⑦紗綾の洞〈6〉
ハトリの表情には驚愕が色濃かった。あり得ないものに遭遇してしまったとでも言いたげに、ハトリは泣き腫らした目を瞬かせる。
その上、
「どうしたの?」
などと問い返された。あんなにも頑張ってらしくないことを言ったのに、どうしたのと来た。
ノギは思わずムッとしてしまったけれど、もしかするとそうした表情の方がハトリにとっては普通に見えるのか、肩から力が抜けた。
「どうもしてない! 失礼なやつだな!」
「だって、あたしは結局、他人だもん。甘えるなって言いたかったんでしょ? あんなに怒ったじゃない。なんで今になって、そんな優しいこと言うの?」
ギクリとした。
他人とか、甘えるなとか、そういう理由で怒ったわけではない。ノギが怒った理由は、本人を前にして言えそうもない。
「他人とか、そういうんじゃなくてだな……」
言い訳も思いつかないから、歯切れが悪い。ひねくれたノギには、こうした時にどうすればいいのかがわからないのだ。言いすぎたと思うのに、謝罪が素直に言えない。ごめんと言ったら、怒った理由も言わなくてはならなくなる。
何も言えないから、ノギは代わりにハトリの隣に座り込んだ。ハトリの隣で夜空を見上げて言葉を探す。星が特に助けてくれるでもないけれど、少しだけ気持ちが落ち着く。
そんなノギの横顔にハトリが声をかける。
「ねえ、ノギ」
「ん?」
「あたし、留守番するよ。今回は諦める」
「……うん」
ハトリは泣き疲れて気力を失くしたのか、素直だった。いつもより言動が大人びて感じられる。
「ごめんね」
ノギが口にできないでいるひと言を、ハトリが声に出す。
けれど、多分、悪いのはノギの方なのだ。悪気があってのことではなかったけれど、勘違いをした。
「いや、ごめんって言うか……」
ぼそぼそ、とつぶやく。その声は小さく、ハトリには聞こえなかったのかもしれない。
ハトリが首をかしげた仕草が伝わる。ただし、まだそちらを向けない。向けないままノギは言った。
「護るって、そう簡単じゃない。俺も簡単にそんなこと言えない」
多少なりとも悪かったと思うから、連れていってやろうかとも思った。けれど、ハトリにばかり気を取られて仕事がこなせなかったら意味がない。
ノギはユラがいなければただの人間で、それもまだ子供扱いされる年齢だ。それがユラ以外の誰かを護るなんて、今は言えない。
それなのに、何故かハトリは小さく言った。
「ありがと」
ノギにしてみれば、何故礼を言われるのか理解できなかった。驚いて目を見開いた。
その真意を探るためにハトリをそっと盗み見る。泣き腫らした目元の潤んだ瞳で微笑んでいる。それはとても複雑な表情で、微笑みの中にはノギのことを信用しきっているような色が見えた。いつもよりは少しだけ優しくしたつもりではあるけれど、それだけでこんな表情をするものだろうか。
切れかけた縁が戻ったことを心底喜んでいるような、そんな安堵が見える。もしかすると、ハトリがいることをノギが前ほど嫌でなくなったことに気づいたのだろうか。
だとしたら、どうしようか。心のうちを知られるなんて、そんな恥ずかしいことがあっていいのか。ノギは頬が紅潮するのを感じたけれど、暗いからそこまで見えていないと思いたい。人差し指で頬をかいてごまかす。視線が宙を泳いだ。
ただ――。
この信頼しきった目を見ると、あれは本当に自分の勘違いだったのだろうかという気になる。もしかすると、ノギならいいかとハトリが考えたなんてことがあったりするのだろうか。
一度、ハトリの肩にノギは手を乗せてみた。ハトリは笑顔のまま首を軽くかしげる。その仕草は、認めたくないけれど、ユラの何千分の一くらいには可愛かったのかもしれない。
振り払われる様子がない。
これは、もしかすると――。
手に少し力を込めてみた。
「わっ!」
ハトリは簡単に後ろに倒れた。長い髪がパッと草の上に広がる。
後はもう、ぼんやりとしてしまっていた。何かに操られたとしか言いようのない行動だったかもしれない。倒れたハトリの上に被さり、ノギの髪がハトリの頬を撫でたその時、パニックになったハトリが盛大な悲鳴と共にノギに平手打ちを食らわせたのだった。
