黒い炎 前編
視え始めたのは、何時からだろう——
ハイハイを覚えたように、それは自然なことであった。
皆とは違うとミズネが気付いたのは、7歳の誕生パーティーの時からだ。
オロソ国で、7歳の誕生日は特別な意味を持つ。その日ミズネは伝統衣装を着込み、母や乳母達と暮らす北離れの屋敷から駕籠に乗せられ、敷地中央にある豪勢なゴリア家本邸に向かった。
姉達の時は不参加だったし、歩きづらいけど百年以上も大切にされてきた衣装を着るのは楽しみだった。丁寧に織られた紅の布地に蝶や鶴の刺繍が鮮やかに縫い込まれたそれは、この時しか着られない。普段暮らす屋敷の十倍以上も大きな本邸で自分が主役となるのも、ミズネには初めての体験だ。
「ミズネ様の御来場です!」
駕籠から下りて会場に入ると楽隊が演奏を始め、万雷の拍手が鳴り響く。ミズネは母に手を引かれ、ミズネの為に開けられた路を通り壇上に向かう。
ワァ〜!! おめでとう!!
ミズネさま〜!! お誕生日おめでとうございます!
(うわっ、人がいっぱい!)
普段なら端から端まで駆けっこし放題の大広間が、足の踏み場もないほど大勢の人でごった返している。学校の友達は所在なげにキョロキョロしている子もいたが、ミズネの登場で安心したようだ。それに対し場慣れしているアシュリートやヴィクトスは、大人達と会話を楽しんでいる。そう言えばアシュリートのお兄さん、GBガブリエルも参加していた。
壇上に着き、一礼の後そのまま席につく。
母に加え、父やおじいさんも一緒だ。
背後には、色とりどりの花に囲まれて大きなミズネの肖像画が飾られていた。
有名画伯の手によるものだが、モデルの時じっとしてるのは辛かった。
「本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございました。神も爽やかな青空で祝福しております。それでは、ミズネ・ゴリア様のお誕生パーティーを始めさせていただきます。では乾杯の音頭を、アラード・ゴリア伯爵から」
「あーご紹介にあずかったアラードです。高い席から失礼いたします……」
大叔父の挨拶は長いので省略。
「それでは乾杯いたします。かんぱい!」
かんぱぁーい!!
パーティーが始まり、会場は再び賑やかになった。
しばらくすると、客人達が挨拶しに壇上までやって来る。
「まあ、今日は何時にもまして可愛いわね」
「ありがとうございます」
言われ慣れた言葉に、ミズネは反射的に笑顔で返す。子供らしい可愛げなミズネの笑顔に満足しながら、客人は両親への挨拶を続けた。
(ふう、思ったより大変……)
責任感で頑張っていたものの、やがて客人のお目当てはミズネや両親のイワヤ・ゴリアとナミノ・ゴリアではなく、当主グリオ・ゴリア公爵である事を、ミズネは悟った。
がっしりとした体格は威圧感があり、齢61でも老いを感じさせず血気盛んである。偉そうな大人たちが、祖父の前では卑屈に小さくなっている。
曽祖父のドデス・ゴリアはミズネが生まれた頃に亡くなった。
だからあの頃の祖父は、権力の絶頂にいた。
思っていたより楽しめず、ミズネは退屈になる。
早く壇上から下りて、皆と遊びたい。
だがこの後は、余興で母と一緒に演じる舞が控えていた。
宮廷楽師から猛特訓を受けたので、とり止める訳にもいかない。
それにミズネも、母が奏でる龍笛で舞いたかった。
(ふぁあ〜)
思わずあくびがでそうな時、一人の男が挨拶に現れる。
側から見れば、何の変哲もない男だ。
その他大勢と同じく、無難に挨拶をこなそうと待機している。
だが彼を纏う黒いモヤを見て、思わずミズネは指差して口走った。
「あの人、黒い」
ミズネには、こう視える人が時々いた。
だから本人にとって、自然と口にした言葉だった。
モヤのような、黒くゆらめく炎。
幼なじみのダーシャからも、事故で死んだ直後に視えた。
だが何気なく出たその言葉が、周りを慌てさせる。
当人は埃を気にして服をはらうものの、塵ひとつ出ない。
そんな男を、周りは冷ややかな眼で見ていた。
どうも、彼に良い印象を持たない人が多いようだ。
「日サロ行き過ぎ?」
「確かに黒いかな」
「え? そう?」
周囲のざわめきを感じ、父はミズネを窘めた。
「こら、ミズネ。お客様に失礼ではないか」
「ごめんなさい」
「いいさ、お嬢ちゃん。お誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
くだんの男性は人前でもあり、少し顔が引きつりつつもミズネに挨拶する。
