第八話 消耗戦
雨にけぶる草原。夏であっても、その雨足は草原に整列する戦士たちの体温を惜しげもなく奪っていく。背筋に走る寒気は、そのためなのか、あるいは決戦の予感なのか。灰色の影として見えるゴブリンの群れは、今までで一番規模が大きい。数百はくだらないだろう。
対して、見習いまで駆り出した教会騎士の戦力、百と少し。一人当たりに課されるノルマを思えば今までとそう変わらないのだが、それは疲労の積もった騎士たちにとって気休めにしかならない。
されど、彼らはこの街の最大にして最後の盾なれば。
「奮い立て、騎士たちよ! ついに敵の首魁は姿を見せた。あの魔獣が我らの最後の敵である。女神の加護を受けしわれらの進軍は、魔なるもののあらゆるを弾き、勝利をもたらすだろう! そして、わが剣が必ずや、あの醜悪な魔獣の首を落とす!」
ギルバートの演説が曇天の下で響く。簡易な台の上に立つ彼を、太陽のように見上げる百数名は、彼の抜き放った剣に歓声を爆発させる。
「あー? 何やってるの、あの人たち」
「ごまかしてるのよ。これから、死ぬかもしれないんだから」
「変なのー」
そんな熱気の端に、フィアたち三人の姿がある。うずうずして、今にも駆けだしそうなノインは、士気を高める騎士団を見て不思議そうな顔をしている。それは彼女の理解から遠いところにある行動だ。対して、フィアはあそこまでの信頼を得ているギルバートを評価しなおしていた。本来ならこんな地方に収まる器でないだろうに、きっと偏屈な真面目っぷりで貴族の顰蹙を買い、その優雅な嫌味に暴発して左遷されたのだろうと、彼女は最初に持った印象を固めなおす。
「お姉様。捉えました!」
そうしているうち、アハトが敵状の観測を終えている。魔術視を用いていた彼女の周囲には、その魔力が冷気として漏れ出した証として、凍った雨滴が転がっている。
「ゴブリンが大多数なのは変わりないですが、その中にホブが混ざっているのが厄介ですね。十数体いるんで、そのど真ん中で広域殲滅魔術を使うのは危ないでしょうね」
お姉様の大魔術が見たかったのに、そう泣き崩れる真似をするアハト。
ホブゴブリンは、ゴブリンリーダーがより戦闘向けに進化した姿だ。筋骨隆々の体躯はもはや人間とそん色がなく、その腕から繰り出される一撃は、こん棒であれば標的を容易にひき肉に変え、鉈であれば世にも珍しい人間の三枚おろしを作って見せるだろう。防御力も上昇しているから、フィアの魔術では掃討しきれず、その後の隙を狙われるリスクがある。
加え――
「魔獣も、ちゃんといるのよね」
「えぇ。オーガですね。それが本当にゴブリンを生み出す魔法を使えるのなら、そもそも殲滅する意味がないです」
「そのとおりね」
「あー! オーガかぁ。どんなのかな。スケイルかな? フレイムかな? それとも、ポイズン?」
「ノインがそこまで詳しいなんて、珍しい。でも、ゴブリンを増やせるなら、たぶん新種ね」
普段なら、麒麟すらお馬さんと呼ぶノインがオーガ種のその多様なバリエーションを口にするのに驚きつつ、フィアは考えをまとめていく。
オーガ種は人の二倍の背丈を持つ、怪力の人型魔獣だ。ゴブリンの緑の肌は、返り血に赤黒く変色し、魔核により変質した身体にはゴブリンにはなかった魔法器官が生まれている。その独特の魔法の性質により、スケイルオーガやフレイムオーガと呼び名が変わる。今回は増殖の性質を持つようだから、マルチプルオーガとでも言ったところだろうか。
そのマルチプルオーガがいる以上、この軍勢を打ち破る方法はたった一つ。
「だったら、一気に本丸を叩く以外に、道はないわね」
「もしかして、しょーめんとっぱ?!」
「ほんと、何で嬉しそうにできるんですかね。あぁ、アハトちゃんの可愛さが返り血で汚れちゃいますよ……」
フィアの提案に、げんなりするアハトと、興奮が隠せないノイン。
本来接近戦に向かないフィアとしても、正直気乗りはしないのだが。だんだんと輪郭のはっきりしていくゴブリンたちの、その奥にオーガがいるのは明白で、迂回するには数が多い。やるしかない。
