黒い炎 後編
母の葬儀は、簡素にも滞りなく行われる。
幼いミズネは悲しみに浸る間も無く、母不在の生活が始まった。
乳母やメイド達はミズネを気遣い、何かと寄り添う。
その親切心は嬉しいものの、ミズネの関心は別にあった。
何故なら——
母から湧き起こった黒い炎は、未だこの家を徘徊していたのだ。
徘徊というと人間みたいなので語弊があるかも知れない。あれはふわふわと浮かび、あてもなく彷徨っていた。
一度触れて以来、あの冷たく気持ち悪い感触が嫌でミズネは黒い炎を避けている。他の人達は、気づかずに炎をすり抜けていた。どうやら何も感じないらしい。
(なぜ?)
この黒い炎が留まるなんて、視たことがなかった。炎は人の形どころか、一時も同じ姿をしない。動きも意思を感じさせず、至って不気味だ。
暗闇で対峙すると、仄かに明るい。どうやら真っ黒でも無い。幸か不幸かミズネに危害を加える様子もないので、しばらく静観していた。静観というか極力その存在自体に気付いてないかのように、生活を続けた。
(怖い……)
理解できない対象が身近にいるのは、恐怖である。
相手に意思があるのかすらも、分からない。
それに子供のミズネしか視えていないので、尚更だ。
仮に襲われても、助けを呼べない。
頭がおかしくなったと思われるのがオチだ。
ミズネは御守り代わりにと思い、母の形見である龍笛を腰にぶら下げた。実家から持参した唯一の物と語っていた母を、時折手にとって懐かしむ。
やがて服喪を終え学校にも通い始め、再び平穏な日々が訪れる。ただあれ以来、ミズネは目の前で毒見係が確認した食べ物しか口にしなくなった。だから、学校には弁当持参である。
上流家庭の子供達が通う学校とは言え、ミズネやアシュリート、ヴィクトスら御三家は別格。久しぶりの学校は、以前にも増して皆がミズネの一挙一足に注意を払い、何かと余計な気を使う。
下校時、アシュリートとヴィクトスが下駄箱前で待ち構えていた。
「ミズネ、元気?」
「ああ、アシュー。おかげ様で」
「どうだ、一緒に寄り道しないか? 近くに美味しいケーキ屋ができたんだ。紅茶も絶品だ。家の方にも許可は取っておいた」
「そうなの? じゃあ、行く」
3人で下らない話をする時が、一番楽しい。
だが彼らにも、黒い炎のことは言えなかった。
そんなある日の朝、乳母のカトレアが起こしに来ない。
代わりに来たメイドに、理由を尋ねた。
「どうも、体調が優れぬようです」
しばらくして、辞めたと人づたえに聞く。
小さい頃から、一番慣れ親しんでいた乳母だ。
別れの挨拶をしたかったが、ついぞ会うことは叶わなかった。
新しい乳母は直ぐにきた。可もなく不可もなくだ。
それからしばらくして、別のメイドが辞めていった。
心なしか、黒い炎は勢いを増している。
屋敷に暮らす人達の表情も、暗くなった気がした。
それから更に一ヶ月後——
「大変です! 旦那様が!」
本邸のメイド達が緊迫した顔でやってきた。
ただならぬ様子につられて、ミズネも本邸に向かう。
そこでは当主グリオ・ゴリア侯爵が、あの黒い炎に包まれていた。
人に取り憑くと、更に黒く視える。
「うぅ、ぐっ、苦しい……」
祖父グリオは喉をかきむしり、ベッドの中で呻いている。周りにいる者は為す術なしと言った風で呆然としてた。高熱らしく、額に水を濡らしたタオルを乗せても直ぐ乾く。間もなく医者がやってくるものの、やはり打つ手なしといった表情で帰って行った。
二日後、呆気なく亡くなる。母と違い、葬式は盛大に執り行われた。
父が当主になったらしいが、ミズネには関係なかった。
だが、黒い炎は消えない。
それどころか一層勢いを増し、あちこちに出没した。
母に加えて、乳母や祖父から出た炎も合わさったようだ。
以前よりも攻撃的に視える。
炎を通り抜けたメイドには、決まって体調に異変が起きる。
そんな事、今までは無かった。ミズネは身の危険を感じ始めた。
「ミズネ様、すいません……少し休ませてください……」
代わりを雇っても直ぐに倒れ、そのまま帰ってこない。
使用人がみるみるうちに減っていく。
ゴリア家は、いつしか呪われた家として噂に上がる。
一年前までの賑やかさが、嘘みたいだ。
そして——
あの日は、特に暑かった。
ミズネは寝苦しく、夜中に何度も寝返りを打った。
パチパチ、
パチパチパチ……
ミズネは眠りが浅い方だ。少しでも異変があると眠れなくなる。
耳慣れぬ音で目を覚ますと、焦げ臭い匂いがした。
(なに、これ?)
本能的に、命の危機を察知する。
ミズネはベッドから起き上がり、廊下に出た。
そこには、異様な光景が広がっていた。
(え?)
廊下は昼のように眩い炎が、所狭しと暴れまわっている。真っ赤な炎の中にどす黒い炎も混じり、派手に燃え盛る最中だ。
(火事だ!!)
