⑧唐草の沼〈4〉
相変わらず、白い靄は消えない。
ノギはユラのおかげでその影響を受けずにいることができる。靄があることはわかるのだけれど、自然にその先を見通す。
ただ、ノギも集中を切らしてユラの力を借りられないと、ハトリのように瘴気にあてられておかしくなってしまうのだろう。それは嫌だと心底思った。今のハトリみたいになる自分は想像したくない。
手強い怪物が出るでもなく、そこまで難易度の高い採取ではないと思っていた。なのに、セオがわざわざノギたちに依頼して来たのは、他の触媒屋では瘴気にあてられてしまうからかもしれない。
「……おい、ハトリ」
「うん?」
「少し離れろ」
「ええ?」
ハトリは不思議そうにノギを見上げる。ノギの方が、自分がおかしなことを言ったのかと考えてしまうほどだ。
「だって、離れたら歩けないもん」
だからと言って、ノギの腕に抱きついて歩く意味がわからない。先ほどまでのように、服の裾でもつかんでいればいいだけの話だ。こんなにも密着する必要はない。
「まあまあ、いいじゃない」
ユラがにこやかに取り成す。ノギは複雑な心境だった。
「……これじゃ、いざって時に戦えないだろ」
「そしたら離れればいいんだから、今はいいでしょ。ハトリちゃん、怖いんだと思う」
確かに、靄で前も見えなくて、体にもおかしな影響が出ているとなれば怖いだろう。普段は勝気で、すぐに口ごたえするけれど、今は飼い猫のように人懐っこい。それでも、見た目だけは同じだから少し戸惑う。
「ユラがそう言うなら――」
そう言いかけた時、再び泥の中からトカゲの形をしたニュートが、鱗のない体を躍らせるように眼前に飛び出した。びちびちびち、と泥が降る。これは、先ほど遭遇した個体とは別なのかもしれない。
ノギはとっさにハトリを小脇に抱えて泥の雨を避けた。そして、後方の岩陰にぽい、と放る。
「動くなよ!」
そう怒鳴ってから、振り下ろされた吸盤だらけのニュートの手をかわすと、それを踏みつける。そして、その腕を蹴って跳んだ。ユラの力を調節すれば滑ることもない。ぬるりと蠢く舌が、ノギを払い除けようとしたけれど、ノギはそれに絡め取られるほど鈍くはなかった。
タン、タン、と軽快な音を立て、軽々とニュートの脳天まで駆け上がると、そこに拳を一撃食らわせるのだった。昇天するほどの力は込めていない。しばらく沼に浮かんでいれば目を覚ますだろう。
ノギは気絶したニュートの体から飛び降りると、ユラの前に着地した。ユラは少し困った顔になる。
「もう、ちゃんと手加減しないと駄目でしょ?」
「したよ。生きてるし」
「生きてるけど、気を失ってるじゃない。追い払う程度でよかったでしょ? 侵入者は私たちの方なんだからね」
う、とノギは言葉に詰まる。けれど、それをごまかしつつノギは言った。
「ほら、早く悪魔の尻尾を探して戻ろう? ハトリもあの調子だし」
ユラはまだ何か言いたげだったけれど、諦めたようだ。ただ、その次の瞬間に後ろを振り返って首をかしげた。
「あれ?」
嫌な予感がした。
「ハトリちゃんは?」
「……」
いない。
靄の中、闇雲に動けばこうなることが少し考えればわかるはずだ。けれど、今のハトリにそこまでの思考能力がなかったのかもしれない。苛立っても意味がない。なんにせよ、厄介だということだけが確かだった。
「あのバカ……」
舌打ちし、そう毒づく権利くらいあるはずだ。
「ノギ、早く探さないと」
ユラの言葉に、ノギは渋々といったふうにうなずくのだった。さすがに沼にでもはまったらまずい。急いだ方がいいだろう。
ハトリの視界は曇っている。だから、手探りで進んだはずだ。だとするのなら、そんなに遠くへは行けないはず。
「足跡が残ってるんじゃない? よく見て」
「あ、ほんとだ」
ユラが言うように、足もとには人の足跡があった。
ぬるぬるとした沼地だ。まともな足跡ではない。滑るように伸びている。手をついたらしき跡まであった。誰のものと判別することはできないけれど、まだ真新しい。他の人間がいたとも思えないから、十中八九ハトリのものと考えていいだろう。
その足跡は、沼地の脇にある岩場の中に消えていた。そこには小さな穴があった。身を屈めてやっと潜れるくらいの穴だ。
ノギとユラは顔を見合わせる。
「二人も入ると狭いと思うの。ノギが行って」
正直に言うと、ユラが行ってくれた方がありがたかった。手間を増やすな、とまた怒鳴ってしまう気がする。ユラなら、優しく諭せると思うのに。
そんな感情を見透かされたのか、ユラは笑う。
「優しく、ね。泣かせちゃ駄目よ」
難しいことを言う。けれど、ここはやはりハトリのせいではないと割りきって、冷静に対処するべきなのかもしれない。
ノギはなんとかうなずいた。
「わかった。でも、もし何か危なくなったらすぐ呼んでくれ」
ユラにそう言い残すと、ノギはその狭苦しい入り口を潜るのだった。




