見つめているもの
いちおうホラーのつもりで書いてみました。面白いといいのですが……。
のろのろと起き上がると、最初に体が欲したのは水だった。喉がからからに渇いていた。力の入らない体をなんとか動かしてベッドを抜け出すと、わたしは洗面所に向かった。
頭がずきずきと痛んだ。蛇口をひねってコップに水を汲むと、ううっとうめき声を漏らす喉に冷たい一杯を流し込んだ。生き返る心地がした。
「ああ……」
二日酔いだった。昨夜は羽目をはずしすぎたみたいだ。彼氏に振られたという由美を慰めるのに、恵理といっしょに深夜まで飲み明かしたのだった。わたし自身も日ごろの鬱憤を晴らす良い機会と散々にお酒を煽った。むかつくセクハラ上司への愚痴――というより悪口を二人に言いまくった気がする。えっと、その後はどうしたんだっけ。確か家に着いたのは一時を過ぎていたと思う。着替えてはあるみたいだから、シャワーは浴びたんだろう。それでそのままベッドに倒れこんだってことか。洗面所には昨夜脱ぎ散らかした服が散乱していた。
わたしは蛇口から流れっぱなしの水を今度は手に汲んで、ばしゃりと顔にかけた。もう一度、ばしゃり。それから近くに置いてあるタオルでごしごしと顔を拭う。それだけでだいぶすっきりした気分になった。頭の中にかかったもやがようやく晴れたようだった。けど、それでも頭痛はおさまらない。頭だけじゃなく、右足も痛いことに気付いた。ぼんやりと首を向けると、足首に青いあざができている。かがみ、さすってみる。
「あっ、痛っ」
運の良いことに、ひねってはいないみたいだった。ただの打ち身のようだ。そう言えば、昨日の帰り、酔っぱらったはずみになにか重たいものを蹴とばしたような気がする。なんだったのだろう。居酒屋の看板とかそんなものかもしれない。
わたしは顔をあげて、鏡に映る自分をみた。顔色が悪い。当たり前だ。こんな顔じゃメイクの乗りも悪いだろう――もともとすごい化粧映えする顔ってわけでもないけど。何よりも最悪なのは、今日が平日ってことだ。どんなに顔色が悪くても、吐きそうな気分でも、会社を休むわけにはいかない。そんなことをしたらまたあの嫌味なセクハラ上司に、「これだから女子社員は使えない」って文句を言われるに決まっているのだ。――ちくしょっ。女子はお茶くみで充分だって、たいした仕事も与えないくせに。
「とにかく、急がないと」
わたしはそう呟いて、とりあえず朝食を取ろうと洗面所に背を向け、
ゾクリ!!
ばっと勢いよく振り向いた。青ざめた形相のわたしが鏡に映っているだけだった。
――なに? 今の感覚はなんなの?
背筋を長いざらついた舌でべろりと舐められたような感覚だった。全身が粟立つというのはこういう感覚のことを言うのだろう。
――誰かに見られてる?
