第二十一話 覚悟
その日の私は、舞踏会の花だった。
豪華絢爛を極めたような、純白の大理石でできたダンスホール。誰もがワインの酒気にほんのりと頰を染めて、ピアノのゆっくりとした旋律に乗る談笑の賑わい。その中でも埋もれないよう、宝石とフリルで彩られた私。
上品な面の皮の下に、下卑た性欲を隠す男どもが、かわるがわるに話しかけてくる。私はふんわりと微笑んで、別の男の手を取った手で、そのまま次の男の手を取った。ヒールの高い靴の中で、しこたま痛めつけられた爪先はすでに感覚を失っていたけれど。
私は踊りと共に回る視界の中、壁際に佇んだ無精髭の男を盗み見ている。それが私の父親らしかった。私ではなく、私の踊りの相手を値踏みする、この舞踏会でもっともみすぼらしい男。
ねぇ、お父様。私は可愛いでしょう? 頑張っているでしょう?
心の中でそう呟いた。私の耳元で、身の毛もよだつ甘い言葉を囁く男に父を重ねて、父に褒められている気分をせめて味わっていた。
そんな自分が、みっともなくてしょうがない。自分の悲劇に酔うことで、傷ついて涙を流しているくせに、何もしようとしない。それを頑張っていると表現している。
きっと、そんなことは自分でもわかっていたのだ。
舞踏会の天井が突然崩れ、そこから落ちてくる氷蒼色の巨木。否、氷竜の脚。音を失った会場に、胃の腑を震わす咆哮が響き。それを合図に、私を囲んでいた男たちも、遠くからにやにやとしていたお父様も、私を置いて逃げていく。
腰が抜けた私は、立ち上がることができなかった。それは、やけに煌びやかな私の衣装が、「ここにいれば、あなたはこの服を脱げるのよ」と言っている気がしたから、立ち上がろうとしなかったとも言える。
氷竜の顔は、荘厳という言葉のためにあるのだと言わんばかりの威厳でもって、私の目の前に迫った。この美しさが私を殺すなら、それでもいいかと思ったけれど。
あの人は、私の選んだ死を奪い去ってしまった。赤毛の少女は必死に魔術を唱え、氷竜とともに壊れていく仲間に涙を流し、それでもぐいと目元を拭って私の前に立った。
恨めしく見上げる私に、ローブの裾から短剣を抜き取り突き付けて、彼女は言った。
「ごめんなさいね。私たちのために、地獄に落ちて」
歯を食いしばるような言葉だった。だから、彼女の一振りが喉を裂いても、痛みを感じなかった。自分が冷えて、氷のように冷たくなっているのを感じる。
『私たち』と、彼女は言った。つまり、彼女は誰かのために、罪と知りながら人を殺していて。
あぁ。そんなに愛されている誰かは、とても幸せだと思う。
それが私の、アハト・ブラウの夢。
◇◆◇
「アハトッ!」
フィアは礼拝堂の扉を体で押し開けるようにして、外に飛び出した。
アハトによる拘束魔導陣が急に解除され、氷の戒めが砕け散ったのがつい先ほどで、意識を取り戻したフィアの前にはミアとメアがいた。怯えた様子のメアと、それを落ち着かせるように抱き留めるミア。
アハトのことを聞いた。ミアはただ一言だけ、「出ていったわよ」とだけ言った。それでフィアにはすべて察してしまえて、彼女は転がるように部屋を出て、教会の外まで走ってきた。
実際に外の景色を見て、フィアは息をのむ。雪が降っていた。
どう見ても氷竜の魔術であることに疑いはないのだが、フィアもここまで規模の大きい魔術は見たことがなかった。それが逆に彼女の不安をあおる。荒い息が白く煙るのさえ煩わしく思いながら、フィアは当たりを見渡した。
そして最初に目に入ったのは、巨大な氷柱だった。
「なに、これ……」
