⑤向蝶の丸の峰〈1〉
この時、魔術帝国ライシンは初夏であった。
四季をも魔術師たちが管理し、はっきりと定められている。夏の始まりである萌葱の月に突入して早三日。
ここから、じわりじわりと暑さを増していくのである。
そんな帝国の南に七宝の森と呼ばれる広大な森があった。その森のそばの草原に、赤い屋根の小さな家が建てられたのはいつのことだったか。
その家に住まう人間は、時と共に変わりゆく。
今、その家にいるのは、一人の少年と二人の少女。
少年の名をノギ。少女の名はそれぞれ、ユラ、ハトリといった。
彼らは、魔術のもととなる触媒と呼ばれるアイテムを採取する触媒屋という仕事を生業としている。
いつも触媒仲買人から仕事を斡旋され、それをこなす日々であった。
ノギたちが提携する仲買人セオは、いつも店の者を使ってノギたちの家のポストに依頼を投げ込む。なので、ポストの点検は彼らの日課であった。
そうして、今、ノギの家で住み込みのアルバイトをしている魔術学校休学中のハトリがセオからの封書を手に家に戻った。
「ノギ、来てたよ。セオからラブレター」
「んぁあ?」
艶やかな髪に繊細な面立ちをしたノギだが、口を開けばおしまいである。見た目と中身が激しく乖離しているのがバレてしまう。
心底嫌そうに顔をしかめてケッと吐き捨てると、ハトリから封書をひったくった。
セオは妖艶な美人なのだが、ノギは抱きつかれたところで嬉しくもなんともない。ただの面倒な人間だった。
ノギの関心はたった一人にしかなのだから。
ユラ――。
宝石のように麗しく、儚げな雰囲気を持つ少女である。
少女といっても、そこには少々複雑な事情があるのだが、一見するとノギたちとそう変わらないように見える。
ノギは彼女を誰よりも大切にし、それ以外のものを粗雑に扱う。
セオに限らず、ハトリも、ノギにとってはユラ以外は『その他大勢』に過ぎないのだ。
ノギはセオからの手紙を目にした途端、さらに顔をしかめた。
「あのヤロ……」
「なんて書いてあるの?」
いつもならば、そこには依頼の品と採取地、納期といったことが書かれている。しかし、今回はいつもと違い、まったく情報がなかった。
「『急ぎで店まできてね♥』だと!? ふざけんな!」
そこには真っ赤なキスマークがあった。これはいつもと変わりない。
これは果たしてサービスなのか、嫌がらせなのか。
親愛の証かもしれないが、それを丸めてくずかご捨てるようなノギだった。
丸めた手紙を叩きつけられたくずかごが大きく揺れたけれど、くずかごはなんとかそれを受け止めた。
「そんなことより、メシだ」
「そんなことって……」
ハトリが顔を引きつらせる。けれど、そんなことで片づける。今、何より大事なのは朝食だ。
今日は豚肉のショーガ焼き、キ瓜と海草の酸味和え。海老の身をすり鉢ですり、みじん切りにした蓮の実と合わせた団子を落とした汁物。彩の四葉が目にも鮮やかな一品だ。
茹でたメコの実の種子を茶碗に盛りながら、ノギはハトリに言った。
「ユラを呼んでこいよ」
「あ、うん」
そう、ノギは朝食の準備を手伝っていたハトリに促す。
ユラはいつも、呼びに行く頃には身支度を整えて待っている。決して寝ているわけではないのだが、ノギがユラに雑用をさせたくないので、でき上がるまで呼びに行かないのだ。
すぐにハトリはユラを連れて戻った。
「おはよう、ノギ」
ユラはにっこりと微笑む。
夏に差しかかり、半袖のブラウスから覗く肌の白さが際立つ。
「おはよう、ユラ」
ノギは人が変わったようにして優しく微笑む。ユラにだけはいつだって笑顔でいたいのだ。
「今日も美味しそうね。じゃあ、冷めないうちに頂きましょう」
見た目に反して大食漢のユラのため、ノギはいつも手を抜かずに料理する。それを苦労とは思っていない。ノギにとってはそれが喜びなのだから。
ハトリはそのおこぼれに預かっているに過ぎない。
三人はテーブルにつき、手を合わせて食事を始める。
ノギとユラは器用に箸を使うのだが、ハトリは苦手だった。ここへ来るまで箸など触ったこともなかったらしい。あまりに下手なので、見かねたノギがスプーンとフォークを手渡したほどである。
ノギの料理は父親から教わった創作料理で、一風変わったものが多い。
パンが主流の食事であるライシン帝国で、メコの実をこんな風に食べるのは珍しいことだった。だから、箸という道具もあまり普及していない。
けれど、メコの実はこんなにも美味しいのだから、知らない方が損だ。ハトリもそれは同感のようである。
甘辛い豚肉と、メコの実の相性は抜群だった。その匂いだけで幸福感に包まれる。海老の甘くてプリプリした身も、蓮の実のサックリとした食感がアクセントになって美味しかった。それらを酸味和えが引き締める。バランスの良い食卓だ。
ノギは今日の朝食の出来に自分でも満足だった。
そんな平和な時間に、ユラのひと言で亀裂が入った。
「ねえ、今日はセオからの依頼はなかった?」
箸を持つノギの手が止まった。それをユラは見逃さなかった。
「あったのね。なんて書いてあったの?」
ハトリは、おろおろと二人を見比べる。
「……店に来いって」
急ぎで、とは言わなかった。朝のゆったりとした時間を邪魔されたくない。
「ふぅん。直接話したいってことなのね。少し難しい依頼なのかもしれないわ」
困った顔をするユラだったけれど、ノギはそう思っていない。どうせ大した用もないくせにと軽く見ている。今までだって何度かそういう呼び出しがあって、急いで行ったらわりとどうでもいい用事だった、なんてこともある。
「片づけが終わったら行こう」
それだけをつぶやいて、ノギは食事を続けた。
ハトリをなんとなく見遣ると、夢中で食べていた。平和的に緩んだ顔は、美味しいと声に出さずとも語っている。
ほんの少し、ノギの表情が和らいだ。