そう、誰かの視線を感じたのだ。何者かに見られている、監視されている。体中をなめまわすような、ねとっとした、じめっとした、不快な視線。
わたしは振り向いた先をもう一度よく観察した。けれど、そこにはやはりなにもなかった。怯えた顔のわたしが映る鏡に、その横にある換気用の小さな窓。そこから差し込む朝の淡い光が、蛇口の先の今にも垂れそうな水滴にきらりと反射した。
――なんだ。ただの気のせい、か。
わたしは何とか落ち着こうとした。二日酔いのせいで、感覚が変になっているのに違いない。あるいは昨日のアルコールがまだ抜けきっていないのだろう。そう思い、冷静になろうとしたが、胸中に芽生えた不安が完全に拭い去られることはなかった。わたしは振り向きながら、恐る恐る洗面所から出た。右足の痛むのも忘れていた。そのせいで、キッチンに入るとき、つまづきそうになり、わたしはいっそう体を強張らせた。
朝食を取り終わるころにはそんな緊張はすべて吹き飛んでいた。馬鹿らしくも思った。
――ほんと、なんであんなに怖がったんだろう。
わたしはおかしくてたまらなかった。作り置きにしているお手製野菜ジュースを飲んでいるときに無様にもこけそうになったさっきの自分のことを思い出し、つい噴き出しそうになった。――ああ、汚い。それにおかしい。
そんな落ち着いた気分になって、ようやく時計を見る余裕ができ……、わたしはキッチンを飛び出した。寝室に入り、クローゼットから着替えを取り出す。やばい。急がないと。すでに出社時間、一時間前だった。普段ならあと三十分は早く起きてシャワーを浴びたりするのだが、今日はそんな時間はまるでなさそうだ。わたしは女のわたしにさよならを言う。――ああっ、もう。とにかく急がないと。
それでもお化粧だけは忘れない。着替えを終えると、化粧台に向かい、人前に出ても恥をかかない程度のメイクを施す。もちろん、いつもみたいに悠長にファンデーションをはたくなんてこともできないから、おそらくは通勤途中の電車内で化粧の続きをやることになるだろう。マナーが悪いのは承知してるけど、それでも譲れないものがあるのだ。
わたしは肩まで伸び、うなじをすっぽり隠すほどの長さのロングヘアーに櫛をいれた。癖のないさらさらの髪。恵理や由美子からも羨ましがられる自慢の髪だ。どんなに時間がなくてもこれの手入れだけは忘れない。学生の頃からの習慣だった。何度か櫛を通し、寝癖を整える。わたしは鏡を見て、満足げにうなずいた。――よし、完璧。
そこで立ち上がり、鞄を取りにいく。今から出れば、なんとか遅刻は免れるだろう。わたしは化粧台に背を向け、
ゾクリ!!
足をとめた。
……マタ、アノ感覚。
何者かが、わたしを見ている。じっと、ねめつけるように観察している。粘りつくような、絡みつくような、得体のしれない不気味な視線。そのことを意識するだけで息がつまり、落ち着かない気分になる。そんな薄気味悪い視線だった。
わたしはぎこちない動作で首を動かした。壊れかけの機械人形みたいに、ゆっくり、おずおずと振り返る。しかし、その先にあるものをわたしは半ば予期していた。いや、違う。そこには何もないだろうということをわたしは予期していたのだった。
そう、何もなかった。
そこにはただ、つんと澄ましたように鎮座している小さな化粧台と、その上に雑然と並ぶカラフルな小物や化粧品の類があるだけで、あの不可思議な視線の正体と思われるものは何一つなかった。
わたしは何かに追われるように急いで部屋を出た。頬が劣化したゴムのように不自然に引きつっていた。服や髪の乱れるのも気にせず早歩きで駅まで向かった。道行く人の視線さえ気にならなかった。気にしていたのは、背後からわたしを見つめた、あのおぞましい視線だけだった。
わたしのただならぬ心中とはうらはらに、駅のラッシュアワーはまるでいつも通りだった。スーツをもみくちゃにしたサラリーマンや携帯を片手に持った学生が、わたしの前を通り過ぎる。彼らの目はわたしなんかに注がれていなかった。みなそれぞれの関心事を抱えているようだった。
わたしは軽く息を吐き、ホームに立つ。そこは女性専用車両で、なおかつこの駅が始発だから、席に座って化粧の続きをやることができる。わたしは電車が来る前からすでに化粧ポーチを取り出していた。
