第十四話 ザワークラウト
冒険者御用達のギルドハウスには、魔物との戦いに疲れた彼らをターゲットにした酒場が併設されている。安くて量ばかりある料理を出す、男たちの場所。たとえ塩気ばかりの料理であっても、彼らの自慢話や武勇伝が味付けであり、それでなくとも酒で押し流してしまうのだから関係がなかった。どやどやとした雰囲気の中に、ローブを着込んだ小柄な人影が一人。フィアだった。
「ソーセージとザワークラウト。お待ち」
カウンター席に座った彼女の前に、どんと供される一皿。どちゃっと盛りつけたキャベツの漬物と、でっぷりとしたソーセージの盛り合わせだ。フィアはフォークにザワークラウトをすくい、口へ運ぶ。シャキシャキとした食感の中から、酸味があふれ出てくる。酒のあてにと作られた味だ。フィアは酒をたしなまないから、もそもそとしたパンで口の中をごまかす。
フィアはデミオンの街を脱出した。国家権力のお膝元であるあの街に、フィアがとどまる理由はなかったからだ。きっともう、衛兵に紛れた憲兵がフィアのことを探し回っているに違いない。幸い、フィアは右目さえ隠していれば普通の少女だから、乗合馬車に紛れ込んで隣街へ移った。そのまま、もう一つ街を移動して、ここに至る。
持ちだせたものは少ない。というより、ほとんどなかった。なにしろ拠点としている墓所の教会に入る前に事が起こってしまったから、着の身着のままの逃亡生活。最低限の距離を放すための移動費でフィアの財産は尽き、数日の潜伏で、すでに懐は寒々しい。
フィアはもくもくと食事を口に運びながら、周囲の会話に耳を澄ました。
彼女がわざわざ冒険者のギルドなどに顔を出したのには、二つの訳がある。一つは、それこそ依頼をこなして金銭を得ること。そしてもう一つは、自分の現状を確かめること。
(赤い髪の賞金首とか、そういう話はないのね……)
金銭のために身を危険にさらす冒険者たちの耳の速さは、馬鹿にしたものではない。彼らが酒を飲み、口の回転をなめらかにしてかわすのは、何も下世話な冗談だけではないのだ。どの依頼主はねらい目だとか、どの地域では魔物がどうだとか、そして、割のいい賞金首がいるのかどうかだとか。
フィアの立場上、指名手配されるのではとも考えていたのは、どうやら杞憂だった。代わりに、ここからでは遠いデプンクトの噂は、ちらほらと聞こえてくる。その中に混じる、魔装乙女という単語。
マスター・ジーンは、魔装乙女は軍事利用されるのだと、そう言っていた。
なるほど、妥当な話だと、フィアは思う。そうでなくて、なぜ魔装乙女には戦闘を前提とした設計がなされているのか。ただの少女であったはずのフィアが、なぜ魔術を使えているのか。
貴族の不老不死のためというのなら、不要な機能である。それが搭載されているのは、貴族たちも不老不死という夢幻を盲目に追いかけるほど愚かではなかったと、そういうことなのだろう。
フィアはカウンターの上で、拳を握る。ならば、自分がやってきたことは。
この数日、フィアは適当な宿屋を借りて、その一室にひたすら引きこもっていた。なるべく安くと選んだ部屋は手狭で、その圧迫感がまるで余計な世界を切り取ってくれているかのように思えて、彼女はずっとベッドの上で膝を抱えていた。
彼女はずっと人を殺してきた。何のためか。妹のためだ。
彼女の殺し集めた忌子はマスター・ジーンの研究を助け、その死体の山の果てで、フィアは妹を助けることができる。別にそれが、殺人という罪悪を帳消しにする理由ではないが、フィアがその罪悪を犯すに足る理由だった。
だが実際のところ、その全てがまやかしだった。
フィア・ロットとは。信頼できないとわかっていたはずの男の口車に乗り、死ぬだけには収まらない不幸をばら撒く、ただの魔物だ。
だから、部屋の隅でうずくまっていた。誰かに殺されなければいけない気がして、小さな世界でぎゅっと縮こまることで、消え去ってしまえればいいと思っていた。夢とも現ともわからない生活の中で、ゼクスが、アハトが、ノインが、かわるがわる彼女を殺しに来た。
ジーンに対する怒りは、逃げれば逃げるほどに衰えていき、今は燻る程度。このまま腐っていけば消えてしまうだろうことに疑いはなくて。
フィアはそれが怖くてギルドに来ていた。
このままいけば、きっと妹のことも忘れてしまう。もはや懐かしさも失ってしまったけれど、あの意識を失った憐れな妹を助けるのだ。その第一歩として、フィアはギルドにやってきた。
けれども、身体が動かなかった。カウンターの席についたまま、フォークと口だけを動かしている。ろくに食事をしていなかったから、食べれば食べるほどに空腹を感じてしまって、フィアは追加の注文をした。
何か適当に依頼をこなして、資金を得て、デミオンに戻り機を伺うのだろうと、叱責する自分がいた。冷静なふりをして、必死に捲し立てる自分。
別に、資金を得るのはいいけどさ。もう一人の自分が白けきった声色で言う。それで、何をするつもりなのかと。
ジーンを殺す? 大変結構。
魔装乙女を三人も相手にして、その上で殺せるなら殺せばいい。
殺して、そのあとは?
