⑫七宝の森〈2〉
窓の外で、雪が深々と降り積もる。
季節はすでに冬の只中。銀鼠の月。
いつの間に、そんなにも時が流れたのだろうかとハトリは思う。
高く聳える城の窓から見える町並みは、小さすぎて模型のようだった。歴代の皇帝たちはここから見下ろす城下に愛着を持てたのだろうか。ふと、そんなことを考える。
窓に触れると、ひどく冷たい。あたたかい暖炉のそばへ行けばいいものを、窓から離れることができないのは、この雪を眺めていたいからだ。
真っ白な雪が、すべてを清めて忘れさせてくれるような気がするから。
そう考えることが、すでに囚われている証拠である。未だ、あの日のことを考えない時はなかった。
――ノギとの出会いは春だった。
まだ肌寒さの残る春先。
優しさなんて欠片もなく、最悪の形で門前払いにされた。それからも、ひどい目に遭わされた。
たくさん罵倒されたし、こき使われた。
けれど――思い起こせば、それらさえ楽しい思い出だった。
こんなことならば、会いに行かなければよかった。あのまま別れていれば、綺麗な思い出のままにできた。
それなのに、欲を出してしまった。
囚われたハトリを助けに来て、抱き締めてくれた。優しくささやいてくれた。
だから、ほんの少しの望みを抱き、想いを告げた。
あの時、あの瞬間、気持ちが通じ合ったと思えた。お互いを求める気持ちが確かにあると。
ハトリはそっと、自らの唇に触れる。
すると、涙がこぼれた。
ノギは、ユラよりも優先するべきことなんてない。わかっているつもりで、その気持ちの強さを理解できていなかった。
慟哭する心を雪に重ねて、溶けてなくなる日を待つ。
今は、それだけだった。
そんなハトリのもとに、ある日、キリュウが訪ねてきた。
ハトリは現在、城の客室にいた。二人の宰相の計らいである。
だから、会いに来ようと思えばいつでも来られた。今になって会いに来たのは、皇帝であるキリュウが多忙を極めているせいか、キリュウにとってのハトリの重要度が低いせいか。
多分、両方だろうと思う。キリュウは、部屋に入るなり言った。
「ノギたちとは別れを済ませたのかい?」
あれを別れと言うのなら、そうなる。何か苦々しいけれど。
「そう、ですね」
感情を込めずにつぶやくと、皇帝は煌びやかな装いを優雅に捌き、対になった椅子のひとつに腰かけた。
「二度と会うことはできないだろう。彼らが戻ってくることはまずないからね」
一瞬、キリュウが何を言っているのか、ハトリには理解できなかった。ただ、眉根を寄せる。
「戻ってこない?」
すると、キリュウは鷹揚にうなずく。
「そう。私は『鍵』を渡した。これで結界を抜けることができる」
結界。
思い当たるのは、いつか七宝の森の深部に結界があるとノギが言っていたこと。
「……あそこ、七宝の森の奥には何があるのですか?」
この皇帝が素直に答えてくれるとは思わなかった。年齢と外見に見合わず、ノギ以上の曲者だという認識が密かにある。
けれど、意外なほどにあっさりと、キリュウは微笑のままに言った。
「あの森の奥には異界の門がある」
「異界の門?」
「こことは違う、別世界への扉だ。そして、そこからユラの故郷へ行ける。あの二人はそこへ帰ることを願い続けてきた」
こことは違う、別の世界。
特別なただ一人の太古の民。
けれど、ノギも――ユラの力を借りることができるノギも、特殊な体質だと言える。ノギもこの世界とは異なる場所から来たということなのか。
ハトリは震える唇で問う。
「太古の民は、別世界からやってきた人種ということですか?」
キリュウはうなずく。
「そう。やってきた太古の民の子孫がこの地に根づいた。それが我らの祖先だ。この地に順応するまで、人類は短命だったようだ。魔術が触媒を使う今の方式となったのも、身を削る力の消耗を抑える手段であった。我らの祖先は、触媒がなくとも多少の魔術を使うことができたようだが、今となってはそのような芸当ができる者はおらぬ」