わたしの背後には数人の女性が並んでいる。ふと、わたしは振り向いてみた。今度はさっきみたいな不穏な視線を感じたわけではない。すぐ後ろに立つグレーのスーツの女性がどこか居心地悪そうにそわそわしていて、その落ち着きのなさがわたしにも伝わったのだ。
わたしは女性と目が合い、軽く会釈した。
「あの、どうかされました」
わたしは声を掛けた。
「いえ、その……」
女性は言いよどみ、辺りをきょろきょろと見渡した。それから眉を八の字にして、口元に取り繕うようなかすかな笑みを浮かべた。
「なんでもないんです。ただ、誰かに見られているような気がして」
一言では言い尽くせない衝撃がわたしを襲った。血が逆流したかのような、ものすごいめまいを感じた。ぐわん、ぐわん。揺れる、揺れる。頭の中を何かが思い切りかき回した。
わたしの目は見開かれ、唇は震えていた。
「それって……」
そんなわたしの動揺を相手も読み取ったみたいだった。彼女は慌てたように、
「いえ、ほんとに何でもないんですよ。ただの気のせいだと思います。現に今はそんな変な視線を感じてませんから」
「……そうですか」
「ええ」
女性は申し訳なさそうにうなずいた。
ちょうどそこに列車がやってきて、わたしは腋の下に嫌な汗がにじむのを感じながら、列車に乗り込んだ。車内は冷房がよくきいていて、乗った瞬間わたしはぶるりと身を震わせたが、それが寒さのせいかは自分でもわからなかった。手に持った化粧ポーチをぎゅっと握りしめた。
端っこの席に座り、小さく首を振った。朝から気味の悪い出来事が続いたとはいえ、この席が確保できたのは僥倖だった。ここは背後に窓もなく、わたしの苦手とする眩しい日差しも当たりにくいのだ。わたしは手早く化粧をし、その後は目的の駅に着くまで目をつむることにした。
暗闇の中にうっすらと楕円形の何かが浮かび上がっている。それはときどき明滅する。まるで、まばたきしているみたいに……。
まばたき……?
喉もとが引きつった。ごくりと唾を飲みこむ。みたい、ではない。それは本当にまばたきをしているのだ。ぱちぱち、ぱちぱち。
楕円の中に黒い丸いものが揺れ動いていた。白い縁取りのされた黒丸。縁取りの部分がやけに大きい。ゆら、ゆら……。やがて、その黒い丸いものはある一点で動きをとめた。息をひそめたようにじっと動かなくなった。
わたしはそれが眼球だということに気付いた。その明るみを帯びた中心にはわたしの姿が映っていた。わたしもまた動けなかった。手足がなにかに縛られたように動かないのだ。わたしはもがいた。必死に逃れようとした。唸り声をあげ、髪を振り乱した。そんなわたしの様子を眼はじいっと見つめていた。学者がお気に入りの標本を眺めるような、冷徹さと慈しみの入り混じった視線。うごめく触手で全身をあますところなく撫でまわされているような気分の悪さを感じた。吐き気がしそうだった。わたしは懸命に身をよじった。
――逃ゲナイト。早ク、アノ眼カラ逃ゲナイト。
その時、眼が――わたしを見つめるあのおぞましい眼が――にいっと笑った。愉快と喜悦をたたえた残虐な笑み。にやり、にやり……。その眼は、今にも狂気に満ちた何かを発しそうで……。
わたしは――
――目が覚めた。
「ハァ、ハァ……」
呼吸が荒かった。ずきずきと痛む頭に手を当てる。「ハァ……ハァ」それからもう片方の手を胸に当て、そっと深呼吸をした。
わたしは周囲をうかがった。列車は満員で、誰もわたしに注意を払っていなかった。みんな手持ちの新聞かスマートフォンに目を落としているか、不機嫌な顔で眠りこけているだけだ。
ひどい悪夢だった。このところ久しく夢なんて見ていなかった。よりにもよって何て夢だろう。あまりにも荒唐無稽で非現実的な内容だったが、現実のように鮮やかに思い出すことができた。心臓の鼓動が速くなるのを覚えた。
「えー、次はー、K駅―。K駅でー、ございまず」
目的の駅への到着を告げるアナウンスが鳴った。鼻のつまったような声のおなじみの放送。それを聞いて急に気の抜けたような気分になったわたしは、もう一度、限りなく小さな溜め息をついた。
「ねえ、翔子、ものすごく顔色が悪いわよ」