それはおよそ、フィアを拘束した氷塊とは比べるべくおなく大きい。歩み寄ってその表面を撫ぜる。氷の上に積もった雪が払われると、透明な氷の奥、ゼクスの姿がはっきりと見えた。
「アハト、勝ったのね……」
言葉にすると、安心が熱をもってこみあげてきた。思わずその場にへたり込む。魔術を扱う魔装乙女としては戦闘に長けたフィアでさえ苦戦するだろうゼクスに、アハトが勝てたのは信じられず、嬉しかった。
ひとまず緩むフィアの思考だったが、すぐに重要なことに気づく。ならば、アハトはどこにいるのか。慌てて立ち上がるフィアの足先に、何かが触れた。
そこは、雪が積もる中、不自然に盛り上がっている。再びしゃがみ込んで、まさかと思いながら、彼女は雪を払った。
「アハト?!」
アハトは巨大な氷柱の、その足元に倒れていた。
フィアはその場に座り直し、冷え切ったアハトの身体を抱き起した。間近で彼女の身体を見て、フィアはあまりの生傷の多さに息をのむが、そのすべてから血が流れていなかった。異常だった。けれどもフィアには治療魔術が使えないから、少しでも身体が温まるようにと抱きしめて、さすってやることしかできなかった。
大丈夫。魔装乙女は死にたくても死にきれないから、きっとこうしていればアハトは元気な顔を見せてくれる。心の中でそう唱え続けていた。トレードマークの二つ結びすら切れ飛んでしまったアハト。抱きしめているフィアの頬に、その短くなった髪先がちくちくと刺さる。
耳元で、わずかな呼吸の気配。
「おねえ、さま……?」
「――アハト、よかった! 生きてたのね!」
喜びのあまり、フィアはアハトの身体を勢いよく引きはがし、初めて彼女の顔と魔荘園から向き合う。そして気付いた。気付いてしまった。
「あなた、その左目……」
「よかった。最期に、一度だけ、お姉様に会えた」
にへらと笑うアハトの左眼窩を置き換える、黒金の魔装。魔装解錠も切れているはずなのに開いたままのその中には、あるべきものがなかった。半分しか残っていない氷蒼色の魔核が、下弦の月のように昏く、月光を反射する。
胸の奥にじゅわりと染み出した感情が、フィアの言葉を殺した。
「ごめんなさい。やっぱり、アハトは、悪い子だった、みたいです」
罰が当たっちゃいました。そうおどけて言うアハトだが、その一言一言ごとに、苦し気に息を吸う。もう口を動かすだけでも辛いのだろう。ぜぇぜぇと喘ぐ。
フィアの左目から涙がこぼれた。頬を伝って、熱い雫がアハトの力なく垂れた手の上に零れる。そこでアハトは、ぴくりと反応し。
「あれ、お姉様。なんで、泣いてるん、ですか……?」
「あなたのせいよ。あなたが、あんまりにも――」
憎まれ口をたたきそうになって、やめた。きっと後悔すると思った。
アハトの視線は、うろうろと虚空をさまよっている。もう目も見えていないのだろう。フィアはアハトの手を取って、自分の頬にあてた。彼女の手は形を確かめるようにフィアの輪郭をなぞって、彼女は安心したようにフィアを見つめる。そして、謝り始めた。
「お姉様、ごめんなさい。ごめんなさい……」
フィアが彼女のせいだと言ったからだ。
その謝罪の一言一言が、フィアの愚かしさを抉るようで。そうじゃないと伝えたくて、フィアはアハトの頭をなでた。驚いたように身を固めるアハトだが、やがて恥ずかしそうに頭を下げて、フィアがなでるに任せ始める。彼女の頭の上に乗った雪がフィアの体温により溶けていく。
「そうだ、おねえさま」
ふと、アハトがフィアを呼んだ。一度フィアが頭をなでる手を止めると、アハトは自分の魔装からクリスタルチャームを取り外す。そして、フィアの頭をなでていた手を取って、その中に握らせた。
「これ、おねえさまに、もらったんです」
