行くと、少しづつその人の顔や体などが見えてきた。左の手には杖みたいなものを持っていて、杖は女性の頭の上まであり、杖の先端にはランプがぶら下がっている。それは黄色の光を暖かく放っていた。
数メートルまで近づくと、そこは広い空間の中央に木があり、道が右側と左側にわかれている。その木を後ろに瑠璃色のドレス・ローブを身にまとった女性が立っていた。
よく見ると私より背が高く美形な体。軽めの気品さに満ちたその姿は微動だにせず、私が来るのを堂々と待ち構えていた。
顔は細身を帯び髪は胸の辺りまで伸びていて、前髪は目の辺りくらいで整えている。なにもかもお見通しのような澄ました瞳。唇には口紅を薄く塗っている。
彼女は笑みを浮かべながら私を見ている。私はオドオドしながら視線を下に向けて、自分の服装をなにげなく見た。すべて黒色だった。別に変えたいとは思わない。色はなんでも良かった。身にまとえる物があるだけで十分だったから。
私を見ながら彼女は言った。
「こんばんは」
私はすかさず顔を上げた。彼女は妖艶な笑みを浮かべながら唇を誘うように私の発する言葉を待っていた。きっとどんなに時間が経ったとしても。
「こんばんは」
……なに? この人、私になんの用が。
軽い会釈をしたあと、彼女が話しだすのを忙しなく待った。
彼女は私の怪しがる姿を見ながらも、右手を自分の胸に当てて言った。
「あたしはこの森の道案内を仕事にしている、【ラピスラズリ】っていうモンさぁこれからアンタを責任をもって道案内するからヨロシクね!」
彼女はさきほどとは違う優しい笑みを浮かべていた。相手が自分に危害を加えないとわかり安心したかのように。
なぜここに道案内人が? この人を信じて良いものなのだろうか?
彼女はなぜ私を疑わないのか? 疑問しか浮かばない。現時点で疑われているとしても、私を呼び寄せたのは仕事のためだから?
うつむいていると私を励ますように、軽く手を差し向けて言った。
「アンタ運がいいよぉ、次に来た人が最後って決めていたからね。アンタがその最後の一人さ!」
最後の一人、私が? 頭のなかの靄を払うように首を左右に振った。
「それはどういう意味ですか?」
訝しげに私は聞いた。
「まあ、特別って意味さ」
彼女は微笑むと首を傾げ、おどけて見せた。
「特別ですか? なぜ、私を?」
道案内するのか。私がここに来る途中で誰ひとり見かけなかった、彼女が確認できたお客は私だけ、私を確認したから衝動的に仕事相手だと思ったってことかな?
私で良いのだろうか、彼女から見たらどこの馬の骨かもわからぬ人なのに、どんな相手でも道案内をするという誇りみたいなものを彼女は持っているのだろうか。
私とは一体。なに者なのかもわからぬ自分を疑いながら指さした。
「それがあたしの仕事だからね」
そう言うと腰に手を当てて威厳に満ちた態度を取った。
彼女はなぜ私を疑わないのだろう。
仕事とはいえ初対面の人には疑いの目を少しは抱くはず。こんな暗い森に見知らぬ人がなにも持たず一人歩いているだけでもおかしいと思うものなのに、彼女の身に着けている金品などを私が欲して襲うかもしれない、もちろんそんなことはしないけど……金品? 私お金持っていたっけ?