会社に着くなり、恵理に開口一番で言われたのがそれだった。
「そう。……そうね。ちょっと二日酔いでね」
わたしはあいまいに笑って言った。朝から感じた恐怖を言ったところで恵理にはわかってもらえないだろう。
「ふうん。やっぱりね」と、恵理はうなずいて、「翔子、昨日めちゃくちゃに酔っていたもの」
「わたし、そんなに呑んでた?」
「うん。もう、べろんべろんのバタンキューよ」
「なあに、それ?」
わたしはくすくすと笑った。
「もとは由美を慰めるために呑んでいたのにさ、翔子ったら、途中からスイッチが入ったみたいに、どんどんお酒を頼み始めるんだから」
「あはは。ごめんって」
「帰るときなんて、ふっらふらの千鳥足よ。口も呂律が回ってなかったし」
恵理はからかうように言う。
「もう、言わないでよ」
わたしは頬をふくらませた。
「だって、私はとめたもの。明日も仕事あるんだから、ほどほどにしとけばって。でも、まったく聞く耳持たないし。翔子って、いったんエンジンがかかるとすごいんだね。私、知らなかったよ」
「ほんと、その節はお世話になりました」
わたしはぺこりと頭を下げた。
「ううん、別にいいわよ」恵理は首を振る。「その様子だと帰りも何もなかったみたいだしね。安心したわ」
わたしは首を傾げた。
「何もなくてよかったって、どういうこと?」
「やだ、覚えてないの? 昨日、帰りに翔子を家まで送っていこうか私たち、迷ったのよ。さっきも言ったけど、翔子、べろんべろんに酔っていたし。けど、翔子は大丈夫だって言い張って」
わたしは記憶をたどってみた。昨夜、確かにそんなやり取りをしたような気がする。が、あまり覚えていない。
「いくら翔子とは言っても、やっぱ深夜に女がひとり――しかも酔ったまま歩くのはどうかなって思ったんだけど、翔子のマンション、大通りに面しているし、最後に入った居酒屋からそんなに遠くないから大丈夫かなって、結局、ひとりで帰したのよ。――やっぱり、まずかった? ごめんね」
「ううん」わたしは首を横に振った。「全然。まずくなんてないよ。むしろ、そんな迷惑をかけなくてよかったわ。――それにしても」と、そこでわたしは唇をとがらせ、「いくら翔子とは言ってもって何よ。わたしだってか弱い女なんだからね。失礼しちゃうわ」
恵理は、だってねえ、とおかしそうに笑いながら、
「あんな啖呵を聞かせられた後じゃさあ」
「えっ、何? わたし、何か変なこと言った?」
「もう、すごかったんだから。あのセクハラ野郎め、いつか絶対に張り倒してやる、けちょんけちょんのぎったぎたにしてやるーって。ジョッキをダンッとテーブルに打ち付けて、叫んでたじゃない。追加のビールを運んできた店員さん、びくついてたわ」
いつか張り倒してやるとわたしが息巻いたそのセクハラ部長は、オフィスの奥の他の社員よりもひときわ大きなデスクでふんぞり返りながら、メガフォンいらずの声をいっそう張り上げ、社員の一人を怒鳴りつけていた。
「まったく! お前はこんなこともできないのか、ええ⁉ どうなんだ! まったく。こんなことは小学生、いや、幼稚園児でもできるっていうのに。まったく!」
一昨年入ったばかりの新人が気の毒なくらいに頭を下げている。部長は説教を続けるにつれ、どんどん鼻息を荒くしていき、最終的には、
「もう、いい! 猿山にでも帰ってしまえ! お前は幼稚園児以下だ!」
と、新人社員のネクタイを引っ掴みながら叫んだ。新人は泣きそうな声で、ひたすらにすいませんと謝り続けていた。
――最低! 何もあんな言い方をしなくてもいいじゃない。
わたしは自分のことのように腹が立った。あの部長はいつもそうだ。自分は大した能がないくせに、他人のことばかりぐちぐちと言う。部下に指示を出したり、部下から報告を受けたりするときに、何か一言でも嫌味を言ってやらないと気が済まない、そんなたちなのだ。
自分のデスクで黙々と作業をしていたわたしは、こっそりとばれないように遠くから部長を睨みつけた。あの特徴的な禿げた丸頭を思い切りひっぱたいたり、蹴とばしてやったりするのを想像する。きっとサッカーボールみたいにころころと転がっていくだろう。わたしは愉快な気分に浸りかけ、
バタン!!