「私が、あなたに?」
「えぇ、ほんとは、ぬすんだんですけど」
言われて、記憶を探る。そしてフィアは思い至った。
これは、かつてフィアがフュンフに贈ったものだ。いつも、そういったアクセサリーはジーンい処分されてしまうから、その後どうなるかなんて気にしたことはなかったが。ジーンが処分しようとしたものをアハトが引き取ったのか。
「あはとは、おねえさまの、いもうとがよかった」
もはや身体を支えるのがつらくなってきたのか、不安定に傾ぐ彼女の身体を再び抱き留める。
「あはとだけの、おねえさまが、よかった。わが、まま、なんです」
「わかった。わかったから、もう喋らないで」
「わるいこ。わたし、すごくわるいこ」
「そんなことない! あんたは、私の自慢の妹分よ!」
「ごめんなさい、おねえさま。だけど、いっこ、だけ」
もはや彼女の耳には、フィアの言葉だって届いていなかった。膝の上にアハトの頭を寝かせ、つなぎとめるように手を握りしめる。
呂律も回らなくなってきたアハトが、朦朧とした表情で呟く。
「わたし、おねえさまのいもうとに、なれたかな」
「……馬鹿じゃないの。あんた。ほんとに、馬鹿」
そして、アハトは目を閉じた。フィアは、もう何も届かないのだろうと思いつつも、せめて彼女の手をきつく握った。その感触が、体温が、血液の流れが、何かを伝えてくれればいいと思って。けども同時に、フィアには彼女の死がわかっていた。魔力を感じる彼女には、目の前の魔装乙女の生死など、火を見るよりも明らかだった。
アハトの身体を抱き起す。命の分だけ、なんだか軽くなったような気がするその身体。だらんと垂れそうになる首を抑えてやり、その首筋に顔を埋めるようにして、フィアは泣いた。彼女の二度目の喪失だった。
そう、失ったのだ。失ってしまえるほどに、アハトはフィアの中で大きな存在になっていたのだ。
逃亡生活の中で彼女が失ったものとは違う。あれは、フィア・ロットになる以前の自分。フィア・ロットになることを受け入れた自分の目的と誇り。だが、アハトはそれとは違う。
フィア・ロットとして生きてきた彼女が、自分のために罪を重ねてきた彼女が、それでもそんな人生の中で獲得した、かけがえのないものだった。
その場に膝をついて、かわいらしい少女の亡骸を抱いて、それで泣いているのは、今間違いなくフィア・ロットだった。
不可視の渦を描いてかき乱される彼女の内面で、想いが生まれる。
二度と失ってなるものかと。この悲しみを二度と味わってなるものかと。
過去を失うことの重みも理解して、それでもなお。
今を生きる私が、今持てるものを、これ以上喪ってなるものかと。
涙が枯れるまで泣き切って、フィアはアハトの身体をもう一度膝の上に寝かせた。そして、アハトに託されたクリスタルチャームを、今度は自分の魔装に結ぶ。緩さがないか確かめるために指先ではじくと、アハトの声が聞こえてくるような気がした。再び滲みかける涙を、指で拭って押し戻す。
フィアはもう一つだけ、アハトから彼女の形見を受け取って。その身体を抱え上げる。教会の入り口からはミアが様子をうかがっていて、今はその隣に騎士見習いも立っていた。フィアは彼女らのところまでアハトを運ぶ。
「この子を、お願いできるかしら。もう二度と変な実験に巻き込まれないように、丁重に弔ってあげて」
「……えぇ、それは構いませんが」
騎士見習いが言葉を濁す。それであなたはどうするのかと、目で問うている。
「私は、まだやることがあるから」
フィアは彼の腕の中にアハトを託して、踵を返した。
「その人はきっと、誰よりもあなたに弔ってほしいんじゃない?」