服の外側からお金らしきもの小銭などを探そうと気づかれぬようにポケットなどを手で擦った。しかしなんの感触もなくなにも入っていないと思った。
「でも私、お金持っていません」
絶対にないとわかっていながらも、なにも入っていないスカートのポケットを必死で探った。それを見て、手を振りながら彼女は言ってきた。
「ふふ、いらないよ! お金なんか、もうもらっているようなものだから」
私はポケットを探るのをやめて微笑んでる彼女を見た。
「どういうことですか?」
彼女はなにかを思い返すように、虚空を見ながら答えてきた。
「うちの組織は、この森でアンタみたいになにも持たず迷い歩いている人を、少しでも迷わないように、光の下まで案内してあげるってのが仕事になっていて、報酬は最後まで責任もって案内をやり遂げたときにこの大地からもらえるのよ、だから……」
そして、安心させるように笑顔を見せて言ってきた。
「お金のことは気にしなくていいよ」
眉根を寄せて、疑わしそうに彼女を見た。
元々ここがどこだかわからない場所。お金という物が存在しない世界ならお金は必要ない。お金という言葉が通じている以上お金自体は別のなにかで存在しているはず。
「大地からもらえるの?」
彼女は微笑を浮かべながら軽く下を向いて、
「そうねぇまあ……大地からの恵みってやつかな」
それからまぶしそうに空を見上げた。
この暗い森のなかで、いままで締めつけられて冷え切った心が、ラピスラズリとやらに出会って急に暖かくなってきたのを感じた。
本当に良いのだろうか、知り合って10分ぐらいしか経ってない人を信じて……いいのかな?
でも悪い人じゃなさそうだ、この人を信じよう頼れるものがほかにないから、たとえ裏切られたとしても信じよう、自分の気持ちがその人を信じたいと出ているから、裏切られてもいい。そう自分に言い聞かせた。
彼女は出発の合図をするように杖を軽く振りランプを揺らす。
「じゃあそろそろ行きますか、あたしのあとについておいでよ」
分岐点を後ろへ振り返り、右側の道を目指して歩き始める。
私が彷徨っているから彼女が道案内をしてくれる、ここまではわかる。しかし私がなぜここに居るのかも、どこへ向かうのかもわからないのに、いったいどこへ案内すると言うのだろう。
行く手を阻むものはなにもなく、あるとすればうっそうとした草や茂み石などだった。
(ザッザッザッ)私たちのあいだを歩く音だけが響いていた。
歩き始めてからの彼女は無言だった、ただひたすら前を歩いて行く。それだけ真剣にいまの仕事をやり遂げたいと思っているからだろう。
歩くたびに、杖についているランプが揺れていた。
そのランプの光が照らし出している草や木の影を見ていると、なにか別の生き物のみたいに動いているように見えた。
『どこまで続くのだろう』
この森を抜けたさきに町みたいなものが存在しているのだろうか?
凛とする背中を見ながら歩いているとなにかを感じ取ったのか、彼女は振り返り声を掛けてきた。
「大丈夫? 疲れてない? まだまだ目的までの道のりは遠いから、休みたくなったらいつでも言ってよ」
「……はい」
そしてまた前を見ながら歩き始める。
彼女はどこへ行くからとは言っていない。ただついてきてとだけ言っている。目的の場所がどういうところでどのくらい掛かるのかぐらいは言ってもいいと思うんだけど。
『光の下までっていったい?』
ここで待っていれば、太陽が昇って明るくなるのになんでわざわざ暗い夜道を歩かなきゃならないんだろう?