何かが倒れる音を聞き、振り返った。
わたしの真後ろのデスクで仕事をしていた矢吹という男性社員が勢いよく立ち上がっていた。彼の足元には椅子がひっくり返っている。さっきのバタンという音は、椅子が倒れたときのものだったのだろう。
「おい、どうした? 矢吹」
彼の隣に座っていた同僚が怪訝そうに声を掛けた。けど、矢吹君はそれには答えず、
「あああああああ! やめろおおお! 見るな、見るな、見るなあ! 俺を見るなあ!
俺を見るのをやめろお!」
急に、叫びだした。
わたしも同僚も突然のことで戸惑うばかりだった。
「おい、何があったんだ!」
わたしは正面を向いた。いきなりの異常事態に、部長も新人をいじめるのを中断し、大声で呼びかけてきた。部長は真っ直ぐに歩み寄ってきた。恐ろしい上司から解放された新人は、ほっとしたような顔をしていた。
「見るな見るな見るな見るな見るなあ! 俺を見ないでくれえ!」
矢吹君はただ狂ったように叫び続けるばかりだった。わたしは彼のことを見るのが怖くて振り返れなかった。
「やめろやめろやめてくれえ!」
彼の苦しそうな喚き声が背後から聞こえてくる。
わたしの真向いからしかめっ面で部長がやってきた。部長は鼓膜が破れそうなほど大きな声で、
「おい、矢吹! ふざけるのもいい加減にしろ! いったい何があった⁉」
「やめろ、やめろお……。やめてくれぇ……。眼が、眼がぁ……。見るな……俺を見るなァ…………」
矢吹君の声はだんだんと小さくなっていった。すすり泣きのような声に変わっていき、やがて、消えた。声が、聞こえなくなった。
「おい! 矢吹! どうした、しっかりしろ!」
わたしは恐る恐る振り向いた。床に頭を抱えてうずくまる矢吹君を部長や同僚が揺すっていた。矢吹君はぴくりとも動かなかった。ごろりと彼の顔がこちらを向くと、わたしは息を呑んだ。口からだらりと舌が垂れ下がり、半開きの瞼のすき間から、濁った目がわたしをじっと見つめていた。
わたしは悲鳴をあげた。
しばらくして、救急車が到着した。矢吹君は意識を取り戻すことなく、病院へ運ばれていった。
矢吹君の騒ぎがあったせいで、仕事はほとんど手につかなかった。それは他の同僚たちも同じだったようだ。部長も始終いらいらしていて、部下への怒鳴り声と嫌味の数がいつもの倍近くになっていた。
わたしはずっと矢吹君のことを考えていた。いや、正確には、彼の叫んだ言葉の意味について思考を巡らしていた。彼はずっと、見るな、と、やめて、ばかり叫んでいた。何に対してその言葉を言っていたのだろう。彼は何をあんなに恐れていたのか……。
わたしは、今朝の不気味な体験を思い出していた。あの、粘りつくような、気が狂いそうになるおぞましい視線……。彼もそれを感じていたのではないだろうか。そして、それに耐えきれなくなって、あんな風に……。
