①雲立涌の丘〈3〉
翼石の使用感は、まるで風に体を攫われたかのようである。
ノギはこの感覚が嫌いだった。あまり長距離を飛ぶと乗り物酔いに似た不快感が残る。
距離が短ければ大したことはないけれど。
ふわりと下り立てば、そこは雲立涌の丘の入り口であった。
薄く霧に覆われたそこは、寒い上にどこか空気が薄い。ノギは白くなった息で嘆息した。
丘には霜の降りた草が続いている。低木や茂みも白い。丘の地形は地面が波打っているように見えた。自然の作り出す神秘というところなのだが、それに見惚れるほど暇ではない。ノギにはどうでもいいことであった。
攻略しやすいかしにくいか、それだけだ。
見たところ周囲は穏やかで、鳥の声が遠くでするばかりだった。野獣の咆哮もなく、落ち着いて感じられる。目的の優曇華の露は丘を上り詰めたところだろうか。
そこまで飛べれば楽だったのだが、翼石は、場の持つ力に影響されることが多く、大抵は外までしか到達できなかった。
触媒が多く眠るような場はルクスが収束するため、独特の空間である。この丘の地形を歪ませたのもそうした力であるのかもしれない。
「さ、早く終わらせて帰――」
ノギがそう言いながらユラに顔を向けると、そこには唖然としてしまう光景があった。
「ユ、ユラ?」
「うん、ごめんね」
えへ、と照れながら笑ったユラの両脇には、着用していたピンクのミトンが落ちていた。ダッフルコートの裾も地面すれすれである。
「随分……縮んでないか?」
見るからに縮んでいた。
ノギと同世代の外見であったユラは今、どう見ても六歳くらい。小さい。すごく小さい。
「この季節のこの場所、私には合わないみたい。ここまで力が出ないの、初めてかも」
少し困ったように、指先さえも出ない長すぎる袖を口もとに当てたユラは、それはそれで可愛かった。だから、ノギは新鮮な気持ちになる。
「大丈夫。ここ、厄介な怪物もいないみたいだし、ユラのサポートがなくてもなんとかなるって。心配しなくていいから、怪我だけはしないように気をつけて」
精一杯、優しくささやく。
ユラはどんな時だってノギにとっては特別であるのだから。
「うん。ありがとう、ノギ」
二人はえへへ、とほのぼのと笑い合う。
一見幸せそうな光景であるが、平凡な日常とはかけ離れているのだった。
ユラはこの世界において、『普通の人』とは言いがたい人種である。そのことを知っているのは、ノギを含めた数名だけ。トップシークレットというやつだ。
では、彼女は何者であるのか――。
この国にはびこる魔術師とは質の違う魔力を持つ人。
太古の民『ルーディニフリウス』。
ユラはそうした存在であるらしい。ノギには想像もできないような時間を生きている。
実際に、昔から老いるということとは無縁なのだ。ただ、その代わり、こうした環境に影響されやすいデリケートな人種と言える。原理や理屈はノギにはわからないけれど。
今回、ユラのサポートは最小限。
けれど、だからこそ、上手く依頼品を手に入れることができたなら、ユラはノギの成長に目を見張るのではないだろうか。ノギはそう考え、俄然張りきる。
「よし、行こう」
緊張と期待を胸に、二人は丘の中へ足を踏み入れる。
ショートブーツの底にぬるりとした感触があった。寒さのわりに、雪は不思議と積もっていない。このちぐはぐさが、場の持つ力のせいであるのだろう。
「ユラ、滑るから気をつけて」
「うん、私はいいから、ノギも前をちゃんと見て歩いて」
逆に注意された。縮んで見えていても中身は同じユラなのだけれど、小さな子に叱られたみたいに思えて、それが微笑ましい。
縮んで歩みの遅いユラに合わせつつ、ノギは緩やかな丘を登る。鳥の声がまた耳に響いた。
そうこうして登っているうちに、いくつかの触媒はあった。ただし、はした金にしかならないような雑草や小石だ。今は荷物を増やしたくないので放っておく。今回の目的はあくまで優曇華の露なのだから。
歩いているから体はあたたまっているものの、鼻の頭だけが冷たく感じた。ノギは手袋をした手でなんとなく顔を触る。
そこで鳥の声がした。
ふと上空を見上げるれど、鳥はいなかった。ルルルル、と穏やかに啼く声だけがこだまする。
ノギが首をかしげると、ユラの声が鋭く飛んだ。
「ノギ、気をつけて!」
その声と同時に、ノギは身をかがめて木々の間から飛び出してきた何かを避けた。
それは獣だった。薄青い、小型の虎のような生き物。名前なんて知らないけれど、白銀の瞳は獰猛そうに輝いている。その獣がルルルル、と鳥の声で啼いた。
「なるほど。そうやって獲物を油断させるってわけか」
ノギは恐れることなく、その獣を冷静に眺めた。ユラではなく自分が狙われたのは、パンを大量に担いでいるせいだろう。美味しそうな匂いがしたはずだ。
苦笑すると、ノギは背中の荷物を降ろした。
「さて、ちょっとした肩慣らしだな。こいつら触媒になりそうもないし、追い払う程度に痛めつければいいか」
「そうね。ノギだって私の力の影響を受けてるんだから、ここで本領は発揮できないのよ。油断しないでね」
「了解」
ノギは心配そうなユラを安心させようと、優しく微笑んで正面の獣と向き合うのだった。
こちらの固有名詞は信用されないで下さいね。
特にカタカナほど信用してはいけません。創作上のデタラメです(笑)