④亀甲の泉〈4〉
皇帝が去り、ようやく家内に平穏が戻る。
ただ、ハトリには大量の謎を残して去ったように思えたのかもしれない。食卓に着いた途端、ハトリは質問を開始してきた。
「ねえ、どうして皇帝陛下とお知り合いなの? あのお金って、一体――」
ノギはぎろりとハトリを睨む。その視線の鋭さにハトリは身を竦ませて黙った。
それをユラが間に入って緩和する。
「ええと、私たちはキリュウからあるものを買いたいの。そのためにお金を貯めているわけ」
そんなこと、教えてやらなくていいと思うのに、ユラはハトリに甘い。
ユラは敬称もつけずに皇帝の名を呼ぶ。決して皇帝を軽んじるわけではない。自然と、親しみを込めているようにも感じられて、ノギはそれも気に食わないのだけれど。
ノギの不機嫌が伝わったらしく、ハトリはその質問を先に進めなかった。訊いてはいけないと察知したのなら、馬鹿ではないと褒めてやってもいいとノギは思った。
ハトリは代わりに別の疑問を口にした。
「ねえ、水晶蓮の花を手にできるのはユラだけって、なんでなの?」
しかし、その質問にも答えたくない。
「うるさい。メシが不味くなる。黙って食え」
「う……」
すげなく返すと、ハトリは黙って朝食のバンズをかじった。
上に乗った半熟卵の火の入り方は絶妙で、卵の旨みを凝縮している。おかげでハトリはさっきの質問を忘れてしまったのではないだろうか。食べるところは幸せそうで静かだった。
そんなハトリの顔を、ユラはじっと見つめていた。
「ハトリちゃん」
「え? 何?」
ハトリが小首を傾げると、ユラはそっと微笑んだ。
そして、自分の頬に人差し指で触れる。
「ここに卵の黄身がついてるよ」
「え? え?」
慌てて頬を擦るハトリに、ユラは満面の笑みで今度は反対側の頬を指差す。
「あとね、こっちも」
「わ、嘘!」
手の甲で反対側の頬も擦り始める。ノギはユラが楽しげにしているのでまあいいかと思って眺めていた。
「取れた?」
「うん。でも、ここも」
今度は額を指差す。
「やっ」
自分の顔を撫で回すようにして慌てているハトリに、ノギはさすがに突っ込みたくなった。
「どうやったらデコにつくんだよ。冗談に決まってるだろ」
ユラはクスクスクス、と笑っている。
「だって、可愛いからつい」
えへ、と笑うユラこそ可愛いとノギは思う。ハトリも怒るに怒れないようで小さく唸っている。
「もう、ユラってば見かけによらずいたずらっ子なんだから……」
「ごめんごめん。でも、やっぱりハトリちゃんが来てくれてよかった。家の中が華やかだもん」
「俺がいるのに?」
自分だけでは不満なのかと、少しショックを受けたノギだった。
「それとこれとは別。やっぱり女の子って可愛いし」
別と言われても困る。ユラにとっての一番は常に自分でなければ気が済まない。ノギはますますハトリが気に入らなかった。
その敵意に気づいたのかどうなのか、ハトリは話題を変えた。
「そ、そういえば、以前はノギのお父さんと三人で暮らしてたのよね?」
すると、ユラは一瞬動きを止めた。故人を語るには、心構えが必要なのかもしれない。
「……うん。トーマはいつも優しくて、美味しい料理をたくさん私たちに作ってくれたわ」
ノギの父親の名はトーマといった。
寂しそうに、それでもあたたかい目をしてユラは微笑む。ノギも小さくうなずいた。
「俺もまだ、親父ほどには上手く料理できないからな」
受け継いだ料理の腕で、ノギは父の代わりに食事を作り続ける。
父は優しかった。ノギのようにユラ一人に対する優しさではなく、分け隔てのない優しさだった。
「ふぅん。いいお父さんだったのね」
ハトリの言葉に、ノギは否定もせずに素直にうなずいた。
「そうだな」
父はノギにとって目標と言えるかもしれない。小さな頃から尊敬できた。
二度と会えないのはやはり寂しい。
そこでハトリは、ノギに対して絶対にしてはいけない質問をした。
「ところで、ノギのお母さんは?」
ノギの顔色がスッと変わった。ハトリがその質問のまずさに気づいたらしく、慌てて自分の口を塞いだけれど、飛び出した言葉は戻らない。
ノギは反論を許さない冷え冷えとした口調でハトリに言う。
「二度と『その言葉』は使うな」
「え、あ、う、うん」
余程驚いたのか、ハトリは何度も何度もうなずいた。それくらい、ノギの顔が怖かったのだろう。
ノギにとって『お母さん』は禁句なのだ。その言葉はもう使いたくないと思っている。
そんな二人のやり取りを見て、ユラはやれやれと肩をすくめて嘆息した。




