⑧唐草の沼〈5〉
洞穴の入り口は狭かった。立って進むことすらできない。けれど、ある程度進むと、中は意外に広かった。
ノギはようやく立ち上がり、辺りを見回す。
ここは靄も薄く、僅かに光がある。苔が発光していて、その光が木漏れ日のように見えたのだ。
暗くもないので、身を隠すにはなかなかいい場所だった。
ノギが現れた瞬間に、奥で生き物が身構える気配があった。それは臆病な小動物のようだった。
ハトリは、あのニュートが怖かったのだろう。あの皮膚はテカテカ光って不気味だった。
一度目の遭遇時には魔術で撃退しようとしていたが、二度目の遭遇の時にはさらに瘴気を吸い込み、真っ当な思考をしていなかったのだろう。怖くて混乱して逃げた。そういうこと。
「ハトリ?」
精一杯、優しく声をかけた。ユラがそうしろと言ったから。
ただ、それがなかったとしても、ノギが怒鳴りつけることはなかっただろう。岩壁を背にへたり込んでいるハトリは、ひどく怯えていた。音を遮断しようとするのか、両手で耳を押さえ、強くかぶりを振り続ける。
呼び声が聞こえていないのかと、ノギはハトリのそばへ歩み寄る。そして、膝を折ってハトリと目線を合わせた。
その途端に、ハトリの怯えはひどくなった。安心なんて欠片もない。そのことに、ノギは唖然とする。
何故、と――。
その答えは、すぐに返った。
「こわい」
「え?」
虚ろなその瞳から、ぽろりと涙が零れる。
「ノギがこわい」
怖い。
「らんぼう。こわいよ」
だから、逃げたのだ。戦うノギの姿が怖いから、逃げた。
乱暴なのは事実だ。この手は凶器と言ってもいい。
ただ、そんなことは今さらだ。ハトリだって、十分に知っているはずなのに。
今のハトリには、理屈なんて通用しない。目で見て、感じたことを口にする。
この場から離れれば、ハトリももとに戻るだろう。この怯えた目をしなくなる。
そうは思うのに、ノギの心臓はズキリと疼いた。ハトリが自分に対し、恐怖を感じている。そのことに、自分でも驚くほど衝撃を受けていた。
どんなに口汚く接しても、気にしないでいてくれた。平然と口答えして、逞しく過ごしていた。
そんなハトリだから、一緒にいられた。
こんなふうに怯えられるのは嫌だった。
これは今まで、誰かに対して感じたことのない気持ちだ。誰にどう思われようとも、ノギはユラさえよければそれでよかった。
ハトリにだってそのつもりで優しくなんてしてこなかったくせに、嫌われると傷つくなんてことを身勝手に思ってしまう。
ふるふると小刻みに震え、必死で閉じたハトリのまぶたに、痛いような罪悪感を覚えた。
「怖がらせてごめんな」
いつもなら、絶対に言わない言葉だけれど、ノギはそっとつぶやいた。
すると、ハトリは恐る恐るまぶたを持ち上げて空色の瞳を覗かせた。涙を拭くと、じっとノギを見据える。その心を読み取るようにして。
顔が近い。けれど、目をそらせなかった。
ハトリはポツリと言う。
「ノギ、かなしそう」
ノギは思わず言葉に詰まってしまった。
本当に、今のハトリは子供のようで、思ったことがそのまま飛び出す。そして、変に鋭い。
建前や理屈が通用しないからこそ、感覚でものを言う。
言い当てられてしまったことが恥ずかしくて、ノギは自分が赤面していることを自覚していた。とっさに顔をそらすと、今度はハトリが回り込んで正面に来た。その顔に怯えた色はもうない。
「らんぼうなんていって、ごめんね?」
こんな状態のハトリに気を使われてしまった。そのことが妙におかしくて、ノギは苦笑する。
「乱暴で怖いのも事実だけどな」
また怯えるかと思えば、ハトリは微笑んだ。その表情に、ノギは一瞬目を奪われる。