フュンフの処分を食い止めて、そのあとは?
誰がフュンフの意識を回復させるのか。フィアに魔術の心得はない。過去にジーンの研究を盗み見た時だって、魔術理論には到底理解が追いつかなかった。所詮、荒ぶる火炎の魔術を司る火竜の魔核に頼りきったフィアでは、フュンフに何ができるわけでもない。
なら、人に頼るとして。一体誰に頼るのか。生前の記憶の欠落したフィアには、あてにできる縁などないし、あのアハトですらあっさりとフィアを裏切ってしまった。
フィア・ロットという存在は、致命的に行き詰まってしまっている。
彼女自分が動けない理由を悟った。自分の中に誰もいないからだ。フィアは今まで、辛くて苦しいこともたくさん経験してきたが、かけがえのない目的と温かい仲間たちを支えに生きてきた。その両方を同時に失って、フィア・ロットは死んでしまった。
つんと、ザワークラウトの酸味が鼻の奥をつく。涙が溢れた。思い返せば、魔装乙女になってからのフィアは泣いたことがなかった。
止まってしまう食事の手を、彼女は強引に動かす。感情ごと喉の奥に押し込むように頬張るものだから、むしろむせ返った。咳き込みながら口元を拭うと、ザワークラウトの水気の中に、ぬめりとしたソーセージの脂。
彼女の目の前に酒杯が置かれた。しゅわしゅわと泡を立てるエールが注がれていた。カウンター越しに視線で伺いを立てるフィアに、店の女主人は「サービスだよ」とぶっきらぼうに答える。
アルコールなど、今までのフィアからすれば思考を鈍らせるだけだった。酔いに流され、嫌なことは全て忘れたように振る舞う人間の姿は、とても素晴らしいものとは思えなかったからだ。
だけれども、今は。まるで、冬の寒さに凍えきった旅人が、湯気を立てるカップで手先を温めるように。彼女は酒杯に手を添える。
忘れたい記憶が、たくさんあるように思えた。魔装乙女であった自分を、抱いていた希望と、犯してきた罪と、そして、言葉にできない何かと一緒に忘れてしまえば……
それで、本当に自分の涙は止まるのだろうか。
嗚咽が漏れた。机の上に肘をつき、背を丸め、彼女は不定形の感情を抱え込む。悲しさ、悔しさ、虚しさ、寂しさ。あるいはその全てであり、どれでもない。
そんな彼女の周りから、自然と人が離れていくのは道理だった。生活に余裕のある商人たちの集まるサロンならまだしも、ここは命がけの冒険者たちが集まる酒場である。誰も、涙は自分で拭うものだと知っていて、他人の涙の重さも知っている。
彼女とて、その空気を感じ取ることは来ていたから、食事だけは何とか食べきって、店を後にしようとしたその時。こつこつとやってきた小柄な足音が、彼女の右の席に着いた。
「お冷をください、二人分。あと、パフェがあるならそれを」
【Tips】ギルドハウス
少数精鋭の教会騎士に代わり、民間の依頼を受ける組織として存在する。魔物と戦う命がけの仕事としての冒険者だが、どんな荒くれものでも公的な身分が得られるという点で、常に職業としての需要は絶えない。




