⑨矢絣の滝〈5〉
苦痛からなのか、屈辱からなのか、水龍は怒りをあらわに咆哮を上げた。
その音は、水を、木々を、岩を震わせる。跳ね上がる水飛沫と風にあおられながらも、ノギたちはどうにかしてその場に踏みとどまる。
ハトリとタミヤの放った魔術の効果はすでにない。水龍は縫い止められていた翼を大きく羽ばたかせた。激しく叩きつけられた尾によって、ノギたちがいた岩場が崩れる。
「うわ!」
ノギは素早く飛び、その攻撃をかわしたけれど、イルマはその尾に弾き飛ばされる。とっさに剣と逆鱗を盾にして衝撃を緩和したようだが、岩場に背を叩きつけられ、息を詰まらせながらその場に崩れた。
「イルマ!!」
叫んだのはタミヤだった。あんなにも大きな声が出せたのかと、ノギはこんな状況なのに思った。
その気を取られた一瞬の隙に、ノギにも水龍の太い胴体が迫る。
「!」
体全体を光で被い、全身を硬化して衝撃に耐えるつもりだった。けれど、そうしてさえも、水龍の衝突は凄まじいものだった。ギシギシ、と体中が軋む。気を抜けば、体中がバラバラになりそうだった。
水龍の長い胴が過ぎ去った時、ノギも膝をついていた。荒く息をして顔を上げる。
水龍は我を忘れている。ノギのそばを通過した後は空を飛び回り、滝をかすめ、岩場にぶち当たっている。パラパラと細かなつぶてが降ってきた。
「キリュウのヤロ……っ」
なんて厄介な仕事を回してきたんだ、とむかっ腹が立つ。先ほどの衝撃に痛む腹を押さえながらノギは立ち上がった。
イルマも何とか意識を取り戻したようだ。ところどころに血が滲んでいるけれど、しっかりと逆鱗を手にしていた。
ノギはユラたちを見遣った。早く避難した方がいい。
女子三人は木々の間に身を潜めていた。ユラは気丈に空を見上げているけれど、二人は怯えた様子だった。無理もない。
「おい、早く逃げるぞ!」
ノギはそう言ってイルマの方に駆け寄った。その間、ノギはずっと水龍の鱗の欠片を握り締めていた。
「あ、あれ、大丈夫なの?」
ハトリは木にしがみつきながらユラに問う。ユラは上空を見上げながらつぶやいた。
「そうね、いつかは落ち着くと思うんだけど」
「帝都まであの調子で破壊されない?」
「この滝から離れることはないから、それは大丈夫。水龍だから、水の豊富な場所でしか力を保てないのよ」
それを聞いて、少しだけほっとした。
ただ、大切な儀式に使うとはいえ、キリュウは恐ろしいものを依頼してきたものだ。
今はただ、さっさと帰りたい。
そんな時、飛来した水龍がノギたちのいる辺りで暴れ出した。岩が砂埃を立てて崩れるけれど、水龍の体から弾く滝の水がそれを押さえ込んだ。
その時、ユラにしては珍しい鋭い声が飛ぶ。
「タミヤちゃん、危ないよ!」
何故かタミヤがこちらに向けて走ってくる。非力な魔術師のくせに何をしようというのか。
ハトリは水龍が飛び回り、空へと上昇したその隙に、タミヤの方に向かって走り出した。タミヤを木陰まで連れ戻そうとしているのだろう。
ただ、水龍の飛行は嵐のようだった。すでに矮小な人間たちなど目に入っていない。あの龍にとっては、太古の民のユラでさえ、他となんら変わりないただの人間に過ぎないようだ。
体をうねらせ、風を起こし、雨を呼ぶ。局地的に降る雨と雷。水龍の長い胴がそばを駆け抜けたことにより、突風が起こった。小柄なタミヤは、とっさに何かにつかまることもできず、風に攫われる。
「!」
けれどその瞬間に、ハトリが間に合った。タミヤのローブの裾をつかみ、小柄なタミヤを抱き締める。けれど、一人も二人も大差はなく、強い風によって共に飛ばされてしまった。
そうして、二人はそのまま木の中へ叩きつけられる。
ノギたちはその光景を止めることもできず、ただ見ていることしかできなかった。叩きつけられたのが岩場でなくてよかった。ノギはとっさに二人のもとへ駆け出す。惚けていたイルマはノギよりも怪我だらけであったけれど、なんとかして後に続いた。
ハトリたちのところへ辿り着く前に絶叫が聞こえた。その声は、ハトリでもユラでもない。タミヤだ。
イルマは、傷が痛むのか腹部を押さえながら、それでもノギをも抜く勢いで走る。
木陰でへたり込み、絶叫していたタミヤのローブがどす黒く変色していた。
そのそばに横たわっているのは、腹から血を流したハトリだった。
意識はない。折れた木の枝が脇腹に突き刺さったようだ。折れたばかりの瑞々しい枝に血がついている。
雨音。滝の水音。
雷の音。龍の飛翔する音。
音。音。音。
気が遠くなる瞬間だった。




