④亀甲の泉〈7〉
亀甲の泉とは、気が遠くなるほどに長い歳月を生きている、今となっては島ほどの大きさになった亀の背であった。ところどころに歪みがあり、その歪みに海水が溜まった様子が泉のようだからとのことだ。
この存在を知る者は、国の中でもごく僅からしい。
そうして、島亀を呼び覚ませるのは、太古の民のユラくらいのもの。自らの声に特殊な魔力に似た力を込め、海底へと響かせる。だからこそ、皇帝キリュウはユラに頼んだ。
島亀がその背を許すのは、ユラのみである。ノギにもハトリにも近寄ることすらできない。
その空気は清浄で、その他の誰にも侵せない聖域だと、ノギさえもそう感じた。何か、体中に力がみなぎるような感覚はあるのに、暴れたいという衝動が湧かない。
ただ、その静謐な時の中、あの古びた亀を眺めるばかりだった。
女神のように美しい姿のユラは、うっすらと光を放ちながら、気づけばふわりと浮いていた。
これにはハトリも驚いていたけれど、すぐに落ち着きを取り戻す。もう、何を見ても驚かないと自分に言い聞かせているのかもしれない。
ユラは光を振り撒くように、緩やかに上昇していった。
本来、ユラには戦闘向きの能力はない。彼女が持つ力は、防衛や治癒といった、身を護るために必要な力なのである。それをノギが戦うために利用しているに過ぎない。もともと太古の民は穏やかな民なのだろう。
浮遊も状況によっては可能となる。
ただし、それは余程好調な場合であり、ノギも目にするのは久し振りのことだった。
島亀の背に降り立ったユラの姿は、ノギたちの立つ浜からは見えなかった。それでも、あれだけ力のみなぎるユラならば多少の危険からは身を護れる。そういった意味での不安はなかった。
それでも不安があるとするならば、ノギを置いてどこかに行ってしまうことだろうか。
このまま遠く、焦がれるものを目指して。
そんなことはしないと信じている。戻ってきてくれると知っている。
こんなことを口にすれば、きっと怒られるだけ。馬鹿な心配事だ。
ノギはぼんやりとユラの帰りを待つ。
その間、ハトリと会話をすることもなかった。ただ、上を見上げるだけである。
そうして、すぐに戻ってきたユラは、手にひとつの花を大事そうに抱えていた。
島亀は用が済んだと判断したようで、出現時とは違い、今度は穏やかに泳ぎ去る。
ユラの両手に包まれた硬質な蓮の花は、その名の通り玻璃のように澄み渡っていた。
「これが水晶蓮……」
ハトリがユラの手もとを覗き込んでごくりと息を飲む。
「……お前、目つきが危ないぞ」
思わずノギが言うほどに、ハトリの目は水晶蓮に釘づけだった。
「皇帝直々の依頼の品に手を出せるなら出してみろ。将来なんて消し飛ぶからな。ああ見えて、キリュウはむちゃくちゃ容赦ないぞ」
その言葉に、ハトリは慌てて顔を上げた。
「そ、そんなことしないってば! で、でも、もうひとつ持ってきてくれたらよかったなぁ……なんて」
そのどもり方が怪しいとノギは思うけれど、ユラは苦笑した。
「確かにこの花は高いルクスを含んでいるけれど、ハトリちゃん、この触媒の入手経路を試験官に上手く説明できる? 闇ルート取引レベルの品物よ?」
「う……」
それもそうだと気づいたようだ。ハトリはがっくりと肩を落としている。
そんな様子に、ユラはフフ、と笑った。
「いくつもほしいなんて欲張ったら、島亀さんにも嫌われちゃうしね」
ああいう生きた化石は、長く目にしてきた人の業を嫌うがためにそばに寄せないのだろう。
微笑むユラの麗しさに、ノギはただ見惚れてハトリに嫌味を言うことすら忘れてしまっていた。
この姿を、ただ懐かしく思う――。
☆ ★ ☆
そうして、ノギたちの小さな家に再び皇帝がやってきたのはその翌日のことだった。
「……確かに」
ユラが手ずから水晶蓮をキリュウに手渡す。ユラは元通り少女の姿である。以前のようなマイナスの影響とは違い、自分の意思で今の姿に戻ったようだ。
清らかな花の輝きに、キリュウは満足げにうなずいた。けれど、すぐにそれを供のヤナギに手渡す。そして、ヤナギは報酬をノギに支払った。その袋を開けるまでもなくわかる。ずしりと重い。
普段のノギならばにこやか――にやけた顔をしたところだが、相手がキリュウであるため、なんの裏があるのかとまだ警戒を解けなかった。
そうしたノギの様子をキリュウは笑う。
「正当な報酬だ。受け取るといい。次回の納期も約束通りに延ばすよ」
「随分気前のいいことで」
ハッと吐き捨てたノギだったけれど、キリュウの顔はすでにノギの方を向いていなかった。名残惜しそうにユラを見ている。
それがまたノギには腹立たしい。
「これでも皇帝だからね。それなりに多忙なんだ。もう戻るけれど、ユラに会えてよかったよ」
子供ながらにどこか油断ならないキリュウの空気が、ほんの少し和らぐ。ユラは小さくうなずいた。
「あんまり無理をしすぎないようにね」
そう励ます。
ノギがものすごい形相で睨んでいても、キリュウには通用しなかった。
「ありがとう。では、また――」
爽やかに長い裾をさばいてきびすを返す。
その時、キリュウの供であるヤナギは、遠慮がちに控えていたハトリのことを注意深く観察していた。そのことに、ハトリが気づくでもない。ノギもキリュウばかりに気が行っていて、ヤナギの存在など忘れていた。
高額の報酬も手にしたけれど、ノギの胸のうちは晴れない。
ユラも多くは語らない。
キリュウもヤナギも、ハトリも、皆の想いはそれぞれに交錯する。
行き着く先は誰も知らない。
【 第4章 ―了― 】
第4章終了です。
今回バトルなしでしたね、ごめんなさい(汗)
また次回ということで!(逃走)
お付き合い頂き、ありがとうございました!