歩きながら来た道を振り返ると、まっすぐな一本の道が暗闇に繋がっていた。
『どのくらい、歩いたのだろう』
周りを見ると草や木の繰り返しの退屈な風景が飽きを感じさせる。
そんな風景を延々と見ていると、どこまで行っても終わらない無限回路に迷い込んだオオカミのように思えてくる。
わけもわからずこの場所に立たされ、この暗闇によって否応なく歩かされる、目的と言うものがなくただ歩くだけだった。けれどいまは彼女のあとについていくという目的ができた。この暗闇の森から抜け出したい。
『でも私はなぜ……ここに?』
きっと伝えなきゃならない、伝わらなくても。言うんだ私。
「あの!」
私は拳を作り手に力を込めた。
「ラピスラズリさん!」
彼女は振り向き自分について来ていないのを確認すると、歩くのを止めて驚いた表情を見せた。
「ラピスでいいよ、もう疲れちゃった? じゃあちょっと休もっかぁ」
彼女は頭を片手で掻いて辺りを見回した。
少しの静寂が辺りを包む。
「ラピスさん、わたし」
様子が違うことに気づいたのか、言葉を慎重に聞こうと彼女は気構えた。
「どうしたの? 具合でも悪くなった?」
近づいてくると私の顔を覗き込もうとした。
「ん? アンタ背中が汚れてるじゃない」
そう言いながら、私の背中を軽く叩くように払った。
「なにかあったの?」
私は首を左右に振り顔を上げた。
「いえ、違うんですわたし、私がなぜここに」
目をつむり心のなかで願った『これは言っても良いことなんだ』と。
たとえ頭のおかしな人と思われても私は言う。奥に眠る勇気を奮い立たせて彼女に伝えた。
「私がなぜ、この森のなかに居るのかがわからないんです!」
心の声を大きく叫ぶと、ざわついていた情景は一瞬広がりそして小さくなる。
彼女は一瞬当惑した表情を見せると少し離れ肩の力を落として聞いてきた。
「アンタさぁアンタ? そういえばアンタの名前聞いてなかったね名前は?」
「……ミルネイです」
どこか恥ずかしく小声で答えた。
それに対してなにも心配することのないような明るい声で気軽に返ってきた。
「ミルネイかぁ、いい名前じゃん!」
私はなにかにすがる様な姿勢で、二、三歩前に出た。
「あの、わたしは!」
「ソウソウそれね、ミルネイアンタさぁ……暗いだろ」
そう言って杖についているランプをこちらへ向けてきた。
「エッ?」
変に驚いて目を開いた。ランプを見ていたが少し眩しさを感じて目を細めた。
それから私の眩しそうにしている姿を見て、彼女は杖を傍らに戻した。
「周りがさ、真っ暗な森のなかに居るだろ?」
と言いながら首を動かして辺りを指し示した。
「はい、居ますけどそれがなにか?」
暗い木々暗い草。地面が漆黒のような道。見ればなんの変わりもない風景。
彼女はなにかを感じるように目を閉じ軽く下を向き……。
「あたしにはネ……」
それから目を開け顔を上げて、優しい表情で辺りを見回した。
「見えるんだよ、くっきりとこの森全体が。あたしが見ている森は光に満ち溢れていて、草や木々その辺に居る動物たちだって見える。空からまばゆいばかりの光が降り注いでいて、鳥の羽ばたく音や川のせせらぎが心地よく聞こえ、木漏れ日や森を揺らす暖かな優しい風が吹いている……そういう場所にあたしは居るのよ」
彼女は身振り手振りでその場所を表現していた。
「つまり、アンタとあたしが見ている世界は、見ているものが一緒でもまったく別の世界に見えているってこと」
え、別の世界? 夜だよね? 理解しようと考えても見ているものが暗闇しか入ってこないため感覚が思うように切り替わらない。それでも真相を知ろうとその話を最後まで聞こうと思った。
「どっかの世界じゃ寝て起きたら自然と光がやって来てるって言う羨ましい世界があるっていうけど、この世界じゃそうは行かない、自分の足で光の下まで歩いていかなきゃならないんだ!」
そう言いながら、進む方向を杖で指し示した。
私は杖の指し示す道のさきを覗いて確認した。しかし、そのことといまの状況になんの関係があるのか理解できなかった。
