第十五話 フィア・ロット
「お冷をください、二人分。あと、パフェがあるならそれを」
「パフェなんてないよ。リンゴの砂糖漬けでも食うかい」
「じゃあ、それで許してあげましょう」
「あぁ、そうかい」
フィアは気づく。女店主と小生意気な会話をする声が、自分の隣に長年あったその声であることに。
編み上げブーツ。タイツ。フレアスカート。革の胸当て。そして、水色の髪を二つ結びにした少女。信じられない心地で、確認するようにフィアは彼女の姿を見る。間違いがなかった。
「アハト。やっぱり、あんたが最初に来るのね」
「えぇ、お姉様。お姉様は、アハトのお姉様ですから」
アハトだった。普段なら、意味が分からないと切り返す発言も、それが本物のアハトであるとフィアに実感させてくれる。陰鬱に沈み切っていた彼女は、ようやく浮き上がる。
マスター・ジーンを前にして、裏切られたフィアだが。アハトに対して怒りがわいてくるとか、そういうことはなかった。彼女の中でジーンへの怒りがくすぶる程度になっていることもあるし、なにより、彼女は不思議と、アハトの裏切りには悲しみしか感じていなかったからだ。
だからこそ、フィアはアハトの表情を窺おうとしたのだが。カウンターの向こう側を見つめるばかりのアハトの横顔は、魔装のせいで表情が読めない。相変わらずのクリスタルチャームだけが揺れている。
アハトは、自分を殺しに来たのだろう。
ただ、そうであるならば、フィアの前に姿をさらす必要はなかった。めそめそとする彼女を遠目に眺めて、ギルドの外に出た後で、人目のないところで不意を打つだけでいい。わざわざ彼女の目の前に姿をさらす必要はなかった。
だが、だからといって自分の都合よく考えられるほど、甘えた考えのフィアではない。
何も言わないアハトに、フィアは焦れたように口を開いた。
「殺しに来たのなら、好きにすればいいわ。場所でも変える?」
「いえ。ここで構いません。少し話をしましょう」
アハトは断定的に答えた。そのくせ、フィアを殺しに来たのか、自分の目的は明らかにしなかった。フィアはそこを問いただそうかと口を開きかけ、やめる。
再びの沈黙が落ちて、そこに水の注がれたグラスがやってくる。それで唇を湿らせて、ようやくアハトが言葉を紡いだ。
「お姉様。この一週間、どうでしたか?」
「どうって……」
「言葉通りの意味です」
それだけ言って、再び口を紡ぐアハトは、フィアが答えを言うまで続きを話すつもりはないのだろう。フィアは手元の水のグラスに視線を落とした。その水面におぼろげに映る自分に答えを問うた。
「この一週間」
先ほどまで自分の頭の中に巣食っていた、雲霞のごとき雑多な感情。
「この一週間、いろんなことを考えたわ。ジーンのことも、フュンフのことも、自分のことも。もちろん、あなたのことも」
言葉というレールに乗せると、それはまるで堰を切った川の流れのように流れ出していく。
「腹立たしいし、愛しいし、悔しいし、諦められないし、惨めだし、捨てられないし、悲しいし。でも全部ひっくるめて、今までなら無視できた。妹を助けるためだから、私はその全部にふたをして、自分の心っていう入れ物の中に隠しておけたのに。でも、もう無理よ。私っていう入れ物が壊れちゃったんだから。どうしようもないんだから」
アハトは黙ってそれを聞いていた。
「ねぇ、どうしたらいいのよ。死んじゃえばいいと思うけど、死ぬのも怖いのよ。どうせ一度死んでるのに、死にたくても死にきれない。自分が情けなくて嫌になる。だから、アハト。殺しに来たのなら、そう言ってよ。私を殺してくれるって、そう言ってよ……!」
気づけば、フィアは自分の両手の中にすっぽり収まる小さなグラスにすら縋り付いていた。胸を絞るようにして、声を出していた。涙がまた流れてきて、頬をすぅっと流れ落ちた。
あぁ。対して、フィアは頭の片隅でひどく冷静になっていた。自分は死にたかったのでもなく、生きたかったのではなく、殺されたかったのだと。収まるべきものが収まるべきところに収まった感覚があった。
自分の欲望を自覚してしまって、それを吐き出してしまったのだから、フィアを止めるものはもうなかった。アハトに助けてほしくて、情けなく泣きじゃくった。
「お姉様」
だから、アハトに呼ばれてフィアはぱっと顔を上げた。
乾いた音が鳴った。
騒がしかったはずの酒場を静まり返らせるほど。それはアハトのビンタの音だった。
「言いましたよね。お姉様は、アハトのお姉様です。アハトがお姉様のお姉様なわけではないんです」
「え、なんで……?」
「アハトは、そんなに優しくないってことです」
