③青海波の浜〈6〉
緑銀の鱗を持った龍魚は、水飛沫を盛大に上げて海面から跳ねた。ノギはその背で素早く息をする。
「サウリクティス!」
ハトリの甲高い声がした。
魔術師であるから、それなりに物を知っているようだ。触媒にもなり得るが、獰猛な魚だ。
暴れるサウリクティスの背びれに、ノギはしっかりとつかまっている。今はまだ振り落とされたくはない。
サウリクティスの背で風を受けながら、ノギはその光を足もとに集中させた。緑銀の鱗の背を蹴り、高く飛び上がる。
「ユラ!」
浜に向けて呼びかけると、今度は光を手に集中させ、ノギは上空から手にしたものをユラの方に投げて寄越した。ユラはうなずいただけで、特に動くことはなかった。ノギは、ユラに当たるような投げ方はしない。
ロープで束ねた床貝は回転しながら砂に埋まって止まった。
ノギは再び海に落下する前に光を全身にまとってから潜った。ノギが海に潜ると、サウリクティスは大きな口をいっぱいに開け、ノギを飲み込もうと迫ってきた。
ノギはとっさに岩場に隠れる。岩を噛み砕く魚の歯を目の当たりに、ノギは少しもヒヤリとしなかったとは言えない。早く浜へ上がらなければ、体力が落ちたらかわせなくなる。
第二撃が来た。今度は尾びれが岩場を薙ぎ払う。直接当たりはしなかったけれど、その衝撃でノギの体が水の中で浮き上がった。ノギは思いきってサウリクティスの背びれに再びつかまる。
このまま次に海面から顔を出した時こそケリをつけたい。
ノギが望んだ通り、サウリクティスは再びノギを振り落とそうと暴れ、海面から飛び上った。空が見えてノギがほっとしたのも束の間――
「ウル・レテル・ソエル・サデス――」
魔術の詠唱が聞こえた。
けれど、さすがにノギもサウリクティスに気を取られて振り向けなかった。
「――ゼ・リート・アドラ!」
ヴァン、と弾けるような音が鳴った。二つの白銀の刃となった術は、左右からサウリクティスの首を挟み撃ちにした。
「うわ!!」
ノギの声が波音の合間に響く。術の巻き添えにはならなかったものの、ノギのまとっていたユラの力が消えた。集中が途切れてしまったのだ。
まずいと思った時にはすでに遅く、ノギはただの非力な少年に戻っていた。サウリクティスの背から滑り落ち、海へ転落する。
サウリクティスの鱗は硬く、あの程度の魔術で首を切断するほどの威力はない。使用した触媒が大したものではなかったのだろう。
それでも、ある程度のダメージはあったようだ。青い血をにじませ、サウリクティスは水柱を上げて逃走する。ユラの力を借りていないノギは、それに巻き込まれないように必死で泳いだ。サウリクティスは最早ノギのことなど忘れたようで助かった。遠目に、激しくのた打ち回る姿が見えた。
ほどなくして、バシャバシャと水音を立て、ノギは泳いで浜に戻った。ゼエゼエと荒く息をしながら海水を滴らせて海から上がる。尋常ではない疲れを感じる。ここまで疲れたのはいつ振りだろうか。
「だ、大丈夫? 浜で拾った白夜貝しか触媒がないし、あんまり強い魔術も使えなかったから、追い払うのが精一杯だったんだけど……」
ハトリがうつむいていたノギにそう言った。つまり、ノギの集中を途切れさせた魔術は、ハトリの仕業である。あれがなければ、ノギはサウリクティスを退け、さらに床貝をもう少し見つけられたかもしれない。
あれがノギを心配してのお節介であったとして、そんなものはノギの足を引っ張っただけに過ぎない。頼んでもいないことをやって、それで恩を着せようとするのか。腹立たしさが沸々と湧いてきた。
ノギは唐突にハトリの腕をつかむ。
「ひっ!」
びちゃり、と濡れた手の感触にハトリが悲鳴を上げた。ただ、その次の瞬間には、そのノギの手は光をまとい、ハトリの体を軽々と持ち上げていた。頭上高く持ち上げてやった。
「だ、駄目だってば!」
慌てて止めたユラの声が空しく響く。
「キャ――!!」
叫び声を上げたハトリを、ノギは容赦なく海の中へ放り投げた。ガボガボと泡を吐いて海水を飲み、ハトリはやっとの思いで海上に顔を出す。
海に浸かったままハトリがむせ返っていると、波がぐいぐいとその後ろ頭を押した。
「な、なんてことすんのよ!!」
「それはこっちのセリフだ! お前は俺を殺す気か!!」