このままにしたら、確実に燃え広がり家は焼け落ちる。そうでなくても、煙が充ち始め息苦しくなってきた。平屋なので窓から逃げれば大丈夫そうだが、眠っている人も未だいる。
「みんな起きて! 火事! 逃げて!」
ミズネの声に、寝ていたメイド達が反応してゾロゾロと出てきた。寝ぼけ眼だった彼/彼女らも、廊下の状況を見てとたんに大騒ぎになる。
「水を早く!」
「うわ、もう無理だ!」
「逃げて、ミズネ様!」
混乱の最中、火に巻き込まれる前に家を逃げ出す。
巻き込まれた人はいなかったのが、幸いだ。
けれども、消化作業は焼け石に水であった。
翌日、母との思い出も灰燼となった屋敷の前に、ミズネ達は呆然と立ち尽くす。これからどうしたら良いのだろうかと、みな途方に暮れている。
(まだいる!!)
だが無慈悲にも、黒い炎は残っていた。
焼け跡に浮かぶ炎をみて、ミズネは絶望する。
そんな中、一人の老人がやってきてミズネに声をかけた。
坊主頭で袈裟を着ている。落ち着いた姿は、徳のある僧侶のようだ。
「ミズネ」
呼びかけられた声に反応し振り返ると、それは母方の祖父ペトラだった。年に一度ぐらい会っていたから、ミズネも覚えていた。
「おじいさん!」
意外な訪問客に驚いたものの、ミズネは信頼できる大人が来てくれて安堵した。祖父ペトラはオロソ国教の僧侶で、僧正の位を持つ。悪い噂もなく、ミズネが心許せる存在の一人であった。
「辛かっただろう」
祖父の顔は優しくも、ミズネの陥った苦境を十分に理解していた。
「うん」
返事はするものの、やはりあの黒い炎が気になる。その不自然なミズネの姿を見て、ペトラは問いかけた。
「もしかして、ミズネはあの炎が視えるのかい?」
「え? おじいちゃんも?」
「ああ。少し待っててくれ」
そういうと祖父は数珠を取り出し、念仏を唱え始めた。
「あ、消えていく!」
ミズネが驚いたように、炎はペトラ僧正によって霧散した。
「これで、大丈夫だ。安心して良い」
「ほんと?」
祖父の温かい言葉に、ミズネは気が楽になった。
(良かった……これでお母さんも……)
「あれ?」
気付くと、ミズネの目から涙がこぼれた。
母の葬式の時も泣かなかったのに。黒い炎の恐怖から解放され、張り詰めていた緊張が解け始める。そうなるとミズネは自分の内から湧き起こる感情が、制御できなくなった。母との楽しかった日々は、もう来ない。頭ではそう思っても、心の中では葛藤する。やりきれない気持ちだけが残り、それを処理する手段は限られている。
(うわぁあん!! お母さん!!)
母の死以来我慢していた想いが堰を切ったように溢れ始め、一度こぼれ始めた涙は止まらなくなった。
「ごめんなさい、おじいさん」
「いいんだよ。我慢しなくて」
祖父はミズネを優しく抱きとめ、泣くがままにさせた。
その後、ミズネは祖父に引き取られることになった。
そこで、あの炎のことも知る。
【憐魂火】と呼ばれていること。
原因は謎であるが、我欲にまみれた人間や、恨みを残して死んでいった人間から強く発せられること。場合によっては他人に取り憑くこと。
位の高い僧正の念仏などで消え去ることもあるが、対処法は難しいこと。
やがてミズネは成長し、辛い思い出も昇華していく。
* * *
そして現在、オロソ歴326年——
「……さま、ミズネさま?」
「はっ! ああ、ごめん。寝てたね」
朝の祈祷も終わり部屋に戻ったら、いつの間にかまどろんでいたらしい。
理由は分かっている。今日は母の命日。
あの頃を思い出し、昔の記憶が蘇っていたようだ。
「何か用?」
「いいえ、お疲れのご様子で気になったものですから」
「ありがとう、大丈夫」
「では」
彼女が去ると、またひとりになる。
(もう、十九年か……)
あれからゴネラ家は没落した。当主となった父の力量不足は明らかで、バンプーセントラルを始めとした怪しげな輩に食い荒らされている。偽物が上に立つと、悲惨だ。
ミズネが成長するにつれ、当時の話もぽつぽつ聞けた。
どうやら祖父が乳母カトレアに、お母さんと私を毒殺を命じたらしい。カトレアは私に毒を盛るのは出来なかったようだ。あの【憐魂火】が母の怨恨であったとするならば、復讐を果たしたとも言える。全くもって、つまらない話だ。
こんなウンザリする事ばかりだから、4人で第四騎士団を立ち上げて着々と準備を進めてきた。順調ではあるけれど、嫌な予感もする。
ミズネは久しぶりに机の引き出しから、形見の龍笛を取り出す。
そして御堂に行き、鎮魂の歌を奏でた。
綺麗ながら哀愁を帯びた笛の音は、遠くまで静かに染み渡った。




