④亀甲の泉〈2〉
横暴であろうとも、ノギは雇い主である。ハトリは渋々外へ追いやられた。
思えば、最初にハトリがこの家にやってきた時も、不法侵入だと言って容赦なく水をかけられた。あの時は冷たかったな、と思い出して嘆息する。
ノギは過剰防衛なのだ。不法侵入者の方がかわいそうだ、とかつての不法侵入者は思う。
家の周囲にぐるりと立てられた柵の手前を、二人の人物が歩いてきた。不法侵入というが、まだ侵入すらしていなかった。よくこの距離で気づいたものだと、ノギの神経質さに驚く。何をそんなに気にしているのやら。
今から不法侵入しようとしている人物に向かって、とりあえずハトリはまず警告することにした。なるべくなら、平和的な解決が望ましい。
「止まってください! これより中に入ったら攻撃します!」
脅しに見えないように厳しい面持ちを保つ。けれど、相手は本気にしていない様子だった。
「おや? 君は誰かな?」
余裕の表情でそう返したのは、男の子だった。
年齢は十二、三歳程度だろうか。ただ、間違いなく金持ちの子息だ。
陽を浴びて輝く銀髪に、金の額飾りをしている。その額には、相当な価値があると思われる青い宝石があしらわれていた。
服装も豪奢としか言えないような、高貴な青色のガウン。煌く装飾品の数々。あそこまで飾り立てる意味が、すでにわからない。
少年自身も気品のある顔立ちしており、まとう空気が一般人とは違った。しかし、ハトリはそういう人種に慣れてしまっている。学院に通っていれば、クラスメイトは良家の子女ばかりだったのだ。
だから特別緊張することなく普通に答えた。
「ここで雇われている者です」
少年は紫色の瞳を向け、そんなハトリにクスクスと笑う。
「そう。でも、残念ながら立ち止まるつもりはないよ。好きにするといい」
怯えもせず、平然と言い放つ。育ちがよさそうなだけでなく、肝が据わっていた。
そんな少年の後ろに影のようにしてつき従っている男性が、渋い声でつぶやく。
「よろしいのですか?」
「ああ、手出しは無用だ」
二人の年齢は親子ほども違う。けれど、その口調が立場を物語っていた。
そばに控える男性も、見るからに身分が高そうだったのだけれど。
後ろに軽く撫でつけた黒髪に、怜悧な面立ち。いかにも有能そうである。少年の下僕だというのに。
少年はハトリの方にゆっくりと歩み寄る。少年の年齢に見合わない落ち着きに、ハトリの方が慌てた。
「だ、駄目だってば! この家の人、怖いんだよ? 知らないよ?」
それでも、少年は立ち止まらない。このまま侵入を許してしまったら、ノギは烈火のごとく怒り狂うだろう。そうしたなら、この少年もハトリもろくなことにならない。
焦りつつも、ハトリは決断した。足止めをしなければ、と。
腰のポシェットから触媒を取り出す。少年は好奇心からか眉を跳ね上げた。
怪我をさせるつもりはない。脅して追い払うだけだ。
触媒は『焔草』。その辺に生えている、ノギに言わせればカスのような触媒である。
けれど、ハトリは『ホノレス』と称される優秀な魔術師。現在は休学中のただの学生であるが、本人は大成すると信じている。
ちなみに、一般的な魔術師が使用した触媒は、真っ白になって形は残るのだが、ホノレスである魔術師は、触媒が灰になるほど完全に使いきることができる。
だから、触媒の魔力『ルクス』の値の低い触媒であろうとも、ハトリが扱えばそれなりの力を発揮するのだ。
「ウル・レテル・ソエル・アスク――」
ぽうっと、手にした焔草が赤い光を放つ。ハトリは術をイメージしながらその光で弧を描くと、少年と男性に向けて術を放った。小さな火の玉が、尾を引いて飛ぶ。
ただ、少年の脇すれすれを通り過ぎる予定だった火の玉は、ハトリの想像もしなかったこととなる。
少年は歩みを乱すことなく流麗に長いガウンをさばく。そして、防御の呪文すら発しなかった。
パリン、と小さく硬質な何かが割れる音がしたかと思うと、次の瞬間に火の玉は煌く冷気によって霧散させられた。ハトリは、そんな光景に唖然とするしかない。
キラキラと、少年の周囲に光が舞う。陽光の中、さらに光をまとう少年の姿は、神聖なものに思われた。それは、思わずひれ伏したくなるほどに――。
あの光がなんであるのか、ハトリはすぐに気づけなかった。けれど、気づいた瞬間に血の気が引いた。
あの光は、触媒が燃焼した輝きかもしれない。
触媒を灰に変えるホノレスであるハトリだが、目の前の少年は、そのさらに上級の存在であった。
『プリマテス』と呼ばれる、使いきった触媒を光へ昇華する最上級魔術師。
学院に通っていたハトリですら初めて拝んだ。プリマテスとは、すなわち王族である。
あまりのことに、ハトリは真っ青になって震えたが、一部始終を見ていたノギは扉の陰で爆笑していた。
「自分の国の皇帝の顔を知らないやつがいるなんてな!」
「こ、皇帝!?」
愕然とするハトリに、ノギのそばにいたユラが嘆息する。
「ハトリちゃん、ほんとに攻撃しちゃ駄目よ」
「だ、だって!」
どこに、自国の皇帝に攻撃を加えさせる人間がいると思うのか。
――残念ながら、ここにいたけれど。




