②花菱の野〈1〉
魔術帝国ライシン――。
その国は魔術師の筆頭である皇帝が統べ、魔術師たちが国の上層を支える。数々の仕組が魔術によって稼動している国なのだから、優秀な魔術師が重用されるのも仕方のないこと。
魔術師の素質である魔力を有する者は、より良い地位に着くために幼い頃から魔力を伸ばす努力をし、よく学ぶのが当然であった。
ただし、魔力のない者たちは最初から諦めるしかない。後天的に魔力が芽生えることなどないのだから。
それぞれができることを探し、生きていくだけだ。
そんな三日月の形をしたライシン帝国国土の南には、広大な森があった。
七宝の森と呼ばれるその森は奥深く、誰も近寄ろうとはしない。
けれど、その森の近くには、赤い屋根の小さな一軒屋があった。原っぱの中、柵に囲まれたその家には、触媒と呼ばれる魔術のもとを入手する、触媒屋の少年が住んでいた――。
季節は春。暦では、一年の始まりである松海の月。
雪解けを迎え、新たに芽吹いた草花がちらほらと色を添える。それは美しい季節である。
この国では、四季さえも魔術師が微調整をしている。だから、月が変われば必ずそれに応じた気温となる。季節はずれの気象などとは無縁だった。
季節は、春夏秋冬それぞれに三ヶ月ずつ。わかりやすいことこの上ない。
必ず決まった時にやってくる春。
過ごしやすい季節である。
あたたかく優しい風が、七宝の森の手前の野原をさっと撫でた。そこに佇む少女の若草色のスカートも共になびく。
「……ここかぁ」
彼女は遠目に赤い屋根を認めると、ごくりと息を飲んだ。
まっすぐに伸びた、長く艶やかな髪は珊瑚色。意志の強そうな空色の瞳は長い睫毛に縁取られ、大きく見開かれていた。
きれいなカーブを描く首筋、胸もと、腰。スカートの裾から伸びた形のよい脚。
十代半ば、成長途中特有の危うい美しさがある唇を少女――ハトリはきつく結んで覚悟を決める。
「よし、行こう!」
ハトリがこんな辺鄙な場所までやってきたのには、それなりの理由がある。その理由とは、ぼんやりと立ち尽くして時間を浪費することではない。それどころか、時間が足りないのだ。
だからこそ、ここまでやってきた。ぐずぐずしている場合ではない。
意を決し、彼女は赤い屋根の一軒家に向かって突き進む。
原っぱでぐるりと家を囲んでいる木製の柵は、簡単で粗末なものだった。その一角に切れ目がある。当たり前だが、ここが出入り口だ。
彼女はドキドキと胸を高鳴らせながらその中に足を踏み入れるのだった。
そうして、踏み入れた瞬間に、悲劇は起こった。
ザバン、と麗らかな春の日とは無縁な音がして、彼女はびしょ濡れになった。髪や服から水が滴っても、ハトリは事態がまるで飲み込めなかった。
何が起きたのだろうか。
呆然としていると、一軒家の前に立つ少年が、空っぽになったバケツをこちらに向け、吐き捨てるように言った。
「不法侵入だ」
「え?」
少年は線の細い容姿をしているものの、弱々しさはなく、その顔を憎らしげにしかめて顎をしゃくった。
「足もと見ろよ」
言われるがままに目を向けると、柵の手前にうっすらと線が引かれていた。草に隠れてしまいそうな、目立たないものだ。
その線を、ハトリのつま先が踏んでいた。このほんの少しに対し、少年が取った行動が理由も聞かずに水をかけるというものである。それも、女の子を相手に。
あまりのことに、ハトリは寒さとは別の意味で震えが止まらなかった。けれど、少年に悪びれたところは見受けられない。当然のように敵意を向けてくる。
「あ、あんた、馬鹿じゃないの! 人様の話も聞かないで水をかけるなんて、一体どういう――っ」
思わず怒鳴ったハトリは間違ってはいなかったかもしれない。ただ、それが通用する相手ではなかったことが残念である。
「っ!!」
しまいにはバケツを投げつけられ、ハトリは間一髪でそれを避けた。
「さっさと帰れ」
面倒くさそうに言う少年に、ハトリの中で何かがプツリと切れた。怒りに震える手で、濡れた腰のポシェットに手をやる。そして、その中から一本の枯れた草を取り出した。
枯れた、ではなく、干したと言った方がいいのかもしれない。ハトリの手の平に収まるくらいの短い草は、先端に赤いフサフサとした花がついている。
それを認めた途端、少年の表情が少しだけ変わった。ピリ、と緊張感がその場に漂う。
ハトリはその草を握り締めると、声高に唱える。
「ウル・レテル・ソエル・アスク――」
ハトリの拳の奥から、赤い閃光が迸る。その右手を、紋様を描くように振ると、光はハトリの体を包みながら輝き、そして消えた。
そんな光景を、少年はぽかんと眺めていた。けれど、すぐに先ほどよりも強い嫌悪感を持ってハトリを睨み返す。ハトリの濡れそぼっていた体は、光が消えた頃には元通りに乾ききっていた。
そして、ハトリが右手を開くと、そこから少量の真っ白な灰がサラリとこぼれた。灰は風に乗り、キラリと輝いて陽に溶ける。ハトリは得意げに長い髪をかき上げて少年を見た。
「魔術師か」
少年が噛みつかんばかりに唸ると、彼の背後の扉が開く。そこから、宝石のような瞳をした、美しい少女が現れた。短めの髪にレースの飾りをつけ、フリルのワンピースを着た姿は、宝石よりも価値がある。
「ユラ!」
少年が心配そうに振り返る。けれど、ユラと呼ばれた少女は落ち着いた口調で言った。
「あなたは魔術師で、それも『ホノレス』なのね」
ハトリは、こくりとうなずく。
「ええ。私はハトリ。あなたはこっちのと違って、ちゃんと話を聴いてくれそうね」
その途端、少年は顔をしかめた。
「黙れ。帰れ。二度とここに近寄るな」
そんな彼を、ユラはたしなめる。
「こら、駄目よ、ノギ。お行儀よくして」
この少年――ノギとやらは、ユラの番犬のようだとハトリは思った。
狂暴で、躾のなっていない犬そのものだ。
良い子の皆様は決して真似をしてはいけません(> <)ノ