⑤向蝶の丸の峰〈4〉
ここはまだ雪を残しているのかと思った。それは世界から色が抜けたような透明感だった。
まるでガラス細工かと見紛う草木、岩。すべてが繊細で神聖な場所だった。
夏だというのに、肌寒さを感じてしまう。
ここへ来るまでにうっとうしいほどに降り注いでいた日差しは、すべて雲に遮られてしまったようだった。ほんのりと明かりが漏れるだけである。
「うわぁ、綺麗なところ……」
ハトリののん気な声が響く。
ユラはきょろきょろと周囲を見回した。
「妃蝶――あ、あそこ!」
一瞬、ノギは光の乱反射かと錯覚した。それこそが妃蝶だった。
光そのものにしか見えない翅を閃かせ、幻想的な空間を飛び回る。本来なら、うっとりと見惚れてしまうような光景であったのかもしれない。
けれど、よく言えば現実的、悪く言えば夢のないノギは素早く動いていた。
バスケットの中からガラス瓶を取り出すと、そのふたを開ける。そして、岩を蹴って高く跳ぶと、舞い踊る妃蝶をビンの中に生け捕った。トン、と軽い音を立てて着地するのと、ビンのふたを閉じるのは同時だった。
「あ、セオは翅一枚でいいって言ったでしょ?」
ユラが少し厳しい顔をした。その面立ちが普段よりもほんの少しだけ大人びて見えた。きっと、この場所との相性がいいのだ。ユラはそれが見た目に出る。
ノギは手にしたビンを眺めながら言った。
「うん。ただ、逃げられても困るし、先に捕まえただけだ。ちゃんと一枚だけもらったら逃がすから」
囚われた蝶は、狭苦しいビンの中で混乱してるのか、忙しなく動き回っている。憐れな姿だった。
ノギにこれを眺めて愉悦を感じるような性質はない。かつての妃の気持ちなどわからない。悪趣味だと思う。
「それなら早く逃がしてあげよう?」
二人がそんなやり取りをしている中、ハトリはいそいそと岩を這う蔓をむしっていた。
「やった! これ『鎖蔓』だ。触媒になる!」
試験に使うわけではないだろうが、採取しておいて損はないというところなのだろう。
あっさりと目的の妃蝶が手に入ったのだから、ハトリが好きに動こうとどうでもよかった。
ただ、ノギが再びビンのふたに手をやり、それを開けようとした瞬間に、その場の空気が変わった。
ノギは瞬時に顔を上げ、その場を跳び退く。そばにいたユラが小さく悲鳴を上げた。
ザン、とその神聖な場所には不釣り合いな鋭い音が響いたかと思うと、ノギがいた場所の近くにあった岩に亀裂が入った。それは切り口と言うべき鋭利なものであり、そこには僅かに光を残していた。
すぐそばにいたユラは無事である。明らかにノギ一人を狙った一撃だった。
ノギはこの場の空気が変わった瞬間に、現れた人物が誰であったのかを見抜いていた。だからこそ、ユラに危険はないと覚ったのだ。
「な、何? 何が起こったのっ?」
状況が把握できないままのハトリが一人で喚いている。けれど、説明してやるような暇はなかった。
目配せすると、ユラが大きくうなずいた。ノギは意識を集中し、ユラの力を借りる。
念のため、ユラとハトリから少しだけ距離を取った。
その時、白光を灯したノギの腕が、頭上から振り下ろされた赤光する剣による一撃を止めた。そして、ノギはその剣の刃を逆に握り締めると、剣ごとその持ち主を投げ飛ばすのだった。
けれど、その人物は猫のように身軽に回転し、静かに着地した。それは、一人の青年だった。
「相変わらずだなぁ、ノギ」
馴れ馴れしく名を呼ばれた途端、ノギは憤怒の形相で指をバキバキと鳴らし始める。
「こんのくそイルマぁ――」
「……口が悪いよ、ノギ」
こんな時でも、ユラは注意するのだった。
ハトリは突然現れた青年を凝視し、目を瞬かせる。その人物はこの神聖な場所に少しもそぐわないのだから、無理もない。
何せ――チャラい。
顔立ちは整い、ほっそりしつつもしなやかな筋肉を具えた体をしている。けれど、その金髪の両サイドに赤と青のメッシュが入っていた。服装も軽薄で、銀の貴金属をジャラジャラとつけている。
絶対に、お年寄りには受けない。今時の子は、と言われてしまう、そんな人種だ、とノギは自分のことを棚上げして思った。
「久し振りだな、ユラ! ノギなんて捨てて、早くオレんとこ来いよ」
触媒屋イルマ。
ノギが皇帝キリュウの次に嫌いな人間である。
同業者であるから競争相手、つまりは敵だという以上に、こうしてユラに馴れ馴れしい口を利く。それが何より我慢ならない。
殺気をみなぎらせたノギを放置し、イルマはハトリの存在に気づいたようでそちらに目を向けた。ヒュウと口笛を吹く。それから、ハトリではなくノギに向かって言った。
「この子、誰? 結構可愛いけど、お前の彼女?」
「アホか!」
ノギとハトリが思わずハモった。そんなわけあるか、と。
イルマはふぅんと目を細める。
「なんでノギみたいなのの周りに可愛いコばっかり集まるのかね?」
「ふざけんな。お前の――」
口と同時に手が出るノギは、殴りかかろうとしたけれど、ハッとして辺りを見回した。そして、ひっそりといつの間にか佇んでいたローブ姿の小柄な人物を発見する。その人物は、高く澄んだ声音で詠唱し始めた。
「セル・トヘル・アル・ヴェーナ――」
パン、と弾けるような音がして、数発の礫がノギを襲う。ノギは光り輝く手でそれらを叩き落とした。もともと、けん制程度の術だったのか、本気で通用するとは思っていないのだろう。
術師は冷静な面持ちでそこにいた。
茶色の地味なローブの下から覗く藤色の髪。その髪で顔が見えにくい。小柄な女性である。ただ、その印象はいつものことながらひどく暗かった。
「遅いぞ、タミヤ」
「……」
イルマにも暗い視線を投げつけるだけで返事はしない。
彼女もまた魔術師なのだ。タミヤというイルマの相棒である。正直に言って、おかしな組み合わせだが、今のところコンビを解消するつもりはないらしい。
イルマは赤く光る剣を軽く振ると改めてノギに向けた。
「オレが妃蝶の翅を狙ってるって知った時から、セオならお前に頼むと思ってたさ。やつの子飼いの触媒屋で、オレに太刀打ちできるのはお前くらいだからなぁ」
「この人も触媒屋……なの?」
全然そう見えない。ハトリが驚いたのも当然だ。
すると、イルマはノギに剣を向けつつも、ハトリに向けて甘く微笑んだ。
「そうだよ、お嬢さん。どうやら君も魔術師みたいだけど、残念だなぁ」
「え?」
「オレ、可愛いコと一緒に仕事はできないんだ」
「は?」
「だって、ほら、仕事どころじゃなくなるだろ?」
「……」
「プライベートでなら、いくらでも――」
その口を閉じさせたのはノギの拳だった。その拳をイルマは剣で受け止める。
「そろそろ黙れ」
ノギの軽蔑する目はいつものことである。けれど、ハトリ、ユラ、それからパートナーであるはずのタミヤの視線も冷たい。
イルマはそれでも自由奔放だった。
「まあいいや。とりあえず、その妃蝶はオレがもらうからな」