そう言えば、駅のホームでも同じように女性が何らかの視線を感じていた。そうだ。彼女もまた彼と同じなのだ。あの眼の被害者なのだ。そして、当然わたしも……。
わたしはじっとしていられなくなり、とうとう立ち上がって、部長のところまで行った。
「部長」
スイカ頭の部長はわたしを不機嫌そうに見つめて、
「何だ、どうした。お前まで矢吹みたいな騒ぎをやらかすわけじゃないだろうな」
わたしは言った。
「気分が悪いので早退させてください」
「何⁉」
「とにかく気分が悪いんです。お願いします」
「何をわけのわからないことを言っているんだ! ふざけるなと言っただろ!」
「じゃあ、矢吹君のお見舞いという名目でもいいです。とにかく、早退します」
鯉のように口をぱくぱくさせる部長に背を向け、わたしは足早に自分の席に戻り、鞄を手に取って出口に向かった。くるりと体の向きを反転させ、青ざめた顔の部長に丁寧に頭を下げる。部長は頬に赤みを取り戻し、
「……どうなるか、覚えてろよ」
と、低い声で言った。わたしは何も言わずにそのまま会社を出た。
駅に向かい、列車に乗る。昼間の下り列車は乗客は少なかったが、席はまばらに埋まっていた。わたしは真ん中の席に座り、今日いちにちの最悪な出来事の連続について考えを巡らせた。会社にいられなくなるかもしれないが、あの場合は仕方なかった。これ以上、同僚たちに被害を出すわけにはいかなかった。
矢吹君があんな風になったのは間違いなくわたしが原因だ。彼はわたしを見つめる何かに見つめられ、錯乱したのだ。自宅で視線を感じたということは、わたしがあの眼を会社にまで持ち込んだに違いないのだから。
わたしは肩を抱きしめた。震える声で、誰にも聞こえないように呟く。
「何よ。眼が何だっていうのよ。いったいどこからわたしを見張っているの。姿を現しなさいよ」
わたしは宙を仰ぎ、
ゾクリ!!
席を立った。
――来タ。アノ視線。
数人の乗客が怪訝そうにわたしを見た。わたしはそれに構うことなく、ゆっくりと振り返る。ぎくしゃくとした不自然な動きに、乗客の視線がいっそう訝し気になった。視線に敏感になっているようだ。
はたして、そこには何もなかった。目をとめる間もなく流れゆく沿線風景が車窓越しに見えるだけ……。
わたしは、その場にへたり込んだ。
「何なの、いったい……」
やがて終点到着のアナウンスが鳴り、わたしは悄然と列車を降りた。
駅から自宅までの道をとぼとぼと歩いた。もうどうしたらいいのかわからなかった。あの眼はどこからわたしを見つめているのだろう。――どこから? いったい、どこから?
