⑨矢絣の滝〈6〉
悪夢のような惨状であるけれど、皆で惚けている場合ではない。ノギはすぐさまハトリの方に駆け寄る。
脇腹からの出血量も多い。けれどそれは、衣類が水に濡れているから、滲んで余計にひどく見えるというのもある。
「イルマ! ちゃんと逆鱗持ってついてこい!」
「う……あ、ああ」
イルマは剣を鞘に収め、泣きじゃくるタミヤを宥めるようにして軽く頭を撫でた。
それから、ノギは傷口を気にしながらハトリを抱き上げる。ユラの力を借りているので、重さはほとんど感じない。
ユラを見遣ると、ユラも蒼白だった。水龍が強敵であったせいで無理をさせすぎている。けれど、今はもう少し辛抱してもらうしかない。
「ユラ、悪いけど、もう少し頑張れるか?」
「うん」
ユラは力なくうなずく。
「全員走れ!」
ノギはそう叫んだ。
上空では相変わらず水龍が荒れ狂っている。早くここを抜けなければ全滅必至である。
皆、死に物狂いで逃げた。どう走ってその場を切り抜けたのか、後になって考えるとよくわからない。
それでも、滝が遠ざかれば水龍の影響も薄れ、息苦しいほどの威圧感は後を引かなかった。
ノギは、腕の中のハトリが意識を取り戻して痛みを感じてしまわないことを心配しながら走った。幸いとは言えないけれど、ハトリはそのまま意識を取り戻すことはなかった。滴る血がノギの服をも染めていく。
滝を背後に、ノギたちは走り続けた。どれくらい離れた頃だろう。
ユラの体力も限界のようで、小鹿のように脚を震わせていたかと思うと、その場にへたり込んでしまった。
ノギもこれ以上力を借り続けるわけにも行かず、いったん集中を切る。そして、帝都近くの道にハトリを横たえた。
そこで、ユラを気遣いながら声をかける。
「ユラ、大丈夫か?」
「うん、平気」
言葉とは裏腹に、がっくりと項垂れているユラ。疲れていないわけがない。
申し訳ないと思いながらも、他にどうしようもなくてノギは言った。
「無理させて悪いけど、ハトリの止血だけ頼む。さすがにこのままじゃ危ないから」
ノギの傷をいつもユラが癒してくれた。その力があれば、この傷もすぐに塞がる。
イルマとタミヤは、そんな二人の会話を呆然と聞いていた。
けれど、ユラは一瞬傷ついたような顔をした。何故、そんな表情をするのかが、ノギには理解できなかった。だから、ただ驚いてしまう。
すると、ユラはくしゃりと顔を歪めた。そんな顔をさせたのは自分なのだろうか、とノギも苦しくなった。
「ごめん……」
ユラは泣いていた。
「ユラ?」
どうして。何故、泣くのか。
ノギは呆然とする頭で考えた。けれど、わからない。
その答えは、ユラの口から語られた。
「私が傷を癒せるのは、ノギだけ。他の人までは無理なの。ごめんなさい……」
呆然と、頭が冷えた。
どうして、その可能性に気がつかなかったのだろう。
ユラの力が自分以外の人間に作用したことなんてなかったのに。どうして、都合よく大丈夫だと思ってしまったのだろう。
「じゃあ、ハトリは――」
もう、目を開けない。
このままだと血を流しすぎて、二度と目覚めない。
このまま、死にゆく――。
その事実に愕然とした。今になって、急に震えが来る。
「そんなことって……っ」
やり場のない感情があふれ、目の前が真っ赤に染まった気がした。
ノギは自分は今、どうやって立っているのか、それさえわからなくなった。
誰を責めるべきなのか。何をすべきなのか。
考えなければいけないのに、何もできない。
膝をつくと、血の気のないハトリの顔に目が行く。傷口から、血が、命が失われている。
どうして、こんなことになったのだろうか。
そうした時、イルマが動いた。
「助けを呼んでくる」
ノギは暗く虚ろな瞳でイルマとを見遣った。イルマが、真剣な面持ちで言った。
「彼女はタミヤを庇ってくれた。オレだって助けたい」
イルマの隣で、タミヤが声を殺して泣いている。
それでも、今までのノギなら信用しなかった。そんなことを言って逆鱗を手に入れた手絡を独り占めにするつもりだろう、と。
けれど、今は――。
藁にもすがりたい心境だった。
「頼む」
それしか言えなかった。
イルマたちを待つ間、ユラは効かないとわかっているけれど施術を試みてくれた。やはり、効果はない。
「ユラ……」
その細い肩が大きく上下し、震える。
大好きなユラが、疲れ果てた青い顔をして、いつも綺麗な装いが泥だらけになって、びしょ濡れで――それなのに、今、ユラのことを一番に考えてあげられない。
いつから、こんな自分になったのだろう。
翼石を使用して、そう時間もかからずにイルマたちが連れてきたのはセオだった。それでも、何日も待たされたかのような気分ではある。
いつもなら、助けがそいつかと毒づいたかもしれない。けれど、今、そんな余裕もなかった。
「これは……」
セオの表情が強張る。
けれど、セオは懐から何かを取り出した。それは、触媒だった。毒々しいまでに赤い石。
「ゼラ・ルエラ・シュマラ・トーン――」
セオは赤い唇でそう唱えた。描かれた紋様の赤い光は次第に白く移ろい、ハトリの傷口に降り注ぐ。ノギはようやく息をついた。
体から力が抜けていくような感覚だった。じわりと感じるのは、疲労と安堵と、言葉にできないような感情。
けれど、現実は残酷だった。
セオは額にうっすらと浮いた汗を拭い、ルクスが抜け落ちて白くなった石を落とした。カツン、と舗装された地面の上で触媒の残骸は砕ける。
「これで大丈夫、なんだよな?」
そうつぶやいてみたのは、それが自分の願望だったからだ。
大丈夫だと、誰かに言ってほしかった。けれど、セオはかぶりを振った。
「こんなの気休めよ。ほんの少し、血を補給しただけ」
グッと心臓がつかまれるような痛みに、ノギは顔を歪めた。セオはどこかで責任を感じているのだろうか。柳眉を下げてつぶやいた。
「ここまでの怪我を癒すような触媒なんて、そう簡単にあるものじゃないわ。魔術だって万能じゃないの」
そんな言葉、聞きたくない。
「だったら、どうしろって言うんだよ!」
思わず、噛みつくように叫んだ。
そんなことに意味はない。セオが施してくれた術が、ほんの少しでもハトリの救いとなったのに、それすら感謝せずに。
けれど、セオはノギを責めるでもなく、困った顔をして言った。
「とにかく、今は帰りましょう。ハトリもユラも、安静にしていないと」
「……あ」
ユラもまた、限界だった。ほとんど地面に伏すようにして手をついている。ノギは唇を噛むと、その言葉に従った。
かの竜の虫たるや、柔、狎れて騎るべきなり。然れどもその喉下に逆鱗径尺なるあり。もし人これに嬰るる者あらば、すなわち必ず人を殺す。
『竜という動物は、馴らせば、人が乗れるほどにおとなしい。ところが、喉の下あたりに直径一尺もある鱗が逆にはえていて、これにさわろうものなら、たちまちかみ殺される』
龍の逆鱗は一尺程度らしいです。案外ちっちゃい?
必ず殺されても困るので、逃走しました(笑)
ちなみに、次で第9章ラストです。