「フフン、まだわからないみたいだね。アンタと最初に会ったときに言った言葉覚えてる? 『こ・ん・ば・ん・は』って言ったことあれはわざと言ったのよ、アンタはなにも気にせず平然と答えたから、あぁ暗い森に居るんだなってわかったんだ、そうわかったからあたしの出番てわけ」
「でも、そのランプの光は?」
私は煌々と輝くランプを指さした。
彼女は杖の先端についているランプをチラリと見て言った。
「ああコレ? このランプの光、アンタは見えてるだろ? でもあたしにはなにも光ってないただのランプにしか見えない。森を彷徨っているアンタみたいな人があたしを見つけてくれるためにあるものさ。このランプの光はアンタみたいな人でも、見える人と見えない人がいる」
「見える人と見えない人?」
見えない人……ここへ来る前もいまも誰ひとり出会っていない彼女を除いて。道案内の仕事ということは誰かを相手に案内しているわけだから、つまりヒト。人間以外の動物を相手にしていることはたぶんないよね。
「そう、アンタみたいにこのランプの光に気づいて近寄ってくる者もいれば、この光が見えなくて素通りする人や光に気づいても無視しながら通り過ぎてゆく人なんかがいてさ、それはそれで仕方がないことなんだけどね」
そう言うと残念そうに顔をしかめた。
「でも私はラピスさんの呼ぶ声がしたから、もし呼ばれなかったら、私はそのまま通り過ぎていたかも知れません」
ふぅ~っと、彼女は小さなため息を吐いた。
「ミルネイさぁ、あたしの声はアンタだけに呼び声をかけたと思い込んでない? 実はアンタ以外の人にもその呼び声をかけていたんだ」
「え?」
驚いたのは、その場所に同じ時間、同じ空間に居て誰も見当たらなかったということ、なぜ?
「私以外にも誰か居たんですか?」
「いっぱい居るよ、アンタには見えないだろうけど、アンタみたいに迷い歩いている人全員に声をかけたんだ、それで来たのがアンタってわけ」
彼女は答えを見出そうとする私に、まっすぐ見つめながら手を軽く差し向けた。
「でも、それでもラピスさんが私を見ていたから、もし見ていなかったら私じゃないと思って、聞こえなかったフリをしてそのまま」
通り過ぎていた、もしかしたらちょっと怖かったのかもしれない。
「あたしはアンタを見ていたんじゃない、アンタがあたしを見ていたんだ、あたしはだだ、ここに居ますよって伝えていただけなんだからさ」
(ヒュー……)と冷たい風が私たちのあいだを通り抜けた。
その風の音が消えると、静かに私は言った。
「私がこの真っ暗な森のなかに居るのはなぜなんですか?」
彼女は気分を変えるように少し空を見上げてから、小さな深呼吸をして言ってきた。
「そうね話がソレちゃったわね。それじゃあミルネイ、アンタはこの森に来る前のことをなにか覚えてる?」
一瞬、ときが止まったかのように私は考えた、そして。
「わかりません、なにも覚えていません」
本当になにもわからない、わかるとすればここまで歩いてきた経路。
「それなら話は簡単だよ。アンタはいま、『始まりの地点』に居るからさ」
「始まりの地点?」
『始まりの地点』と言われた瞬間、暗い森をひとりで歩いていたときの光景が頭をよぎった。
「そう始まりの地点。つまり最初ってこと、ミルネイは最初の地点から歩いて来てあたしを見つけた。そこからまたさきに進んでいるってこと」
始まりの地点に居る、事実がわかってもどこか現実味のない感じがしてなんか心細くなった。
「そのことと私がこの真っ暗な森のなかに居るのとなんの関係があるんですか?」
気がつくと、辺りにいる動物たちの鳴き声や草や木のざわめきなどが消えていた。
私はそれを感じて、辺りを少し見回したが、すぐに彼女に視線を戻した。
静かな空間に彼女の清らかな声音が響き渡る。
「暗闇はいつも光と出会うために始まる。手探りでさきの見えない不安な気持ち、そういうところから少しずつ光の射す方へ歩いて行くんだそれはミルネイ、アンタがそう望んだからさ、暗いところから光のある方へ歩いていきたいと」