すると、途中、あるものと出会った。それはいつも通り道で見かけはするが、一度たりとも注意を向けたことのないお地蔵さまだった。丸い石を二つ重ねただけにも見える、ちっぽけな地蔵。道端に立っているそれは、わずかに傾いていて今にも首が落ちそうになっている。その脇にはおんぼろの木札が立っていて、地蔵についての説明が意外に詳しく書かれていた。
わたしは何かに憑りつかれたようにその地蔵の顔に見入った。まん丸の顔にはこちらをじっと観察するようなギョロ目が彫りつけられている。
わたしはその瞬間、昨夜の出来事を思い出した。
……そうだ、昨夜もわたしはこの道を通っていた。散々に酔っ払い恵理たちと別れた帰り、わたしはこの道を一人で歩いたのだった。そして、いつもなら目もくれないこの小さな地蔵の前で立ち止まった。わたしは地蔵をまじまじと見つめた。地蔵の頭はまるで部長にそっくりだった。あのボールみたいにまん丸なセクハラ部長の頭に……。
酔っぱらって気の大きくなっていたわたしはその地蔵を部長に見立て、思い切り蹴とばしたのだった。地蔵の首が落ちそうなのはそのせいだった。――右足が、ずきりと痛んだ。
わたしは地蔵の脇の立札に目を向けた。そこには太い墨字で『芽生え地蔵』とあった。……芽生え地蔵、か。その横には次のようなことも書かれていた。
『かつてこのあたりに盲目の少年がいました。彼は毎日このお地蔵さまにお供え物をし、一日としてお祈りを欠かすことはありませんでした。ある春の日のことでした。草花の芽生える、生命の息吹に満ち溢れた日でした。なんと彼の目に光が戻ったのです。彼はそれをお地蔵様のおかげに違いないと思い、大変感激しました。彼はこの地蔵に芽生え地蔵と命名し、生涯、感謝の祈りを捧げ続けたのです』
ざあッと風が吹き、わたしの長い髪を乱した。ひっ、と声がした。わたしは後ろを向いた。買い物袋を持った主婦と思われる女性が怯えた顔でわたしを見ていた。彼女は徐々に後ずさり、きゃあ、と叫び声をあげて一目散に逃げていった。
わたしは呆然とそれを見送った。
――頭の中で何かが弾けた。
わたしは自宅まで走った。とにかく走った。今すぐに確かめたいことがあった。
わたしの頭には今朝からの出来事が次から次へと浮かんでは消えていった。
最初に視線を感じたとき、そこは洗面所で、振り向いた先には大きな鏡があった。
その次は化粧台に背を向けたときで、そこにも当然、化粧のための一枚鏡がある。
それから、ホームで誰かに見られているような気がすると語った女性。彼女はわたしの真後ろに並んでいた。彼女はわたしが振り向くと、視線は消えたと言った。
会社で錯乱状態に陥った矢吹君。彼のデスクはわたしの後ろにある。わたしは途中から彼のことを見るのが怖くなって、彼にずっと背中を向けていた。わたしの長い髪のすき間から、何が彼を覗き見ていたのだろう。
会社を出るとき、わたしは部長に背を向けて出口に向かった。振り向いて部長に頭を下げると、部長の顔は青ざめていた。しかし、すぐに赤みを取り戻した。言うまでもなく、わたしが正面を向いたからだ。
さらに電車に乗り、席に座ったとき、上を向こうと首を傾けた瞬間、あの視線がわたしを襲った。立ち上がり、振り向くとそこには大きな窓があった。首を傾けたことで角度が変わり、その窓にわたしの首筋が映ったとしたら……? 行きのときは端っこの座席だったから、背後に窓はなかった。
わたしはオートロックの玄関を開け、マンションに入る。部屋は三階だ。エレベータを待つのもじれったく、わたしは階段を駆け上がった。鬼気迫る形相で、髪を振り乱しながら。
そう。先ほどの主婦は何を見たのか。風で長い髪がかき乱され、あらわになったわたしのうなじに彼女はいったい何を見たのだろう。
わたしは化粧台の前に座り、鞄から化粧ポーチを取り出した。化粧ポーチの中には手鏡があった。
今度は地蔵のことを考えていた。『芽生え地蔵』。盲目の少年に視力を与えたというあの地蔵。なぜ芽生え地蔵というのだろう。あの立札では、それが草花の芽生える季節だからだと説明されていたが、実はそうではないのでは? その「芽生え」ではなく、「眼生え」のほうだとしたら? 盲目の少年は新たな眼を手に入れることで、視力を回復したのでは?
わたしは髪を掻き上げ、手鏡を首元に回した。そして、正面の化粧鏡を見た。
化粧鏡に映る手鏡、さらにその中に映るのは、わたしの白い首筋と、楕円の切れ目。
そのすき間から、ぞっとするような黒い瞳が、鏡越しにわたしをじっと見つめていた。
――眼が、にいっと笑った