そんな話は、聞いたこともない。授業で語られることもなかった。
これが事実だというのだろうか。
「この世界は純粋な太古の民にとっては淀んだ世界であるらしい。本来なら、我々の何倍もの寿命を持つ人々なのだが、それは環境が整っていればの話だ。この世界では、息をするだけで命を蝕む。この世界で生まれた子孫たちは、永い時を経て順応することができるようになっていったようだけれどね」
呆然とするハトリに、キリュウは続けた。その声は、歌うように美しいけれど、哀切というべき悲しみに満ちていた。
「ユラたち二人がこの世界に来ることとなったきっかけはわからない。ただ、それは太古の昔に祖先となった人々を思えば、今さらというところだ。……ユラは、ノギとも違う。今となっては、この世界でただ一人の、孤独な存在――」
だからこそ、とキリュウは言葉を切る。
「だからこそ、私にとってユラは特別だった」
「え?」
そうして、少年は無理をして笑うのだった。その白い指が、額に戴く宝石に触れた。青い、吸い込まれるほどの凄みを帯びる宝石は、王の証なのだという。
「わかるかい? この石は触媒だ。『天神の慈悲』という、歴代皇帝が冠してきたもの――」
こうしていると、ルクスは感じない。だとするのなら、あの台座に何か仕掛けがあるのではないだろうか。そんなことを考えながら、ハトリはその宝石の青に見劣りすることのないキリュウの瞳を見た。
キリュウはそっと微笑む。
「この触媒を私が解放すれば、この国は滅ぶ。少なくとも、私にはそれがわかる」
突然語られた内容に、ハトリは愕然とするだけだった。キリュウはそれでも続けた。
「この国はね、皇帝の手の平に載った卵のようなものだよ。いつでも、力を込めれば握り潰すことができる」
キリュウが繊細な手を握り締める仕草に、ハトリはゾクリとした。
「何故、そのようなものを歴代皇帝は冠してこられたのですか……?」
率直に訊ねると、キリュウは常に保ち続けている笑顔のままで答えた。
「試されているのだよ、歴代皇帝は」
「そ、それはどういう……」
「いつでも滅ぼすことができる、弱く儚い民たちを、天神のような慈悲を持って愛し、護ることができるのかと。それができぬのならば、その手で滅ぼせ。それが、人でありながら神のように民を統べる覚悟だと」
この、幼い少年がそれほどの重みを背負って生きているというのか。
「耐えきれず、自害されたのは先帝ばかりではない」
国を背負うとは、それほどまでにおぞましいものなのか。
「……その触媒の継承を取り止めることは考えられないのですか?」
そうしたらいい。そうできればいい。
けれど、そう考えてしまうのは、ハトリにはなんの責任もないからだ。
「そうしたなら、私は王ではない。我が身を愛する只人と成り果てる。けれど――」
強い瞳をしていたキリュウが、一瞬だけ歳相応の少年のように見えた。
聡明であるが故に、子供であることを許されず、誰よりも早く心だけ大人になった。そんな悲しい存在だ。
「この孤独を理解できる者がいるとするならば、それはきっとユラだけなのではないかと、出会ったあの日に思った」
ただ一人の、特別な存在。
キリュウはユラに自分を重ねたのだろうか。
ハトリは改めて、この皇帝の妃になるということがどれほどまでに困難なことなのかを考えさせられた。
うつむくハトリに、キリュウは言う。
「君はノギに想いを寄せていたようだけれど、ノギはユラと共に去る。君よりもユラを選ぶ。結局のところ、私たちは最愛の相手がそばにいてくれることはない、似た者同志なのかもしれないね」
「キリュウ様……」
ズキリ、と胸が疼く。
「お互いがそれを知っているからこそ、無駄のない関係が築けると思うべきか」
そうなのかもしれない。
それはとても悲しいことなのか、気持ちが切り替えられない今、よくわからない。




