①雲立涌の丘〈6〉
そうして、港町ウィスタリアから出航した船は、南の港町バーガンディに到着した。ウィスタリアよりも南であるため、気候は穏やかである。息が白くなるほどの寒さはない。
このバーガンディが、ノギたちの家から最も近い町だった。食料の買出しや、触媒の仲買をしてもらうため、こちらにやってくる機会は多い。
「セオ、首を長くして待ってるわね」
「ハッ。待たしときゃいいんだよ」
吐き捨てるように言うノギだったが、セオとは仲買人である。
例えば、ノギたちのように触媒を入手することができたとしても、ノギには魔術師に売りつけるつてがない。
魔術師は上流階級である。そうそう話す機会もなかった。だから、仲介を必要とする触媒屋がほとんどなのだ。
それでその間に立つのが、セオのような触媒仲買人だった。数々の触媒を扱う店を開き、両者の間を上手く取り持ってくれる。
つまり、普段から世話になっている相手なのである。今回の依頼もセオが持ってきてくれたものだ。
けれど、ノギは感謝など一度もしたことがない。
セオの店。
わかりやすすぎる名前と看板。
町の一等地に、それなりの大きさを持って聳える、レトロモダンな造り。二階に直接行ける階段には、繊細な作りの柵があり、レンガの壁には青々とした蔦が計算されたデザインのように這っている。
ノギはしかめっ面でその扉を開いた。ドアベルがガランガランと鳴る。
店の中にはえも言われぬ臭気が漂っている。臭い、と一言で言い表せない。薔薇の匂いにも似たと思えば、発酵臭もする。たくさんのものが入り混じった臭いだ。
それもそのはずで、壁一面の棚には触媒がところ狭しと並んでいた。すべてガラスのビンに収まっているが、あれは店主のセオでなければ開封できない。割ることもできない。盗難防止の術の数々が、この店には存在する。盗人は、忍び込んだら最後、生きては出られないことだろう。
「来たぞ」
淡く色づいた光の灯る店内で、ノギがひと言素っ気なく言うと、カウンターの内側にいた店主がそこから駆け出してきた。
それは、長身に見合った長い脚をした美女だった。長い髪を後頭部でまとめ、紅い口紅をひいている。彼女が動くたび、大胆なスリットの入ったスカートからいちいち脚が覗いた。その美しい脚が、彼女の自慢なのだろう。
はっきりとした目鼻立ちの美人だが、二十代前半にしてこの店を仕切っていることからも窺えるように、それなりのやり手である。
「いらっしゃい。待ってたわ」
優美な腕をノギに巻きつけ、ぎゅうっと締め上げるようにして抱きつく。ノギは嫌な顔ひとつ――ふたつみっつして、ひたすらそれに耐えた。買取が終わるまでの辛抱である。
ノギよりも背の高い彼女が、ようやくノギを解放してくれた。その頃には、ノギはすでに殺意さえ滲ませている。
しかし、それくらいで怯む彼女ではない。クスクスと艶やかに笑いながら、ノギの頬を両手で包む。
「せっかく可愛い顔してるんだから、もっと有効に使って媚びなさいよ」
「うっさいブス」
途端に頬をつねられ、引き伸ばされた。指先にこれほどの力が込められるのだから、ナヨナヨしているのは振りだけで、実は怪力なのだろうと思う。青筋を立てた笑顔が怖い。
「他の触媒屋はムサイ男ばっかりなんだもの。その顔で、いつもおキレイですね、くらい言えたら、一割増しで買い取るのに、ほんと馬鹿な子」
頬を引っ張られたまま、ノギは言った。
「いふみょうひゃいれふ」
「アンタ、どうせわからないと思って、今、いつもうざいですって言ったわね?」
「う?」
「言った」
このままではノギの顔が大変なことになると危惧したユラが、そっと止めに入る。
「まあまあまあ」
けれど、今のユラはまだ子供の姿のままである。セオの腕には到底届かない。それでも、セオはその存在に気づいてくれた。
「あらやだ、何この子? ユラそっくり!」
「あ……」
ユラの生態をセオは知らない。知らせるべきではない。