何より。マスター・ジーンの研究書を時折盗み見ているフィアは知っている。魔物の中で唯一、知性を持つとされる竜のように、人間に近しい魔獣こそ魔装乙女の素材に向くのだと。知性はともかく、形状は完全な人型に近いオーガの素材は、彼の研究を進める手助けになるに違いなかった。
ならば、危険に踏み込む価値がある。
一つの懸念点として、戦いを長引かせ、ゴブリンたちが街に入ってくれた方が忌子狩りをしやすいというものがあるが、事態がフィアとアハトの予想通りに進んでいるのなら、その心配もない。
地響きが近づいてくる。数百の足音は、もはや巨大な百足の魔獣が近づいてくるような威圧感を持っている。
ぶつくさ文句を言っていたアハトも、さんざん言ってようやく吹っ切れた様子だ。腰に巻いたポーチの中身を検め、戦闘の準備をする。氷竜の瞳によって行使できる魔術に攻撃魔術はないのだ。別の攻撃手段が、彼女には必要になる。
戦闘の準備を進めるフィアたちをよそに、演説のよって士気の高まった騎士たちが展開を始める。彼らもまた、短期決戦の心積もりだ。鏃型の密集陣形を素早く作り上げていく。
いつもの騎士見習いを伴ったギルバートが、整然と動く騎士たちの間をすり抜けて、フィアたちのもとにやってくる。
「それで、お前たちはどうする」
「どうするって、そりゃ、魔獣を殺すんですよ」
「どうやって」
「しょーめんとっぱ!」
「……そうか」
まるで答える気のない返答と、まるで知性のない回答が続き、さすがのギルバートも鼻白んだようだ。彼はアハトとノインと会話するのをあきらめた様子で、フィアに声をかける。
「おれたちは突撃陣形でもって血路を開き、魔獣を討つ。お前たちの言葉が真実ならば、それをなさねば終わりがない」
「こっちも同じよ。芸がなくて悪いけど」
「そうか。ならば」
ギルバートはためらい一つなく、続く言葉を口にする。
「お前たちが先陣を切れ。それが一番、人が死なずに済む」
「まあ、そうよね。私たちもそっちの方がやりやすいし、従ってあげるわよ」
「あぁ、そうしろ」
それだけ言って、彼は特に激励の言葉もかけず、騎士たちのもとへ戻った。気遣わしげにこちらを見る騎士見習いと違い、一切振り返らずに。
彼の中にある信念はただの一本。『魔物を殺し、人を助ける』ことのみ。二週間をかけてそのことを理解しているフィアにと
っては、彼の態度はむしろ自然で、羨ましくすらあり、だからこそ苦々しい。だが彼女は、それを振り切らねば存在できないから。心の奥底に締まっている赤い夢が、フュンフの寝顔を確かめなおす。
「お姉様?」
「あー。何か言われた?」
ギルバートの背を見送るまま黙っているフィアに、二人が声をかけてくれる。フィアはそれに応えて、雨を吸って重くなったフードを跳ね上げた。
「大丈夫。行くわよ、二人とも」
◇◆◇
「詠唱二節・魔を裂く炎刃!」
詠唱と同時、フィアの振るう短剣を炎が包む。魔術の炎はローブを焦がすことなく、ただ斬りつけたゴブリンの身に炎の舌を伸ばす。炎を叩き消そうともがくゴブリンを蹴り飛ばすと、また次のゴブリンが現れる。
「くそっ! きりがない!」
先陣を切ったところまではよかった。
ノインの魔装がゴブリンをたやすく切り裂き、フィアの詠唱魔術でその穴を抉り広げた。いかに数がいれど、ゴブリンはゴブリン。隊列などなく、自分たちの群れの中に切り込んだ異物を組織的に排除するシステムはない。後ろに続いてきた騎士隊により、目の前や横合いから次々に襲い掛かるゴブリンを薙ぎ払うだけでよかった。
しかし、その進撃は停滞を見せていた。
「もー! ほんとにへってる?!」
ノインが困惑の声を上げる。
彼女が鉤爪状に変化した爪でゴブリンの頭蓋を握りつぶす。そうしてできた間隙に次の一歩を進めようとしたときには、次のゴブリンがこん棒を振りかぶっている。
ノインの持つ無双の突撃力と、ゴブリンの持つ無限の物量が拮抗している状態。
彼女たちには、その均衡を崩す一手が必要だ。
「アハト!」
例えばそれは、フィアの詠唱魔術。その間の防御を頼むべく、戦闘の合間にアハトの名を呼ぶフィアだが。
「お姉様、ごめんなさい! アハト、ちょっと余裕がないです!
