⑩籠目の砦〈7〉
細い月の夜。ノギがシャトルーズ学院の門前に行くと、ヤナギがいた。
夜の学院は、昼間の煌びやかさが嘘のようにおぞましく感じられた。建物の白が闇色に染まる。ただただ不気味だった。
「ユラは置いてきたのか?」
ノギはうなずく。ヤナギもユラがいなくて安心したようだった。
「そうか。その方がいいだろう。私の手の者も配置してある。お前も無理をせずともよい」
無理をするなと言われても、言い返すことができない。事実、ユラがいない以上、魔術ひとつ使えないノギは足手まといなのだ。
「……それで、ムロイってやつはどうしてる?」
「まだ学院にいる。仕事が残っているのだろう」
苛立ちと焦り。それを押さえ込み、ノギも待つしかなかった。そうしていると、ヤナギは突然、自分の右手の指輪を耳に当てた。そこから何か音が漏れ聞こえる。
「――了解した」
ヤナギも指輪に向かってそう言った。誰かと魔術を使って会話しているようだ。
「おい、おっさん! 今なんて――」
顔を上げると、ヤナギはすぐにノギの口を大きな手で塞いで物陰に隠れた。今のノギは非力な少年である。簡単に引きずられた。
間を置かず、ぼんやりとした灯りが門を通る。それは、ムロイが手にしたカンテラの灯りだ。
静かに、滑るように歩く。ムロイは門を抜け、すぐそばにある翼石使用ポートに入った。そこから光の粒を撒いてかき消える。
その後に、ヤナギは使用ポートの中に残る残光に目を凝らす。それから、指輪に向けて二、三言つぶやくと、使用ポートの陣に踏み入る。ノギも置いていかれないようにヤナギの腕をつかんだ。
二人の体も、ヤナギの持つ翼石によって運ばれていく。
降り立った先は、崖の上に立つ、枯れ木に囲まれた建物の前だった。そこが寂れているのは、木々のせいばかりではない。飾り気のない石造りの建物もまた古く痛んでいた。
『籠目の砦』。
ここは、三日月の形をしたライシン帝国の、南西の先端の岬である。
当時のことを覚えている者もいないような昔、戦火によって焼かれた木々が虚しく立ち並ぶ。この木々が二度と葉をつけることはない。黒ずんだ枝だけが残された木々は、遠目にはまるで織り上げた籠のように砦を囲っている。
ライシン帝国は発展を続け、すでに岩礁に強固な結界を張り、他国の侵入を防げるようになった。今となっては、この岬に建つ砦に価値はない。
そんな、打ち捨てられた場所である。
「……むちゃくちゃ怪しいだろ、ここ」
「そうだな」
大人の成熟した落ち着きを保つヤナギに、ノギは苛立つ。
「で、どうすんだよ? このまま乗り込むのか?」
「敵が一人とは限らない。応援が到着してから……と言いたいところだが、もし、追い詰められた彼が彼女を人質にしては面倒だ。なるべく、気づかれないうちに先に救出したいものだが」
だとするなら、この壁をよじ上ればいい。ユラがいなくても、ノギは身が軽い方だ。それくらいならできるはず。
「魔術を使うとすぐに気づかれる。自力で潜入するしかないな」
ヤナギもそんなことを言った。
「上れんのかよ?」
非力な魔術師ならば、魔術が使えない時点で役立たずだが。ヤナギは不敵に笑った。
「お前こそ、落ちるなよ」
大口を叩くだけあり、ヤナギの身体能力は高かった。魔術師とは思えないような筋肉のついた腕で長身を支えながら上る。
長い間海風にさらされていた砦はボロボロだった。けれど、だからこそ、壁の欠けた部分に足や手をかけて容易に上ることができる。ただ、時々、つかんだ途端に壁が崩れるというアクシデントもあり、寿命が縮まった気がしないでもなかったが。
バルコニーに上がると、カーテンを引いた大窓があった。カーテンは綺麗な紫で、どう見ても新しかった。ノギはガラス越しに、カーテンの隙間から中を覗き込む。
その部屋は、廃墟とは思えないほど綺麗に整えられていた。
毛足の短い、緻密な紋様の絨毯。艶のある丸テーブルの上の一輪挿し。そして、柔らかそうなベッドの上に長い髪を広げて眠る、美しい少女。
その姿は、神聖なもののように横たえられていた。
「ハト――っ!」