フィアは呆然と自分の頬を抑えた。あのアハトからビンタをされること自体が彼女にとっては衝撃で、痛みは感じなかった。感じ始めたのは、ビンタを打つためにこちらを向いたアハトの瞳が涙ぐんでいたのを見てから。手の下で、じんじんと痛む。
「ノインちゃんが、なぜアハトやお姉様と違って、ノインとしか呼ばれないのか、わかりますか」
アハトは涙ぐんだ瞳に炎を燃やしながら問うてくる。それは怒りの炎か、はたまた。
フィアはゆるゆると首を振った。
「フィア・ロットやアハト・ブラウとは、ノインちゃんは違う存在だからです。あの子は魔装乙女実験の最終到達点になるはずで、もう彼女のファミリーネームは決まっていたからです。そして、アハトはその前の最終調整として、本来なら必要のない八番目として作られた魔装乙女。なら、その役割は何でしょうね?」
ひどく嫌味な調子で、アハトが言う。フィアにとっては知らなかった事実ばかりが並べられていた。
言われてみれば、ジーンがフィアを呼ぶときは必ずフィア・ロットと呼ぶが、ノインをフルネームで呼ぶところは見たことがなかったし、フィアは彼女のファミリーネームを聞いたことがない。どうでもいいことのように思えて、それがむしろ、アハトが次に告げようとしている真実を不気味に感じさせた。
フィアが身構えたところで、アハトはそれに構わず結論を述べる。
「不安要素に対するカウンターとして。つまり、唯一反抗の恐れのあるフィア・ロットという魔装乙女に対する監視と抑止が、アハト・ブラウという魔装乙女の役割です」
監視と抑止。
フィアはアハトに告げられた言葉を、脳内で咀嚼した。つまり、フィアを見張り、もしもの場合には抑えつけること。監視するにはフィアの近くにいる必要があって、ならばフィアに取り入るのが一つの手段であって。
「そう」
つまりは、フィアを慕うアハトの姿は偽りだったのだろう。
「なら、早く私を殺してよ。それが役割でしょ?」
「イヤです」
けれど、彼女は自分で述べた役割というものを、にべもなく否定した。
「アハトのことを侮ると、流石のお姉様でも怒りますよ? この世で最もかわいいアハトちゃんが、あの可愛さのかけらもないマスターの言うことを、どうして一から十までうのみにしなきゃいけないんですか!」
「は?」
「アハトが言いたかったのはですね。そんなくそったれな役割を与えられても、その監視という役割にかこつけて側にいたいくらい、お姉様が魅力的だった。そういうことです!」
「どういうことよ……」
アハトは自慢げにクリスタルチャームを指ではじいた。窓から差し込む秋の日差しを反射して、それはフィアの目には眩しく映った。アハトの理屈についていけずに置いて行かれたフィアをよそに、女主人がどんとリンゴの砂糖漬けを置いていく。アハトは小皿をもらって、それを手際よく二人分に盛り分けた。当然のようにフィアの前に置く。
「どういうことって、お姉様が好きなことに理由がいりますか」
「それはそうよ! だって、魔装乙女になったばかりのアハトからしたら、私はただの他人じゃない」
「何を言ってるんですか。アハトとお姉様は、魔装乙女になる前に一度会っているじゃないですか」
「――え?」
「ほら。氷竜事件の中でアハトの首をかっさばいたのは、お姉様でしょう」
アハトに強引に持たされたフォークを、フィアは小皿の中に取り落とした。アハトはどこ吹く風、自分の分のリンゴを口に運んで、「お姉様。意外にイケますよ」なんて言っている。
フィアの脳裏に浮かぶのは、デプンクトでの観劇。うっとりと虚飾だらけの劇を褒める彼女は、きっと自分の都合よくその事件を解釈しているのか、あるいは忘れているのだろうと、そう思っていた。
けれど、彼女はそうではないと言う。彼女は、フィアに殺されたその記憶を、心からいいものだったと、そう言っていたのだ。
「殺したのよ? 私が、あなたを」
「えぇ。とても素敵でした。今思い出してもうっとりします」
「普通の人間として、生きて行けたのに。魔装乙女になって嫌な仕事をやらされることもなかったのに。その醜い魔装だって、身につけなくてよかったのに」
「それがどうかしたんですか? アハトがお姉様を嫌いになる理由ではないですよね」
それに、今はこの魔装も気に入っていますよ。アハトはそこに括られたクリスタルチャームを、愛しそうに指でつまんだ。いつの間にかアハトが身に着けていた、どこか見覚えのあるアクセサリー。
「お姉様は、いつも言いますよね。私たちのために地獄に落ちてって、本当に申し訳なさそうに、ですけどどこか決然として。アハトはそれを聞いて思ったんです。あぁ、この人は誰かのために涙を飲み込める、きれいな人なんだって」
「……」
