確率論
「畜生、また外れやがった!」
佐藤は息づかいを荒々しくしながら、宝くじを自宅の床に叩きつけた。そんな夫を見た妻の悠子が、呆れ返ったような口調で諌める。
「宝くじが外れるなんて、今に始まったことではないじゃないの。くだらないことでいちいち腹を立てないで下さいな」
悠子の言う通り、彼が幸運の女神に微笑まれなかったのは本日に限った話ではない。佐藤は社会人になってから現在に至るまで、盲信的とも言えるほど宝くじに傾倒していた。それは結婚してからも変わらず、月の小遣いの半分以上は宝くじに消えていたりする。
「くだらないことだと。いいか、宝くじはな、夢を買うためにあるものなんだ。お前は俺に夢すら買うなというのか」
「それなら、夢はきっちり見させてもらったはずなのだから、腹を立てる理由はどこにもないでしょう」
「うるさい奴だな。俺はな、夢が正夢になるのを待っているんだ。正夢を見るために夢を買っているんだよ。夢だって見なければ、正夢にならないだろ?」
佐藤は屁理屈をこねると、ますます苛立ち頭を乱暴な手つきでかきむしる。
「でも、夢が正夢になる確率だなんてたかが知れているじゃないの。あなたも何年も宝くじを買い続けているのだから、それくらいわかっているはずじゃない。宝くじが当たる確率が限りなく低いという話は、あまりにも有名すぎると思うわ。買うなとは言わないけれど、当たらないからって怒鳴り散らさないでちょうだい」
「馬鹿か。俺はな、何年も宝くじを買い続けているからこそ腹を立てているんだ。いいか、もし宝くじを買わなければ、当たる確率は当然ゼロ。だが、一口でも買えば少なくとも、確率はゼロじゃなくなる。そんなこと、ガキでもわかる話だ。少しでも当たる確率を上げるために宝くじを買い続けているにもかかわらず、一向に成果が出ないことを嘆くことのどこが理に適っていないと言うんだ」
「はいはい、それなら好きにして下さい。懲りずに何度でも買いに行けばいいじゃないの」
「言われなくてもそうするさ」
佐藤は妻に背を向けると、むしゃくしゃしたまま外へと飛び出していく。無論、宣言通り、夢を買いに行くためだ。
「全く、どうしてあいつはいつもああなんだ。俺が宝くじの話をすると、いつも確率、確率とほざきやがって……いや、そんなことはどうでもいい。今は希望のある未来だけを考えよう」
現実から思考を逃避させ、脳裏によぎる夢に口元をだらしなくニヤつかせる。次第に、最初は地に八つ当たりでもするかの如く異様に力強かった足取りも、段々軽やかなものへと切り替わっていった。
「もし宝くじが当たったら、つまらない仕事なんか辞めてのんびり海外で暮らそうか。もちろん、あんな頭の固い女とはおさらばして美女でもはべらせて……そうだ。昔俺を馬鹿にした奴らの前に札束をちらつかせて、俺の靴を舐められたら丸々くれてやるっていうのも悪くないな。はははは……」
下品な思想は彼から理性を失わせ、ありとあらゆる欲で心を満たしていく。やがて夢は現実をも浸食し、己の身に降りかかろうとしている危機に気づくのに必要な注意力さえも着々と削ぎ取っていき……。
数週間後。静まり返った自宅のリビングで、悠子がポツリと呟く。
「あなた、知ってる? 宝くじで一等が当たる確率よりも、交通事故で死ぬ確率の方がうんと高いのよ。まあ、私の声があなたに届いているとは思えないけれど。仮に聞こえていたとしても一緒かしら。だって、あなたは私の言葉に耳を貸す気なんてなかったもの」
彼女の視線の先にあるのは小さな仏壇。その中には、笑顔を浮かべた佐藤の写真が収められている。いつぞやに人前で晒していたものよりは、幾分かはまともな面持ち。
「でも、これで私は夢のような生活を送れる。それも、あなたのお陰よ。正夢を見るために夢を見続けようとすることの大切さを教えてくれてありがとう。あなたには、心の底から感謝してるわ」
夫の遺影をそっと伏せてから、彼女は一人ほくそ笑む。
手の中に握られているのは通帳。そこには、真っ当に人生を謳歌していては一生かけてもお目にかかれないかもしれない桁の数字が刻まれていた。