その時、ミアの素っ気ない一言がフィアの背中を追った。
フィアの心を揺らすのに、その一言は十分だ。彼女の足は止まった。フィアにだって、アハトを手ずから弔ってやりたい気持ちがある。ただ問題は、彼女にその資格があるかというところ。結局、わが身可愛さに彼女を身代わりにしたのはフィアなのだから。
「やることをやったら、墓参りでも何でもするわ」
「……そ。じゃあ、それまで、お墓の掃除はしといてあげるわよ」
「ありがと」
フィアは振り返ってお礼を言うが、ミアはそっぽを向いて聞き流していた。それでもきっと、彼女はフィアの感謝を受け止めてくれている。マッチポンプを自覚しつつ、ミアもまた、フィア・ロットが守れたものの一つなのだろう。
であれば余計に、フィアは彼女の守るべきを守らねばならない。彼女の罪を清算し、彼女の周囲に降りかかる災難を元から断たねばならない。その第一歩として、彼女はアハトの遺した氷柱の前に立つ。
びきり。不吉な音がしていた。
フィアはその氷の中に魔力の動きを感じる。ゼクスはまだ生きているのだ。両足の魔装に配されていた装甲が有機的にその位置を変え、翼のように展開する。露出する麒麟の脚部から、翡翠色の魔力の奔流。魔装解錠の威力でもって氷の檻を破ろうとしている。
それを許すフィアではなかった。
「魔装、解錠」
フィアの右目を覆う魔装に、赤く一筋の光が走る。そこから上下に無機的に開き、赫灼の竜眼が露出した。あふれ出す炎熱の魔力が、魔導陣を形成しようと蠢く。
「其は律するもの。運命の軛を正すもの」
それに、フィアが介入した。
もはや彼女は実験番号四番でも何でもなく、一個の存在としての魔装乙女なのだから。魔装解錠の在り方だって、自分の思うように捻じ曲げてみせる。
「正義を諫め、悪を正し。世を平らかにする彼のものは、故に人類の敵である」
過去は過去だが、それはもはやフィアだけのものではない。
アハトが命を懸けて守ってくれたものだ。
ならば、使うべきその時も来ていないのに浪費していいわけがない。
「非難のすべてを彼に与えよ。されば彼のもの、火の中に沈まん」
だからこそフィアが望むのは、その膨大な魔力の収束。一撃必殺。
「詠唱四節・|今ここに善悪が書き換わる《リライト。マジックサークル》」
そして彼女の願いは成った。
フィアの周囲を取り囲もうとしていた魔力の渦は、彼女の魔装の前に集まる。ただ一撃のため、極限まで小型化された魔導陣は、彼女の右目に未来を見せるように、連なって展開する。
「全層、同時接続。収束魔導陣、回転開始。ここにわたしは魔術を掴む」
魔力を集積しきり、彼女の火竜の瞳にきらめく超新星の輝き。
「魔導略式・火竜熱閃」
放たれた光条が、瞬きの間に氷柱を貫通する。その一撃に魔力を集中させた火竜の魔核は、眠りにつくように魔装の瞼を落とした。悲鳴も歓声も上がらぬ中、氷の中に閉じ込められたゼクスだけが、びくりと動きを止めた。
翼のように展開していた魔装がその動きを止める。噴き出していた魔力は輝きを失って、氷柱は透明な輝きを取り戻す。フィアの放った熱線は過たずにゼクスの右大腿部を貫通し、そこにあった魔核を砕いていた。死んだことにすら気付いていないのだろう無表情で、ゼクスは息絶えていた。
フィアはその手を氷柱に沿わせる。彼女の殺した少女たちは、すべてこうやって、戦場の中で死ぬまで戦わせられるのだ。それこそ、ミアやメアのような幸せもあったろうに。
ならば、フィアのやることは決まっていた。
自分の後悔を抱いて逃げ回っていれば、きっとまた何か失ってしまうから。
せめて彼女にできることとして、マスター・ジーンを倒すのだ。