それは、全幅の信頼というべき、安心しきった笑顔だった。ふわりと柔らかく、笑う。
そんな表情を、迂闊にも可愛いと思ってしまった自分に驚く。そして――。
「でも、すき」
「は?」
耳を疑った。今、なんと言ったのか。
ただ、今のハトリの発言に深い意味なんてない。ノギはそう結論づける。きっとそれが正解だから。
とにかく、早く帰ろう。ユラだって、外で待っている。
けれど、立ち上がろうとしたノギの肩にハトリの手が伸びた。泥のついた指先。その細い指に力がこもり、ぐいと引かれる。特に逆らわなかったノギの頬に、柔らかなものが触れた。その唇で、ささやく。
だいすき、と。
こんなのは、全部瘴気のせい。
ハトリの意志ではない。そんなわけがない。
ノギはそう考えて平常心を保った。そうしなければ、ここを出た後、ユラと顔を合わせた時にどういう表情をしたらいいのかわからないから。
「わかったわかった。帰るぞ」
赤い顔を背けて、ぽん、とハトリの頭に手を乗せると、ハトリはうなずいた。その仕草が、もっと撫でてほしいとせがむような甘えたもので、ノギはドキリとする。手を下すと、彼女の長い髪が指の間をすり抜けた。
少し落ち着かない気分になる。
ハトリがあんなこと言うからだと、どこか腹立たしく思う。
けれど、一番の驚きは自分の心かもしれない。
もし、万が一、そんな気持ちがハトリの中にあるとするなら――ほんの少し、ほんの少しだけこそばゆいような気持ちになる。
☆ ★ ☆
ユラは沼のほとりを一人で歩いた。
神聖な光を放つ彼女は、どこにいても不可侵の聖域を作り出す。
てくてくと歩くと、底がないのではないかと思われるような沼のほとりに生える、悪魔の尻尾の形をした植物を見つけた。けれど、彼女がそれを手にする前に沼が盛り上がり、そこから唐草の沼の主が顔を覗かせる。
それは、巨大なカエルだった。
鮮やかな緑と褐色の入り混じった、イボのある体。ぎょろりと忙しなく動く、半開きの眼。膨らむのど。白い腹。
岩のような巨躯だが、どこか愛嬌のある顔だった。
ユラは大カエルに向けてそっと微笑む。
「こんにちは。お邪魔してます」
すると、大ガエルは何度か瞬いた。そして、口を動かさず、思念のような形でユラに語りかけた。
『太古の民かい? 久しいねぇ。こうして見えるのは何年振りかねぇ』
この大ガエルは沼の主。千代の時を生きる。
『一人で来たのかえ? ――違うね。後、二人の気配がする』
「ええ。連れが二人います。私だけ先に悪魔の尻尾……いえ、ラプラス草を採りに来ました。少し分けて頂いてもよろしいですか?」
大ガエルは、ゲコ、と鳴いた。
『ああ、そこに生えている。好きにするといいさ』
「ありがとうございます」
ユラは優雅に一礼する。沼のすぐそばに、黒く巻いた草が生えていた。禍々しいその姿には、それ相応のルクスが感じられる。ユラはそのうちの三本を手折る。それは、あっけないほど簡単に折れた。赤黒い汁液が滴るので、それを振ってから抱える。
「では、頂きますね」
そう言ってユラが顔を上げると、大ガエルは小さくケロケロと鳴きながら思案していた。ユラが首をかしげると、再び思念が飛ぶ。
『連れのうちの一人は、あれだね。ちょっと変わってるねぇ』
ユラは苦笑する。
「ああ、お気づきですか?」
『んん、まあ、いいさ。ところで太古の民。あまり無理ばかりするものじゃないよ』
大きく、麗しいとは言えない容姿とは裏腹に、繊細で優しい言葉。ユラは心があたたかくなった。
「ありがとうございます。どうか、お元気で」
再び一礼し、沼の主に別れを告げた。
依頼の品を手に、ノギとハトリのもとへ戻るために。
次で第8章ラストです。




