鬼蝶と春
「鬼蝶と春」
享禄5年・天文元年。
鬼蝶丸は4歳になり、変わらず朝の日課を続けている。
しかし、いまだ大きい槍を振り回すその傍らに、孫を見守る爺の姿は無く、一関斎は長井新九郎利政の収める稲葉山城にいた。
昨年に起こった、浄土真宗本願寺による大小一揆の余波は国境を越え美濃にもその影響を及ばせているため、その事後処理として彼も城へ詰めているのである。
稲葉山城の一室にて、肩を怒らせながら乱暴に襖を開けた新九郎。
その音に頓着することなく、一関斎はお茶を点てている。
「新九郎どの、一服いかがか?」
「すまん」
さっと出された茶碗を掴むと一息に煽る。
熱い茶が喉をくぐり、新九郎は疲れたように息を吐き出した。
若い顔に色濃い疲労を滲ませ、常に貼り付けたような笑顔も今は無い。
その後ろに明智光綱がしずかに腰を下ろす。
「光綱、情勢は」
「よくはありません、加賀の戦は本願寺の勝利に終わり、朝倉は加賀から撤退。畠山も討ち死にしました。
加賀一国を一揆の手に落とした本願寺はさらに力をつけるでしょうね」
「…そうか」
苦虫を噛みつぶすような顔をして新九郎は虚空を睨み付ける、彼の睨む先には、一つの寺社がある。
唯願時。
西美濃における浄土真宗本願寺の拠点であり、今もまさに戦の準備を怠らない民の火薬庫である。
「やはり、寺の力は削れぬか…」
「無理でしょう、此度の戦にしても結果として得をしたのは本願寺であり、本質的に国を持たぬ寺社領にとって民は替えのきく矢玉と何ら変わりございません。
国を持たぬが故に、国を揺るがさずに奴らを完全に潰すことは不可能。いま、奴らに牙を剥くのは吉ではありますまい」
「新九郎殿。
民と戦い民を削れば、我らの地盤が緩む、そして、そこを突くのがやつらの常套手段よ」
「憎し、憎いわ生臭共が」
地を割れと言わんばかりにたたきつけた拳が音を立てる。
その手に微かに朱を垣間見て、慌てて光綱が新九郎へ近づいた。
「殿、お怪我を」
「…ん?おう、すまん、手当てを頼む」
光綱は外に控えていた女中に声を掛けると清潔な白布を持ってこさせた。
新九郎も血を見たことによって気を静めたのか、されるがままに光綱の治療を受けている。
「そうだ、一関よ、坊は元気か?」
それは気を紛らわすための気軽な言葉だったのだろう。
しかし、新九郎の予想に反して、部屋の空気は一瞬にして凍り付いた。
もちろん、今、一関斎の近辺にいる坊と称せる幼子は一人、鬼蝶丸のみである。
気まずげに息子から目を逸らす一関斎。
そして、まるで親の仇でも見るかのように、新九郎の手を握り傷を睨み付ける光綱。
部屋の空気を瞬時に察した新九郎は苦笑いを浮かべた。
「すまん、軽率だったわ」
鬼蝶丸と同じく鬼子として生きてきた新九郎である、その肉親に生じる歪みは己も経験してきたことであり、それを実の父親の前で不要に発してしまった事を彼は恥じていた。
「いえ、お気になさらず、私には子はおりませんゆえとんと存じ上げないことでありますが。それはこの祖父が拾ってきたどこぞの鬼っ子ろの話でございましょう」
「光綱、認めろとは言わんが、あれはわしの孫じゃ、そして、おぬしが主として使えている相手も同じ道を歩んできたことを忘れるな」
一関斎の言葉はひどく静かだった。
故に、その言葉に込められた重みに押し負けて光綱は口を紡ぐ。
「失礼いたしました、新九郎殿」
「気にするな、ここまで生き残ったからこそわかることもある」
「…感謝しますぞ」
深く、一関斎は頭を下げる。
それはこの爺の、久しく見られない姿であった。
そして、上げた顔はすでにいつもの好々爺然とした顔に戻っている、なんとも食えない爺である。
「いまごろ鬼蝶丸は、春にかまわれておるはずですわ」
「そうか、春にか」
思わずといったように新九郎の顔に笑みが浮かんだ。
それは珍しく、いつもの貼り付けたような笑みではなく、自然と出た彼の本当の笑顔だった。
「お蝶、お蝶。ご飯を食べましょう!」
