④亀甲の泉〈3〉
少年皇帝は腹を抱えて笑うノギに冷めた視線を送ると、小さく嘆息した。
「相変わらずだね、ノギは」
名を呼ばれた瞬間に、ノギはぴたりと笑うのを止める。その目に敵意を宿した。
ライシン帝国皇帝、キリュウ。
即位してまだ四年ではあるものの、その魔力は歴代でも一、二を争うとされていた。少年でありながらも、彼が傀儡の王であったことは一度もない。
煌びやかに彼を彩る装飾の数々は、すべてが最高級の触媒である。いかなる時も魔術を発することができるよう、常に身につけている。
そうして、その傍らにいる男は、帝国三宰相のうちの一人、ヤナギである。三宰相のうちでも最年少の三十七歳。彼は皇帝の遠縁にあたる。
ヤナギは不敬極まりないノギよりも、見慣れないハトリの方に興味を示した。ハトリは一人でおろおろと慌てふためいている。
「お前のような人間嫌いのところにホノレスとは、優秀な人材がいたものだな」
ノギはケッと小さく吐き捨てる。
そんな中、ノギの後ろにいたユラにキリュウは目を向けた。キリュウの表情が和らぐ。
「やあ、ユラ。いつも綺麗だね」
途端にノギはユラをキリュウから隠すようにしてその正面に立ち塞がった。
この皇帝キリュウは、ノギがこの世で一番嫌いな人間である。
そして、ノギとユラが大金を溜め込んで買い取ろうとしているものの持ち主だった。
「金を受け取りに来たんだろ? 無駄口叩いてんじゃねぇよ」
皇帝に対してこの物言い。けれど、キリュウは怒るどころか相手にしない。
それどころか――。
「いつまでも子供だね」
そう言われてしまうだけのことである。
確かに、どんなにノギが苦労して自立した生活を送ろうとも、この少年皇帝に匹敵するほどの苦労があるはずもない。最初から、敵う相手ではないのだ。
キリュウの、年下のくせに達観した部分がノギは大嫌いだ。
ユラが奥に引っ込み、皮袋を持って戻ってくる。それを、キリュウに向かって差し出した。
「はい、どうぞ。約束の金額は達成できているから」
微笑むでもなく、媚びることのないユラに、キリュウは微かに寂しげな目をした。
「そう。確かに」
キリュウは、ほっそりとした白い手でそれを受け取る。触媒である宝石の輝く指輪がはまっている。力仕事など似合わない、繊細な指だ。
受け取った金銭を、キリュウはすぐにヤナギに預けた。
「けれど、まだまだ先は長い。それでも諦めないのかい?」
そう、キリュウはノギとユラに問う。
「俺たちが諦められないことを知ってて、それを言うのか?」
不屈の瞳で、ノギは押し殺した声を出す。両者の間には深い溝があった。
「そうだったね」
キリュウは、微笑んでみせる。それは、皇帝としての包容力を感じさせた。反抗的であろうとも、キリュウにとって二人は自分の民である、と。
「それでも、そう易々と認めることはできないのだよ」
「俺たちは諦めない。何度も言わせるな。そっちこそ、自分の出した条件を撤回するなんてみっともない真似するなよ。国の帝王なら、約束は守れ」
約束。
キリュウが決めた一定期間内に、提示された金額を支払うこと。一度でも納期に間に合わなければ、話はなかったものとなる。
ノギたちが求めるものは、永久に得られない。
簡単に与えるつもりがないことくらい、わかっている。それだけのものを所望している。
けれど、ノギたちは諦めるわけにはいかなかった。
皇帝に粗野な口を利くノギを、もちろんヤナギは快く思っていない。眉根を寄せて厳しい面持ちで見守っている。それでもヤナギがノギを咎めないのは、キリュウが相手にしないようにと釘を刺しているからだろう。
「おい、用が済んだらすぐ帰れよな」
忌々しげに吐き捨てるノギに、キリュウは澄んだよく通る声で言った。
「実は、それとは別の用事がある。この時期、『亀甲の泉』に『水晶蓮』の花が咲く。その花を持ち帰ってくれたなら、次回の納品は延期してもいいが――どうする?」
ノギは、突然の皇帝からの依頼に目を見張った。何か裏があるのではないかと疑ってしまう。
すると、ヤナギが嘆息する。
「水晶蓮は稀有で神聖な花だ。他の触媒屋が手にすることはできないだろう。だからこその依頼だ」
その言葉を肯定するため、キリュウが鷹揚にうなずく。
「そう。できるとすれば、それはユラだけ」
ノギは、ズキリと痛いところを突かれたような気分だった。都合のいい時だけユラを頼る。
ユラを振り返ると、彼女は平然としていた。
「畏まりました。お受け致します」
あっさりと答えた。ハラハラしたのはノギだけだったのかもしれない。
キリュウは長い間を置いて噛み締めると、それを受け止めた。
「……ありがとう、ユラ」
そう言い残すと、キリュウとヤナギの姿は光に溶けるようにして消えた。高性能の翼石の力だ。光の残滓がキラキラと春風の中にある。
ノギは苛立たしくて自分の髪を両手で乱した。
「あ――! くそっ!! あいつらのせいで朝食が冷めた!!」
一番大切なことは、そこである。




