重い愛情
階段をかけ上がる時に、ふいによみがえった15の時の記憶。
『母さんはなんで父さんと結婚したの?』
進路について悩んでいた頃の僕は、母にそう訊ねた。父がまだ仕事から帰って来ていない夕方だった。
「なんでって、言われてもねぇ…」
「結婚したってことはそれなりに理由はあるんでしょ。結婚の決め手だよ、決め手」
彼女は困ったように笑って答えた。
「…私は結婚したときから、今でもそうなんだけど『父さんが今日や明日までの命なら、自分の命も今日や明日まででいい』って思えたからかしらね」
「……そんなの」
僕は吐き捨てる見たいに言った。
「――――そんなの、ただ重いだけだ」
相手と同じだけの寿命で良いだなんて、ただの重くて固くて縛られるだけの、愛情。
「…そうかもしれない。確かに世の中には愛し愛されるだけの恋愛もあるかもしれない。でもね、私達はそれだけじゃ足りないの。普段は仲が良くても、たまには憎み合ってそれでも離れられないような激しい恋愛がしたい。だから私にはあの人が必要不可欠で、あの人も私を欲していてくれる。それで結婚したのよ」
「……………」
「まだ中学生の新には分からないと思うわ。だけど今はまだ、分からない方が良い。大人になってから知って、理解できた方が楽しいとか嬉しいとかを感じられる筈だから」
「…そう、かな?」
「そうよ」
母さんはさっきとは裏腹に生き生きとして、すっきりとしたような面持ちでいたことに気がついた。でもこのときの僕はまだ、『馬鹿げてる』とか『変なの』とか考えてしまっていた。
「じゃあ、さ」僕は言った。
「本当に父さんが死んでしまった日が来たら、母さんは……死んでしまうの?」
母さんは驚いたような表情を一瞬うかべたが、すぐに元の表情に戻った。
「……そうね。新には悪いけど、父さんがいなくなった世界なんて私にとって生きる価値のないものなの。新とはずっと一緒にいたいけれど、私が一番大事だと思ってるのはあの人だから。あの人がいなくなったら失望して、絶望して、死んでしまうかもしれない」
母さんは、また、笑った。
―――――ほら、やっぱり冗談だ。そんな愛情、あっても実現するはずがない。
そう感じて安心したのか、腹が立ったのかよく覚えていない。ただ、母の言葉は今でも鮮明に記憶している。いや父がいなくなってしまった今、思い出しただけかもしれない。
でもそんなことどうだっていい。
息を切らして、ようやく屋上のドアまで辿り着いた。
そして古びたドアノブに手をかけて、ギイ、と音を立てて扉を開けた。
そして、――――目があった。飛び降りる瞬間の、母、と。
視界がスローモーションに切り替わり、きっと1秒にも満たなかったであろう一瞬が、僕には何十秒にも、何分間にも感じられた。
「――――母さん!!!」
声が出たのは、彼女が眼に映らなくなってからだった。
「なんで、」
足が、腕が、頭が、口が、目が、体が、動かなくなった。
「嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。」
――――――膝から崩れて叫ぶ。絶叫した。
「父さん!母さん!もう、やめてくれっっ……!!!」
下から聞こえる女性の悲鳴と、僕の泣き声か叫び声か分からないものだけが響いた。
11月30日、神田修死去。享年63。死因、心臓発作。
12月1日、神田葉子死去。享年60。死因、飛び降り自殺。
10話目、読んで頂きありがとうございました。
もう10話、ようやく10話。なんと言い表していいかわかりません(泣)
新の回想で中学時代の想い出が多いのは、私のなかで中学時代が一番強く残っているからかもしれません。
あのときこうしていれば、とか後悔したり、あのときこうして良かった、とか思い返すことが中学のときが多いです。
そういえば初恋は中学生になってからでした。学校の先生に恋をしていました。若気の至りというものでしょうか…。
今後ともよろしくお願い致します。
飴甘海果