その瞬間にノギは我に返った。そうして、殴られたというのにどこかほっとしたような、清々しい気持ちになった。
『まさか』も『もしかして』もない。
「だよな?」
顔を真っ赤にし、口をパクパクと動かすハトリは、二人の間にあった勘違いに気づいたようだった。
処女の生き血をすする吸血蝙蝠。
『あなたがなんとかしてあげれば――』
そう言ったユラの言葉を、ノギはとんでもない受け取り方をした。
喧嘩の原因はそれである。
ハトリのお願いをノギが軽蔑した理由を知り、ハトリは全力でノギを突き飛ばして叫んだ。
「そんなわけあるか――っ!!!」
ハトリの大声が、夏の夜の虫の声を上書きするように響いた。
☆ ★ ☆
そんな悶着があった翌朝。
「おはよう、二人とも」
なんとなく寝不足な二人とは裏腹に、一人爽やかにユラは現れた。あの騒動の中、何も知らずにぐっすりと眠っていたのだろう。
「あら? どうしたの、二人とも?」
「いや、別に……」
ノギが説明できるはずもなく、ハトリにしてもそうだったのだろう。話をそらすようにして言った。
「あ、あの、ユラ。今日ね、あたし、留守番することにしたの」
「え? どうして?」
ユラは首をかしげてみせる。
「どうしてって……紗綾の洞には吸血蝙蝠がいるって言ってたでしょ? だから――」
すると、ユラは鈴を転がすように軽やかな声でコロコロと笑った。
「やだ、あれ、冗談よ?」
二人は開いた口が塞がらなかった。
「そんなの、いるわけないじゃない」
いるわけなかったのか。
ユラは時々意地悪だ。人をからかって遊ぶことがある。
真に受けた方が馬鹿だったというべきか。
ただ――。
二人の距離がほんの少し縮まったような、そんな気がしないでもない。
――ちなみに、紗綾の洞には本当に普通の蝙蝠しかいなかった。
しかし、ノギは蝙蝠を見ると親の仇に出会ったような形相で蹴散らす。逃げ惑うただの蝙蝠たちはいい迷惑だった。
「あらあら、ノギってば蝙蝠に八つ当たりしちゃ駄目よ」
などとカンテラを手に楽しげに言うユラと、なんとも言えない面持ちのハトリがその後に続く。蝙蝠たちは不機嫌で乱暴な侵入者に恐れをなし、近づくことをやめた。シンと静まり返った洞の中、ノギは立ち止まって後ろを振り返る。
その時、あっ、と声を上げて凸凹の足場につまずいたハトリがノギの方に倒れ込んだ。とっさに手を出したノギの腕にハトリは体を支えられて転ぶのを避けられたけれど――。
ありがとうの言葉はなかった。ただ、とっさに背けた顔が真っ赤であった。余計なところを触ったつもりはない。いや、断じて故意には触っていない。
なのに、どうしてそんな顔をされなくてはならないのか。そんな顔をされたら、ノギも変に意識してしまう。
どうしよう、どう手を放そうと考えると、ユラが無邪気に言った。
「ハトリちゃん大丈夫? 顔が真っ赤だけど、どうしたの?」
「えっ!! 赤くない! 赤くないよ!!」
今、ハトリが一番言われたくないであろうことをユラは堂々と言う。
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立て、ハトリはノギの手を押しやった。赤くないと言うけれど、薄暗い中でもわかるのだから、かなり赤い。
その顔を見ていると、なんとなく、押しやられた手の感覚が奇妙に感じられた。じわりと痺れるような、不思議な感覚に、ノギは手首を振ってそれを飛ばした。何度も手を開いては結び、手に異常がないことを確かめる。
深く考えるのはよそう。違うところまでチクリと痛む気がしたから。
そうして、迷路のような洞穴だったせいで時間こそかかったものの、手強い怪物もおらずに依頼品はあっさりと手に入った。そんなオチ。
【 第7章 ―了― 】
以上で第7章終了です。
二人がちょっと仲良くなって来たので大喧嘩させてみました(酷)
お付き合い頂き、ありがとうございます!