一人の稽古を終えて、庭に面した廊下を歩いていた鬼蝶丸を持ち上げたのは元気な笑顔を浮かべた女性。
一関斎の娘であり鬼蝶丸から見れば叔母に当たる春である。
ここ一年、留守にしがちな一関斎に代わって鬼蝶丸の面倒を見てきたのが彼女である。
もともと、明智の居城である長山城に住んでいたのだが、一関斎の頼みを引き受けると荷物をまとめてさっさとこの一関斎の城屋敷へと引っ越してきた。
「おばうえ、おろしてください」
「ダメよ、お蝶ったら、隙を見せたらさっさと一人でご飯を食べて難しいお本を永遠と眺めているでしょう」
「おばうえが、食べるのがおそいのです」
「まあ、失礼ね、ご飯をおいしく食べなさいって、泉下のお父様もそうおっしゃっていたわ」
「かってにじじさまをころさないでください」
観念したのか、後ろから抱き上げられた態勢のまま鬼蝶丸は暴れることなく運ばれていく。
「それにね、ご飯は家族みんなで食べるのがやっぱり一番おいしいのよ」
「かぞくですか?」
「そう、家族。同じ家にいるならそれは家族、ならやっぱりお蝶は私と一緒にご飯を食べるべきよね!」
「…かぞく」
「そして、そのあとは一緒に百人一首と貝合わせをしましょう!」
「…いやです」
「なにがいやなのよ、こんなに可愛い顔してるんだから、武術のお稽古だけでなく、女の子同士の話についていけないとだめなのよ」
叔母の本気の力説に、思わず鬼蝶丸遠い目をしたまま溜息を吐き出した。
お春は、鬼蝶丸の名前とその姿から、女の子であると勘違いしている。
そのことに気が付いていながらも、いまだに訂正できていない鬼蝶丸である。
『きちょうまる、鬼蝶……。じゃあ今日からお蝶と呼ぶわね』
初対面で向けられた名前の通り春の日差しのような朗らかな笑顔、それを向けられると鬼蝶丸は何も反論できなくなる。
初めて彼を家族と呼んだ女性は、彼にとって逆らうことの出来ない女性となりつつあった。
抱かれる鬼蝶丸の顔にも薄い笑みが浮かんでいる。
それに気が付くことなく、鬼蝶丸は彼女に抱かれたまま部屋まで連行されていった。
しばしの間鬼蝶丸へと家族というものを与えてくれた春。
しかし、彼女が鬼蝶丸と共に過ごした時間は決して長くはなかった。
一年の時をこの城屋敷で過ごした後、彼女は明智家からの人質として新九郎へ嫁入りし、名を小見の方と呼ばれることとなる。
再び鬼蝶丸が彼女と再会したのは、嫁入りから一年後、彼女が玉のような男の子を生んだ時のことである。
また、新九郎は、彼女を正妻として迎えた後に一人の女性を側室として受け入れている。
深芳野と呼ばれる彼女は、嘗てまだ新九郎が西村勘九郎正利と名乗っていたころに、縁を持っていた女性であり、この時すでに新九郎との子が一人生まれていた。
しかし、彼女は稲葉通則の娘であり、美濃三人衆に数えられる稲葉一鉄の姉でもある女性であった。
対して新九郎は、まだ一陪臣の時代である。結婚を望んだ二人だが父である稲葉通則に鬼子であること、そして陪臣であることを理由に縁談を断られた過去があった。
しかし今や、新九郎は美濃の覇権へと最も手を伸ばしている男である。
稲葉通則は新九郎に対して、改めての縁談を持ち込み、深芳野は側室として新九郎の元へ入ることとなる。
結果、この縁談によって稲葉・明智と二つの親戚衆を得て美濃の地盤を固め、深芳野の母である丹後一色氏との縁故を得るまでに至ったのであった。
ここに二人の跡継ぎを得て、新九郎の地位は盤石になったかと思われた。
しかし、鬼蝶丸は小見の方の出産時にその二人の子と面識を持っている。
一人は生まれたばかりの元気な赤子孫四郎。
そして、鬼蝶丸の一歳年上の少年豊太丸。
一言も言葉を交わすことは無かった、しかし豊太丸の暗い瞳の奥に眠る焔を、鬼蝶丸は確かに見ていた。
結果として、この時の決断が新九郎を長く苦しめることとなる。
豊太丸。元服後の名を斎藤義龍。
この時の少年こそ、新九郎を斎藤道三を後に討ち果たす男の若き姿であった。