叫びそうになったノギの口を、またしてもヤナギの大きな手が塞ぐ。
「……彼女の意識は?」
ノギは口を押さえられたままかぶりを振った。ヤナギはようやくノギを開放する。
「とにかく、先に彼女を救出する」
「あ、ああ」
ガラスを蹴破ろうとしたノギを、ヤナギが無言で制する。赤い石の指輪がはまった人差し指でガラスを丸く撫でると、ガラスはその部分だけ消滅した。ヤナギはそこから腕を差し込んで閂を外す。
「慎重にな」
ノギに釘を刺すことを忘れず、大窓を開く。その部屋に敷かれた絨毯が、ノギの足音を消してくれた。
ハトリのそばへ駆け寄ると、何か異様な空気が流れているような気がした。肌にまとわりつくような、薄気味の悪い何かが。
それもそのはずで、ハトリの上には淡い光を放つなんらかの魔術が展開されていた。ノギに読み解くことはできない術ではあるけれど、嫌な予感しかしなかった。
背後では、ヤナギが指輪を使って交信している。
「外はすでに固めたそうだ」
ヤナギの配下の者が到着したのだろう。ほんの少し安心した。
けれど、それも束の間だった。眠るハトリの顔の白さに、ノギはどうしようもなく恐ろしくなった。
手を伸ばし、その頬にそっと触れる。その途端に、展開されていた魔術は砕けて消えた。
痺れたように震える指で、何度かその頬を叩く。
「おい、ハトリ!」
あたたかい。生きてはいる。けれど――。
「……ヤツを捕まえてくる。お前はそこで待て」
ハトリに何をしたのか。何故、目覚めないのか。
結局のところ、ムロイを捕まえなければわからないのだ。
ノギはうなずく。ヤナギは特殊な翼石の力なのか、不意に消えた。今さら驚かない。
ただ、ノギは眠るハトリの横でつぶやいた。
「ごめんな、遅くなって……」
けれど、これで大丈夫だと、間に合ったのだと信じたかった。すぐに解決して、ハトリはノギに大げさな身振り手振りでこの出来事を語ってくれる。ひどい目に遭ったけど、もう終わったことだと言って笑ってくれる。
それだけを願った。
カタリ、と背後で音がした。ヤナギだと思って振り返ると、そこにいたのは――。
「お前……っ!」
痩せぎすで、神経質そうな面持ちの男。
暗い目をした男は、ノギを見た途端に低く唸る獣のような声を出した。
「触るな!」
その言葉に、ノギもまた凶悪な面持ちになって立ち上がった。
「触るな、だ? こいつはお前の持ちものじゃない。偉そうに指図すんなよ」
ムロイの、ギリ、と歯を擦り合わせる音が聞こえた。
「彼女は、優秀な、私の、生徒、だ。だから、卒業、後も、学、院に、残って、私の、助手、として――」
目つきが怪しい。言葉も、すでにノギと話しているというよりは独り言のようだった。
ハトリを気に入っていたムロイは、自分の助手としてハトリをそばに置こうとした。けれど、ハトリはそれを断ったのだろう。そのため、こうして幽閉された、とそういうことのようだ。
ムロイは狂ったように言葉を撒き散らす。
「要らない、もの、は、忘れて、目、覚めた、ら、ハ、トリ君、は――」
「なんだよ、それ……」
ムロイは耳障りな哄笑を立てた。
その後に続いたのは、ノギへの返答ではなかった。
「ヴェゼ・スァロゼ・パーゼ・アド――」
ギクリ、と体が強張る。狂気に満ちた目をしたムロイの手には、触媒が握られていた。
あれは、ノギがハトリにあげたもの。
最高級品である水龍の鱗の欠片。
高い魔力を必要とする触媒だが、学院の教員であるムロイならば使いこなすこともできるのだろう。この狭い室内でそんな術を放てば、ハトリも巻き添えになるかもしれない。
そんなことまで頭が回っていない。それとも、ハトリに対しては防御対策がされているのだろうか。
今のノギに強力な魔術を防ぐ手立てはない。ここにユラはいないのだから。
ヤナギが間に合ってくれるしか、助かる道はないのだろう。
それでも、ノギはあっさりと諦めるつもりなどなかった。立ち上がると、とっさに走り出す。まだ、詠唱を妨害できるかもしれない。
展開する魔術が、薄暗かった部屋に光を振り撒く。
……ヤナギの進入手口が空き巣のよう(笑)