そう言いながら彼女は持っている杖で進む方向を促した。
『そうだよ、この暗闇から抜け出すために光のある方へ行きたいと願ったよ』
でも、この暗闇自体私は望んでいない、この森も。
「でも私こんなことを望んだ覚えありません。よくわからないですけど、いつの間にかこの森を歩いていて」
私は押し寄せてくる暗闇を振り払うように周りを扇いだ。
「それは、いまのアンタ自身に必要な状況が訪れたのさ。暗闇のなかを歩いて行くことを望んでいない様に思えるかも知れないけど、自分の意思で自由にできない自然の力が働いて、いまそれをしなさい、いまの状況を乗り越えなさいって試練を与えているのよ」
私は怪訝そうに下を向き、地面に生える草を睨みつけた。
『面倒くさいもう疲れた、この森この空間、私にとってなんの役に立つって言うの?』
鬱憤を晴らすかのように幼い気持ちを言葉でぶつけた。
それは私のなかの悪いほうの力が招く悲観心がそこにあった。
「私、こんな試練なんかやりたくない! なんでやりたくもないのに苦痛に耐えなきゃならないの!?」
どうしようもなさに震え、地面に膝を突いた。
「ミルネイにはこれからすばらしいことがたくさん起こるんだよ、いま辛いのはそこへ行くための道のり、それを乗り越えたさきに幸せなことが待っているんだ。でも辛いことってのはつねに起こっているもの、だからその辛いことをできる限り最小限に抑えていく、美味しいものを食べたり、綺麗なものを見たり」
涙ぐむ私はとても小さく弱い人間でなにもできないただの生き物でしかないと。
絶対にそんなことないとわかっていても、心がもろく思うようにいかない、ほんの些細なことで崩れてしまう。
暗闇を歩くのが怖い。このさきなにがあるかわからない。きっと辛いことしかない、もう歩きたくない、もうこのまま……。
そのとき、静寂を破るように声が聞こえてきた、それは落ち着いた静かな声。
「翼が閉じて小さくなってるよ」
「砂で作った城が狭くなってるよ」
「怖がらずもっと自由に大きく広げてみて」
「あたしが側にいるから」
それは、聞きなれた彼女の声だった。
「ラ、ピ……スさん」
「別にいつも真剣じゃなくていい、なにも考えなくていい、ただのほほーんと生きたり、辛いなら辛いって言えばいい、少しでいいからほんの少しだけでいい、この暗闇から一歩……一歩前に出て欲しい!」
うつむく私は声のする方へ力なく顔を上げた。
「たとえこのさき、進むべき道を見失ったとしても、ミルネイはふたたび立ち上がれるはずだよ」
そのときなにかを伝えるような優しい風が、(ヒュー……)と私の怯える背中を押した。
この大地に立って私の支えがなにもないと思った、でも自分という存在を認識できる名前だけは小さくもあり大きくもある支えだと感じた。
『ミルネイ』という詩に。
それと……ラピスラズリと言うひとりの道案内人に出会えたことにも。
ゆっくりと立ち上がりながら私は言った。
「なぜ、私の名前だけはわかるんですか?」
「それも、アンタ自身が自分をそういう名前にしたいと望んだから」
私の気持ちのなかにあるなにかつっかえていたものが、不安と一緒に自然と消えていくのを感じた。
「フフン、そんなに深く考えなくっていいよ、ミルネイは生きて行けるんだから」
そう言って、彼女は後ろへ振り返りゴソゴソと胸のあたりに手を入れた、そしてまた私のほうを向いた。
「コレやるよ」
彼女は手のひらで転がる丸い石のようなものを見せてきた。
「これは?」
「綺麗だろ、ラピスラズリっていう宝石さ、あたしの名前と同じ宝石」
私はその宝石のもつ美しさに魅せられていた。
「どうして私に宝石を?」
「くれるのかって? それはお礼だよアンタに対しての、アンタがあたしを見つけてくれたからあたしはこうして生きていけるんだ、だからそのお礼さ」
ラピスラズリの宝石を優しく手にとって見た。不思議な色をしている。深い青、瑠璃色にその宝石は光り輝いていた。
上空を漂う星ぼし、完全なる暗闇などはなく、私の進むべき道を微弱ながら照らしてくれる。
最後までお読みいただきありがとうございます。