思わず口をついて出たけれど、人前で黒い炎を語ったのはこの時が初めてかも知れない。黒いモヤモヤは相変わらず消えないものの、ミズネは誰もそれを視ていないと知り、気まずさで俯きながら挨拶を返した。
* * *
数日後、パーティーも恙無く終わり日常に戻った土曜の昼食時、母が話しかけてきた。いつも食事は一緒にするが、別に説教されたり学校の生活を詮索されたりはない。なので、母から話しかけてくるのは珍しい。
「そう言えばミズネ、あの時のおじさん、覚えている? 黒いとか言ってた」
「あ、はい。すいませんでした。失礼なことを言って……」
母も不愉快だったのだろうか? そうすると申し訳ない。
恐縮してしまうミズネだが、母の話は違った。
「先ほど連絡があって、亡くなったそうよ」
「え?」
「あの人、新興宗教の教祖だったけれど、お弟子さんに刺されたみたい」
「そうなんだ……」
子供にはトラウマになる話だけれど、母は平然としていた。その後は何事もなく食事が終わり、母とミズネはそれぞれ自分の部屋に戻る。午後は学校の課題を軽く済ませ、好きな本を読んで過ごした。
ミズネの世話は、小さい頃から乳母達の仕事だ。
母とは、親子というより単なる同居人みたいな関係であった。
感情を露わに出すのは父と喧嘩する時ぐらいで、ミズネには冷淡というか無関心にも見える。でも食事はいつも一緒にとるし、遊んでくれる時もあった。仲が悪いと言うほどでもない。
母と一緒に暮らす離れの屋敷は小さい。母親が本妻だと知ったのは、思い返すとあの誕生パーティーだったかも知れない。ただあの頃は本妻と妾の意味も、あまり良く分かってなかった。
姉二人に兄一人いるものの、微妙な関係だ。
姉達は妾の子、兄は叔父からの養子だった。
懐妊しない母に痺れを切らしたおじいさんが、叔父アルマの次男タイトを養子にしたそうだ。その後に生まれたのが、ミズネだった。
このせいで、両親の立場は更に悪くなったらしい。ミズネの記憶でも両親は喧嘩ばかりで、仲が良さそうには見えなかった。だから父がこの家を訪れる機会は少なく、あの時のパーティーで会ったのも久しぶりだ。
「ミズネ様が男だったら……」といった陰口も何度か聞いた記憶がある。
何で? と心の中で思ったが、表立っては言えなかった。
自分を取り巻く環境に解せないものを感じつつ、ミズネは庭で遊んだり本を読んだりして平凡に日々を過ごしていた。その中でも、母が奏でる笛を聞くのが好きだった。贅沢な生活ではないけれど、ミズネは満足していた。
* * *
だがそんなある日、転機が訪れる。
その日は珍しく、母が後から食卓に来た。
(あ……黒い……)
あのおじさんと同じく、母にうっすらとした黒いモヤがかかっている。
「ミズネ、どうしたの?」
いつもと違う表情を見せるミズネに、母は訝しむ。
だがミズネは「うんうん、何でもない」と言うしかなかった。
(言えない……)
母に言っても、信じてもらえないだろう。だがあの炎は、不幸の予兆だ。今から母に何かが起こるのだろう。けれども、ミズネがずっと母を見張るのも限界がある。
数日に渡って悩むものの、良い解決法は無かった。
その間、心なしかその黒いもやはくっきりと輪郭を現してくる。
* * *
あの日の事は、よく覚えている。
梅雨明け前の、どんよりとした曇り空だった。
昼食も終わり、食後のお茶をメイドが持ってきて、母が飲む。
ミズネにはオレンジジュースが与えられた。何時もの事だ。
「うっ……ち、ちょっと……」
突然、目の前にいる母が苦しみ始めた。
(え?)
何が起きたのか、ミズネには理解ができなかった。だが胸を押さえこんで苦しみ、真っ白な肌が赤黒くなり始めた母に、異常が起きたことは分かった。
「おかあ様! 大丈夫? 誰かっ! 早く来て!」
今まで出したこともない大声を出して使用人を呼ぶと、数人慌ててやってきた。母は椅子に座るのも辛そうにしている。
「う、」
母は嘔吐し、持ち寄られた簡易ベッドに載せられた。
至って健康だった人間が急激に命を搾り取られ、消えていく。
普段は当たり前であった日常の暗転は、思いがけないものだ。
(あ、)
母が部屋から出て行く間際、どす黒く大きな炎が彼女から立ち昇った。
その炎は、母から離れていく。
「お母、さま?」
皆は彼女の肉体にだけ夢中で、そこから出た黒い炎には注意を止めない。
視えてないのだろう。
母が運ばれいなくなった後、ミズネはその炎に近づきそっと触れてみた。
!!
それは、氷のように冷たい炎だった。
夜、ミズネは母の死を知らされた。