「何それ!? あんたには当てなかったじゃない!」
「うるさい! お前のせいで集中が切れた!!」
「はぁ!?」
びしょ濡れで怒鳴り合う二人を止めるべく、ユラは深々と嘆息するとノギに言った。
「……ねえ、ノギ、床貝開けてみよう?」
そこでノギはようやく冷静になれた。本来の目的を思い出した。
「ん? ああ、そうだな。……でも、あの魚に半分以上持ってかれたし、三匹じゃあな、望み薄かも」
そう言って、深々とため息をつく。
そんな隙に、ハトリは海から上がってきた。服や髪を絞る。ノギはそれを無視して床貝を撫でた。
ノギは両手にユラの力をまとい、床貝を素手でこじ開けた。メキ、と貝の割れる音がする。その怪力にハトリがギョッとしていた。
「チッ、ハズレか」
舌打ちすると、ノギは『ハズレ』の床貝を海に放り投げる。そうして、もうひとつもこじ開けた。
「…………」
今度は無言で放り投げる。
そして――。
三匹目の床貝を開いたノギは、自分でも顔が強張っていると自覚した。勢い余って、そのままバリ、と貝の縁を握り潰す。
「そんなこともあるよ?」
ユラがそっと慰めるようなことを言った。けれど、それでは駄目なのだ。
「もう一回行ってくる」
再び立ち上がったノギの腕をユラは両手でつかんだ。そうして、緩くかぶりを振る。
「駄目よ。今日はもう疲れてるんだから。無理しちゃいけないわ」
「でも――!」
「納期、延ばしてもらえるかわからないけど、仕方ないじゃない。ノギにまで何かあったら、私……」
悲しげな表情を浮かべたユラにそう言われては、ノギは何も言い返せなかった。
「わかったよ」
「うん。とにかく、今日はもう帰ろう」
うなずくしかなかった。自分の無力さが悲しくて、やるせない。
そんなノギの心境に、ハトリの大声が割って入った。
「うわぁ――っ!!!」
慌てて腰のポシェットを探っている。ずぶ濡れのポシェットだ。ハトリはあそこから触媒を取り出していた。貴重品はすべてあそこに入れているのだろう。
「ない!! 翼石がない!!」
「ええ!」
ユラはハトリと一緒に慌てた。しかし、ノギはどうでもよかった。
海の中だとするのなら、探し出せるはずもない。あれがなければ帰れないだろう。
しかし、そんなものは自業自得だ。勝手についてきたハトリが悪い。
ユラはそれでもハトリに駆け寄った。
「ハトリちゃん、おうちどこ?」
「……ヘリオトロープとウィスタリアの間にあるモーブ村」
今にも泣き出しそうな顔でハトリは答える。
ライシン帝国の首都ヘリオトロープと北にある港町ウィスタリアの間。
ノギたちの家からそこへ向かうには、船などの交通手段を使うと何日もかかる。ちなみに、その距離を飛べる翼石を購入するなら、結構な金額だ。
「遠っ! 金なんて貸さないからな」
ノギは自分が悪いなんてこれっぽっちも思っていない。だから、言葉も冷ややかだ。
けれど、そんなノギにユラが声をかけた。
「ノギ」
声のトーンが一段低かった。
ノギはギクリとして姿勢を正す。
「な、何?」
「い・い・か・げ・ん・に――」
笑顔が逆に怖い。その白い肌に青筋が浮いていた。
そして、
「しなさい!!!」
ユラが大声を張り上げた。ノギは飛び上がりそうなくらいに体を震わせた。ユラがここまで怒ったことが今までに何度あっただろうか。数えるほどしかない。
ユラは慌てるノギにたたみかけた。
「せめて女の子には優しくしなさい! 困っているの、わかるでしょ! どうしてそんな冷たいこと言うの!!」
「え、いや、だって……」
「だってじゃない!」
「でも、ユラが――」
「私? 私のため? じゃあ、私の好きにするけど、それでいいわね?」
「……はい」
しょんぼりと返事をするしかなかった。
そんなノギを見て、ハトリは少し溜飲が下がったのかもしれない。寒さに震えながらも、目が僅かに笑っている。
ユラは、よし、と腰に手を当ててうなずいた。
「じゃあ、ハトリちゃん、とりあえず私たちと一緒に帰りましょう。お風呂に入らないと風邪ひいちゃうから」
「あ、ありがとう」
ノギはユラにばれないようにこっそりと顔をしかめた。
ユラにこんなにも叱られてしまったのは、ハトリのせいだと。
えーと……良い子の皆様は……m(_ _)m