平穏に暮らしていくためには、誰にも秘密にしなければならないのだから。それなのに、うっかりしていた。
ノギはとっさに優曇華の露を取り出すと、セオの気を逸らせるために押しつけた。
「ユラの親戚。預かってるんだから、ちょっかい出すな。ほら、仕事しろ」
その態度に、セオは柳眉をひそめて嘆息する。
「はいはい」
ちゃんと採取して戻ると信じていたのか、料金はすでに用意されて小さな麻袋の中にあった。カウンターの裏からセオがそれを取ってきて放り投げると、ノギは素早くキャッチしてその中身を確かめる。そして、言った。
「交通費込みだな?」
「そうよ。そうじゃないとアンタ、うるさいんだもの」
ノギにとって、セオはうっとうしくて嫌なやつだという認識ではあるが、こういう話のわかるところはまあまあだ。
「さすが、よくわかってるな」
二ッとノギが不敵に笑うと、セオも笑った。
「やん、笑顔可愛い~」
イラッとする。こういうところがやっぱり嫌いだ、とノギは再び仏頂面に戻った。
☆ ★ ☆
ほんの少しあたたかくなった懐で、ノギはいい肉を買って帰った。ただ、肉だけでは栄養が偏ってしまう。晩餐は、串焼き。旬の野菜と肉を長めの串に刺し、炭火で丁寧に焼いていく。
火の通りにくい芋などは下茹でした。タレも三種、さっぱりとした柑橘、香草チーズ、塩大蒜。
ユラはよく食べた。けれど、体は縮んだままである。
その後、小さなユラは風呂上りのノギの部屋へやってきた。
「ノギ、怪我の具合はどう?」
怪我とは、獣に引っかかれた脇腹のことだろう。
「ん? 大丈夫。痛くもなんともないし、すぐ治るよ」
心配させずに済むよう、ノギは精一杯明るく言った。事実、大した怪我ではない。それでも、ユラはやはり気にするのだった。
「ごめんね、力が戻ったらすぐに直すから」
ユラの力は剛の作用ばかりではない。柔というべきものが、治癒能力だ。
あまり怪我をすることはないのだが、ユラはノギが怪我をすると、その手をかざして傷口を塞いでくれた。それは、縮んだままでは至難の業のようだ。
すぐにその力が使えないことが、ユラにはもどかしいのだろう。
ノギはそんなユラの気持ちが嬉しかった。だから、本当はそれだけで十分だった。
「うん、ありがと」
すると、ユラはにこりと笑った。そうして、扉を閉める。
「じゃあ、今日も一緒に寝ようね」
「うん」
ノギは躊躇いなく答えた。船の中でも、ユラは寄り添うようにずっとそばにいてくれた。
「いきなり傷口は塞げないけど、こうして私がそばにいれば、再生速度は上がるから」
「うん」
ニコニコと上機嫌でノギはうなずく。
昔はいつも一緒に寝ていた。それが、大きくなってからは別々になった。
今はノギが大きくてユラが小さい。あり得ないはずの状況だけれど、実際に起こっている。
アクシデントの後のご褒美。得した気分だった。
ベッドの中で、ユラは小さな手をノギと繋いだ。あたたかな体温と甘い香りがする。ノギはただ、幸せな心地がした。
自分たちは、世間から見れば爪弾きである。それに、目的までの前途も多難だ。
考えれば考えるほどに、その事実が浮かび上がる。
けれど、こうしていれば、今日もきっといい夢が見られる。そう思って、ノギはそっとまぶたを閉じた。
さて、そんな彼らとはまったく関わりのない場所で、ただ一人困り果てている人物がいた。
「うぅ、どうしよう。これじゃあ間に合わないようぅ」
そんな叫びは、誰にも届かなかったけれど。
【 第1章 ―了― 】
2014年2月25日の活動報告にて、前作の真逆を行くということで取り入れる要素を⑤まで書きました。
①魔法 ②不思議生物 ③食事シーン多め ④登場人物少なめ ⑤少年主人公
が、実はこれの続きがありまして……。
⑥主人公の性格が悪い ⑦王様のいる国(笑)
1章は2人の紹介といったところでした。
こんな物語ですが、お付き合い頂きありがとうございました!