⑤向蝶の丸の峰〈7〉
あんなにも血を流して、平気なはずがなかった。
ほとんど気力で立っていた。それが、気が抜けた途端にまったく力が入らない。
ハトリは倒れて血の気のないノギの顔に被さるようにして喚く。
「こんなになってまで助けてくれなくてもよかった! だって、あたしのこと嫌いでしょ! 嫌いなくせになんで!?」
何故、ハトリが泣いているのかわからない。
助かったのだから喜べばいいのに。ありがとうのひと言もなく喚き散らす。
泣き顔なんて見たくない。
ノギは眠りを妨げられる不快感に似たものを感じて顔をしかめた。
「うる、さい」
今一番言いたいことはそれだった。本当にうるさい。
「う、うるさいとか言わないでよ! 他に言うことないの!?」
ボロボロとこぼれるハトリの涙が、ノギの頬に落ちる。ノギは青い顔を血がついた手で擦った。
「そんなに、死にたかったら、他所で、やれ」
「はぁ!?」
ハトリの無駄に高い声が耳障りだ。ノギはさらに顔をしかめて言った。
「別に、俺は、お前が……とこなん、て、見……」
そう、ハトリが死ぬところなんて見たくはない。
うるさいし、迷惑だけれど、死ねばいいとは思わない。
それはユラが悲しむからという理由だけではなかったのかもしれない。
美味しそうにノギの作った料理を頬張り、こき使ってもめげずに一生懸命に働いた。ひと月と少し。それだけでもそんなハトリのことを知っているから、とっさに手が出た。手を放そうとは思わなかった。
本当に、それだけのことだった。
☆ ★ ☆
――限界だったのだろう。ノギは力なく首を傾けた。
ドクリ、とハトリの胸が疼いた。
「やめてよ、ねえ! ノギが死んだらありがとうなんて絶対言わないから! あたしだけ助かっても全然ありがたくないんだからね!!」
怒鳴りながら涙を流すハトリの両肩を、ユラのほっそりとした手が支えた。振り返ると、ユラが優しく微笑んでくれた。
「大丈夫よ、ハトリちゃん」
そして、ユラはノギのそばに座り込むと、その両手をノギの傷口にかざし、祈るように目を閉じた。
ふわりとあたたかな何かが、その場に満ちた気がした。ユラの輝く手は信じられないような奇跡の手だった。破れた服の下の傷口が、徐々に塞がっていく。乾いた血までもがノギの体内に戻っていくように、赤い色は跡形もなく消えた。
呆然としているハトリに、ユラは言う。
「これで大丈夫」
驚きのあまり、涙も引いた。触媒も何も使用せず、手をかざしただけで治癒という高度な技を使う。
ユラの存在は、どこまでも神秘の塊であった。
けれど、ユラ自身に負担があったようで、今度はユラの表情が曇った。疲れた様子にハトリが手を差し伸べると、ユラは穏やかに笑う。
そうしていると、ひらりひらりと舞う蝶の姿が背景の中でくっきりと浮かび上がった。
それは、妃蝶である。
落下の途中でビンが割れ、解放されたのだろうか。それとも、別の蝶なのだろうか。
「あ!」
思わずハトリが声を上げると、ユラは緩やかに手を伸ばした。その手がまるで甘い蜜を含む花であるかのように、妃蝶は吸い寄せられてその手に止まる。
ユラの左手が妃蝶の翅に触れた。
「少しだけ、ごめんね」
ぴり、と小さな音を立て、翅がもがれた。痛々しい光景でありながらも、ユラはノギにしたようにその手をもう一度かざし、優しい光をもって妃蝶の失った翅を復元するのだった。
もと通り翅のそろった妃蝶は、再び空を舞う。気づけば妃蝶は二匹に増え、円舞曲でも踊るかのように戯れていた。
煌くその翅を、ユラはハトリに預けた。
「お願い、ハトリちゃん」
そう言ったが最後、ユラはノギの上に重なるようにして倒れた。彼女もまた、力を使い果たしてしまったのだろう。
ただ、その代わりにノギが目を覚ました。
勢いよく起き上がると、自分の腹にユラが被さっていることに驚いていた。
「ユ、ユラ?」
けれど、自分の傷が癒えていることに気づくと、ノギは納得したようだ。ユラのか細く儚い体を背負う。その光景をハトリはぼうっと眺めた。
色々と頭がついていけない。ハトリにしても疲れが出た。
「無理させた。とにかく、早く帰るぞ」
ノギはすっかり元気なようだ。こうなると、あの怪我も、峰での出来事すべてが夢のように思えてくる。
「ノギは大丈夫なの?」
かすれた声でハトリが訊ねても、ノギの意識はすべて背中に負ったユラに向いていた。曖昧にああ、と答えるから、ハトリは礼を言いそびれた。
☆ ★ ☆
ユラはその後、しばらくして意識を取り戻し、三人は何事もなかったかのように家に戻ることができた。
ただ、その翌朝のこと。
朝食を終え、後片づけが済んでもノギはダラダラしていた。いつもならこんなことはしない。時間は有効に使う。ただ、今はつい現実逃避してしまいたくなるのだ。
ハトリは首を傾げつつ、もしかしてまだ体調が悪いのではないかと思ったようだ。恐る恐る訊ねてくる。
「ノギ、まだ体が痛むの?」
すると、ノギはテーブルで頬杖をついたままブツブツと言った。
「セオんとこ行かないと。そう思うとなぁ……」
それから、頭を抱えた。
絶対に失敗するなと言われたにも関わらず、失敗した。その上、イルマにやられたなんて、口が裂けても言いたくない。
どうしたものかと考えると気が滅入るのだった。
「くそっ、こう失敗続きじゃ、そのうち体でも要求される」
セオなら言いかねない気がしてゾッとする。また依頼主に謝りに行かないと、とネチネチ言われそうだ。
大きくため息をついたノギの目の前に、ハトリが輝く薄っぺらいものを置いた。一瞬、それがなんなのかわからなかった。食い入るように顔を近づけて眺め、それが妃蝶の翅であることを確信した。
目を見開いてハトリを見上げる。ハトリは笑顔で口を開いた。
「これはね――」
ハトリが言いかけたその先に、ユラの声が割り込む。
「ハトリちゃんがあの後で捕まえてくれたのよ」
「え?」
ハトリが少し戸惑っている。もしかすると、ユラと話し合って自分の手絡にはしないつもりでいたのかもしれない。
助けられたことをハトリなりに気にしている。何かを言いたそうにこちらをチラチラ見てくるのは、多分礼を言いそびれたせいだろうと思った。
だから、妃蝶の翅を手に入れてやったと恩着せがましくは言えないのだろう。
「そっか」
と、ノギは小さくうなずく。ユラの言葉をノギは疑わない。ユラはいつもノギのためになることしか選ばないから。
困惑するハトリだったけれど、ノギはまっすぐにハトリを見た。ハトリはさらにたじろぐ。
「ハトリ」
はっきりと名前を呼んだのは、この時が初めてだったのかもしれない。
「お手柄だ」
そう言って、少しだけ笑った。
たまになら褒めてやってもいい。それだけのことをしたのだから。
ハトリはそんなノギの反応が予測できなかったのか、口を開けて絶句していた。
失礼だと思うけれど、今回くらいは許してやろうとノギは思った。
【 第5章 ―了― 】
以上で第5章終了です。
お付き合い頂きありがとうございました!