圧倒的な物量に、彼女はすでにフィアの横で戦っているのだ。
腰のポーチから取り出した魔法素材を、ゴブリンに向かって放り投げる。
「捧ぐは麒麟の鬣。希うは鋭き刃!」
簡易詠唱が、その翡翠色に輝く毛の数本を煌めく魔力へと変換。射出された鋭い風がゴブリンの首を断つ。
アハトの近接戦闘手段である、代償魔術だ。素材を消費する代わり、適性のない魔術でも短い詠唱で使用できる。その代わりとして、素材が切れれば一切の行使ができない。
「あと七です!」
だから、彼女は可能な限り敵をひきつけ、どうしようもなくなった時だけ魔術を用いる。ナイフこそ持っているが、彼女はフィアほど短剣術に優れるわけでもない。魔装乙女としての身体能力で誤魔化している状態。
誰よりも神経を削りながら戦っている彼女に、援護を期待することはできなかった。
厳しい――
自分の魔術を付与した短剣をアハトに投げて渡す。交換に投げ返された彼女のナイフで、横合いから迫っていたゴブリンの眼窩を刺す。汚い悲鳴と返り血を浴びる。
このままでは、体力が切れなくとも精神力が切れる。
それでも、フィアの頭の中に退却の二文字は浮かばなかった。焦っているわけでもなかった。
彼女は視界の端で、地に倒れたゴブリンがピクリと動くのを捉える。頭を踏み抜く。
この一歩が、一度でも後ろに下がったら踏み出せない気がしたから。
フィアが奥の手を使用する
「なんだ。露払いもできないのか、お前たちは」
フィアの横に立つ人影があった。
紫紺の騎士服を返り血に染めてなお、装甲に一切の傷をつけていない。質素な騎士剣をふるう男。
「ただ、我が意に沿え」
ぶっきらぼうなそれが詠唱だと気づくまでに――
「刻印・起動」
風切り音すら残さぬ剣閃が、数匹のゴブリンの首をまとめて斬り落とす。魔術によりあらゆる物理抵抗を取り払われた神の剣が、邪悪を見る見るうちに処断していく。
ギルバートだった。これまでの魔物との戦闘でも、フィアは彼の戦いを見たことがあったが、これほど近くでその剣技を見るのは初めてだ。
流麗という言葉では言い表せないほど、彼の剣筋は透明であった。
「突破する。準備しろ」
「――えぇ。言われなくても」
そして、ゴブリンの群れをたやすく切り開くギルバートは、魔装により身体能力を飛躍的に上昇させているはずのノインに及ぶとも劣らない。そんな二人が並び立てば、フィアが欲してやまなかった間隙が、ゴブリンの群れの中に作られる。
「其は流るるもの。悠久の時を渓谷として刻むもの」
それでも、詠唱の隙を狙って襲い掛かるゴブリンを、アハトが惜しげもなく代償魔術を発動させて追い払う。
「あらゆる障害は障害足りえず。濁流として押し流せ」
余裕はなかった。すべてを殺すのでなく、ただ前進のための魔法をフィアは選ぶ。
「詠唱三節・悠久の炎河!」
魔術の完成を察し、ノインとギルバートが同時に飛びのく。彼らがいたところまでまとめて、現出した炎の濁流が押し流す。それは、あまりに幅が広く、密集したゴブリンたちに避けることはかなわない。緑色をした矮躯が次々と炎の中にとらわれ、断末魔の悲鳴とともに黒く焼け焦げていく。
流れ去った魔術の後に残るのは、焼死体で舗装された大通りが一つ。
「あー! やっとまえにすすめる!」
「最初から使っておけ」
歓声を上げて走り出すノインと、そのあとに続くギルバート。
「大丈夫ですか、お姉様」
「えぇ、まだいけるわよ」
ギルバートに言われずとも、フィアにだって最初から魔術を連発していた方が楽だったのはわかっている。それでもそれをしなかったのは、まず一つ魔力切れの心配があったから。どれだけ湧いてくるかわからないゴブリンに、いちいち大魔術を使用していれば、フィアの身が持たない。
魔核によって、つまりは魔力によって生きているフィアからすれば、魔力が不足することは血液をごっそり抜かれる感覚に近い。首筋にひやりと広がる不気味な寒気と、くらりと感じる眩暈をこらえて、フィアは立ち上がる。結局、小さな魔術を連発したから魔力は減ってしまった。
そのうえで、もう一つの理由。
怯えたのか、攻撃の手をゆるめるゴブリンどもの間を縫って現れる、筋骨隆々とした人間大。ホブゴブリンたちが活きのいい獲物の気配を感じてやってきていた。魔獣に近づき、繫殖欲を捨てた彼らに残った昏い欲望。強者をなぶりたいという欲を満たすため。
その数、八匹。この戦場にいるホブゴブリンの過半数。