「もちろん、それで殺されたことを帳消しにできちゃうなんて人は、普通いないんでしょうね。でも、アハトはそうなんです。納得してください」
本人にそう言われてしまえば、フィアは何も言い返せなかった。何せ、彼女はそれを言うためだけにここまで来たのだろう。ジーンの目を盗んでか、誤魔化してかはわからないけれど。それが何より、彼女の言葉を証明している。
何か、赦された心地がした。針の筵のようになった彼女の人生で、アハトだけが唯一、優しく抱き留めてくれる気がして。
フィアは目の前にあるリンゴの砂糖漬けを口に運んだ。優しい甘味がさわやかに口に広がった。アハトが「ほら、美味しいでしょう」と同意を求めてきて、フィアは頷いた。彼女がほにゃりと表情を和らげて、自然、フィアの顔も緩む。
そうして、二人で砂糖漬けを食べきって。口の中に残る甘味を冷たい水で流し落とす。
ほうと息をついたところで、
「ねぇ、お姉様」
「なに」
「…………このまま、アハトと逃げませんか」
まるで、心中の相談をするような真剣な面持ちで、アハトはフィアの手を握る。フィアも、それを真正面から受け止めた。置きっぱなしのエールは、すでに泡が飛びきって黄金色の水面をさらしている。
それは、まさに心中だろう。ろくな生活は望めない。禁忌であり、危険分子であり、悪目立ちする少女二人組が、こそこそとした隠遁生活以外を望めないのはわかりきっている。ギルドで仕事をするにしても、すぐに限界が来る。山野に潜んで、狩りや採集をしてほそぼそ暮らすしかないのだろう。
それでもいいかと思えた。アハトと二人の生活はきっと楽しい。アハトが良くわからないことを言って、フィアがたしなめる。時には行き過ぎたイタズラがあって二人で喧嘩もしながら、夜には同じ食卓を囲んで仲直りをする。
アハトは、自分が身を危険にさらそうとしている立場だというのに、縋りつくようにフィアを見上げていた。フィアの手に添えられたアハトの手は、かすかに震えているような気さえした。
自分が殺してしまったのに、それでも、それだからこそと、純粋に慕ってくれる妹分が、どこか空恐ろしくもあり、愛おしい。彼女の想いに応えて、支えてあげて、支えてもらいたい。
そう思うのに、フィアはなぜか頷けなかった。頷こうとすると、首元にねっとりと絡みつく気配があった。
それは赤い色をしている。自分が今までに犯してきた罪の数々であり、同時に自分が追いかけてきた理想の残骸だ。捨ててしまえと、えいやと手を振り上げて、けれども捨てきれない。
アハトに早く応えなければと焦る心は、どうしても空転するばかり。「そうね」と曖昧に返答を先延ばして、けれども結局答えを出せない。アハトが諦めがついたようにため息をこぼす。フィアはその顔に一瞬走った陰りを見落とさなかったが、すぐにアハト本人にかき消されてしまった。
「思ったより、フュンフさんは強敵だったってことですね」
「なんで、フュンフが出てくるのよ」
「捨てきれないんでしょう。諦められないんでしょう。他人を地獄に落とせるほど、大事な妹なんですから」
アハトのざっくばらんな推察に、否定こそ返さないが。それは多分一部でしかなくて、きっと自分が返事を返せない理由はもっと複雑だと、フィアは思った。意識せず、指先でくすんだ赤色の毛先を遊ぶ。
「お姉様は、相変わらず頭でっかちですね!」
その仕草を見て取ってか、アハトはことさらに明るく言って、席を立った。腰のポーチから貨幣を出して、カウンターの上に代金を置く。明らかに金額が大きくて、フィアはおそらく自分の分も入っているんだろうとわかった。
「ちょっと、自分のぶんくらい自分で払うわよ」
「いいんです。だってそんなことさせてたら、お姉様はずっとそこに座りっぱなしでしょう。まるで根を張ったみたいに」
「……そんなことないわよ」
「でしたら、行きましょう。今のお姉様に、来てほしい場所があるんです」
我ながら子供っぽいともいながら、部すっと受け答えするフィアの前に差し出される、アハトの手。それは、白く細やかな乙女の手で、自分が取っていい手なのか、迷う。この手を取ってしまえば、なし崩し的に彼女との逃避行が始まる気がして、フィアはそう、怖かった。
その逡巡の内、アハトの手がフィアの手をひったくる。
「さぁ、行きますよ」
逆らおうと思えば逆らえたその力に、フィアは逆らわなかった。カウンターから立ち上がって、なんだか久しぶりに立ったような気さえした。
静まり返っていた冒険者たちが、何を察したのか猛烈にヤジを飛ばしてくる。フィアはフードを目深にかぶりなおした。
【Tips】クリスタルチャーム
アハトの左目の魔装に括りつけられた、クリスタルを模したチャーム。安い石英を研磨して作られた大量生産品。