「おい。半分はやれるのか」
「あー! ワタシのエモノ、半分も奪うつもり?」
「ふん。魔物のくせによく吠える」
ゴブリンたちは熾烈な戦いの気配を感じ、その焼死体の道に踏み込むことをしない。あるいは、戦いの外で機を伺って美味しいところだけを掠め取りたい姑息さか。
待ち構える八体に、ギルバートとノインは普段街を歩くのと変わらない様子で歩いていく。
「ワタシね、怒ってるんだから!」
「そうか。関係ないな」
「うー! フィアとアハトをあんなにいじめて、怒ってるんだから!」
ノインが魔装の右腕の手の甲から肩口までに左手を添わせる。その表面に刻まれた刻印魔導のすべてを起動させ。鉤爪の右手、前腕部から張り出すブレード、上腕部の装甲はメリケンサックへ形を変え、彼女の左手に収まる。歩く暴力装置の完成だった。
「おバカさんは、おとなしくしてて!」
「……おれの名前は、ギルバートだ」
ノインがその人並外れた膂力で跳躍する。飛び跳ねるゴブリンの肉片にギルバートが眉をひそめる間に、ノインはホブゴブリンたちの頭上に位置している。
「まず、ひっとつ!」
およそ人間離れした跳躍に呆けるホブゴブリンの頭部を鷲掴む。
倒れないようにと踏ん張ったそのゴブリンのおかげで、ノインは空中での急制動に成功。後ろに控えていたもう一匹の振り下ろすこん棒の一撃を皮一枚で避ける。
お礼に首をねじ切った。
「ふたーつ!」
そのまま右腕一本で跳躍したノイン。必殺を確信していたこん棒のゴブリンは隙だらけ。
直上から唐竹割に、ノインのブレードがホブゴブリンを裂く。
その、真っ二つに裂けて倒れる後ろから、刀を構えたホブゴブリンの奇襲。
キィ……ン。
ノインの左拳が、その刀身を折り砕いていた。
「みっつ!」
回転しながら落ちてくる刃先を右拳で殴りつけてホブゴブリンに突き込む。ごぷりと血の泡を吹いて、三匹目が倒れる。
「あー! どんなもんだい!」
瞬く間に三匹を葬り去ったノインが、純真な笑みを浮かべて振り向く。同時、ノインではなくギルバートを標的にしていた三匹が、ギルバートに襲い掛かっていた。
「ふん。ホブゴブリンの中でも、生まれたてか」
つまらなさそうに呟いた彼は剣を軽く手の中で回した。
襲い掛かるホブゴブリンたちに、彼は真正面から進んでいった。ゴブリンたちの顔に笑みが浮かぶ。きっとこいつはあほなのだと勝利を確信して、だからこそギルバートが落胆したことに気づかない。
彼はそれこそ、森の木々を抜けるぐらいの気軽さで、ゴブリンたちの間を抜けた。抜けられたゴブリンすら、自分が脇を抜けられたのだと気づかないくらい、自然に。
「みっつ、だったか」
ギルバートがノインを見据えて言う。彼の背後で、三匹のホブゴブリンが倒れる。
彼の剣閃は、死ぬその瞬間まで斬られたことに気づかせなかったのだ。
「うー!!! そのくらいなに?! ワタシだって、三匹たおしたし!」
「そうだな。ならば、残り二体だ」
フィアは眼前で起こる一方的な蹂躙を見て、その心配が杞憂だったことを悟る。ノインとギルバートの強さが圧倒的なこともあるし、何より、フィアの想定よりホブゴブリンが弱い。
「ホブゴブリンは」
フィアのフォローをするように、肩を貸すアハトが言う。
「それまでの戦闘経験があって、初めて脅威になりますからね。魔法で生み出されたホブゴブリンなんてのは、大剣を持たされた子供みたいなもんなんでしょう」
「えぇ、そうなんでしょうね……」
「でも、ほら! 前例はなかったわけですし? お姉様のせいじゃないですって!」
「そう必死に言われると、むしろ悲しくなるからやめて」
そして、彼女たちが追いつくころには、二人は八体のホブゴブリンをすっかり制圧していた。
それはもはや、愚かなゴブリンにすら自分の身の程をわきまえさせる光景で。四人が歩む先、ゴブリンたちが道を開けていく。そうすれば、当然たどり着く相手は決まっていて。
最後のゴブリンが道を開けようとして、後ろから現れた存在に蹴り飛ばされる。
赤黒い肌。丸太のような大足でのっしのっしと歩み出る、悪夢のような巨躯。人を丸のみにできそうな大口で、体の芯を震わす咆哮を吐く。
フィアはアハトの助けに礼を言って、自分の足で立つ。待ち焦がれた魔獣が、目の前にいた。
【Tips】刻印魔術
刻まれた魔術回路に魔力を流すことで、起動する魔術。定められた魔術しか発動させられない代わり、その起動速度は他の魔術形式の追随を許さない。