③青海波の浜〈4〉
海に潜ったノギを、ハトリはぼんやりと遠目に眺めていた。
まだ水温も低いこんな季節に海に潜らなければならないなんて、触媒屋というのも大変な職種なのかもしれない。
そんなことを考えていると、波打ち際に立ってノギを見送っていたユラが、ふとハトリの方を振り返った。
その麗しく整った容姿と繊細な微笑に、ハトリはドキリとする。
「ハトリちゃん。ちょっとお話しましょうよ」
「う、うん」
見たところ年下かもしれないと思うのに、その儚げな雰囲気のために緊張してしまう。ガサツな自分が近づくと壊してしまいそうだ。
そんなハトリに、ユラは可愛らしくクスクスと笑う。
「いつもノギがごめんなさいね。あの子、口が悪いから」
まるで保護者ような口調だった。幼さの残る少女には似つかわしくない。
「ううん……」
かぶりを振り、建前でそう言った。本心ではない。ノギの口が悪いのは否定しようのない事実だ。
すると、ユラは少し困ったような表情になった。
「あの子は他人を寄せつけたくないのよ。ああいう態度は、何もあなたに限ったことじゃないから、あまり気にしないで」
「はぁ……」
何か、間の抜けた返事になってしまった。けれど、ユラの横顔を見て思う。
ユラは、こうして手の届く位置にいながらも、どこか違うところに立っているような存在に思えた。はっきりとは言えないが、何かが遠い。
その何かがなんなのか、ハトリにはわからない。それに、踏み込むつもりもなかった。
行きずりの自分とこの二人が深く関わることなんてないのだから。
ユラが再び口を開いた。
「ねえ、ハトリちゃん、訊いてもいい?」
「何?」
「あなたは高ルクスの触媒をどう使うために求めているの?」
それはもっともな質問だった。まずそれを話してから協力を求めるべきだったのかもしれない。焦るあまり、順番を間違えた。そのことに気づいたハトリは、少し恥ずかしくなった。
「えっと、実は、卒業試験が近くって……」
「卒業試験? あなた、学生さんなの?」
「そうなの。今は休学中なんだけど、必要な単位は取得済みだし、試験に受かりさえすれば卒業できるから。筆記は頑張ればなんとかなるけど、実技だけはいい触媒が手に入らないことにはどうにもならなくて」
この帝国で学生といえば、国内最大にして唯一の学院、『シャトルーズ魔術専門学院』の生徒である。国が運営する、無条件で一般教養や文字を子供に教えるような学び舎とは違い、あそこに通うにはそれなりにまとまった金銭が必要になる。
そのことに気づいたのだろう。ユラは率直に訊ねた。
「ハトリちゃんの親御さんは?」
「いないわ。あたし、孤児なの。でも、特待生だから学費の面ではなんとかなってたんだけどね。ただ、まあ、今はそういうわけで……」
ユラは不思議な虹彩の瞳をそっと細めた。それは優しく思い遣ってくれている人の瞳だと、ハトリは思う。
どんな生い立ちや事情があったとしても、ハトリにやましいことはない。顔を上げ、明るい口調で言う。
「それで、ちゃんと卒業して、いい働き口を見つけて、安定した生活を送りたいの!」
地味といえば地味な夢である。堅実というべきか。
「ハトリちゃん、えらいね」
それほどまでにまっすぐな褒め言葉を、ハトリはあまり受けたことがなかった。褒められることがなかったわけではない。学院にいれば、魔術の素質を褒めそやしてくれる人もいた。
大抵は教師で、他の生徒の前で褒めちぎってくれた。けれど、それは純粋に喜べるものではない。
おかげで、他の生徒から敵視されることも多くなった。教師は他の生徒の闘争心を煽るためにハトリを褒めただけなのではなかったのかと思う。
ユラは、ハトリを利用しようというつもりはない。ただ普通に接してくれる。
そのことが、ハトリは少なからず嬉しかった。
「そんなことないよ」
ハトリがそれだけ言うと、ユラはフフ、と小さく笑った。
「私は協力してあげたいと思うから、ハトリちゃんが納得の行く触媒に出会えるようにノギを説得してみるわ。絶対とは言えないけれど、それでもいい?」
「え!」
願ってもない展開である。
あの性格のひね曲がったノギも、ユラの言うことならば耳を傾けてくれる。ほんのりと、前途が明るく照らされたように思えた。
「あ、ありがとう!」
ぱっと顔を輝かせたハトリに対し、ユラは何故か一度体をびくりと強張らせた。その表情から微笑が消え、急に難しい面持ちになる。
「……ノギ、苦戦してるみたい」
そうつぶやいたかと思うと、ユラは祈るような仕草でまぶたを閉じた。ぽぅっとユラ自身から光が漏れる。
それは、魔術とはまるで違う光だった。もっとあたたかく柔らかで、包み込むような光。
呪文も何もなく、ただ、本当に祈るようにしているだけだ。
そうすることでユラはノギの助けとなっているのだろうか。
これは一体、どういう技なのだろう。ハトリの知識にはない。
知らないことがまだまだ世の中にはたくさんある。そう興味深く考えた。
遠くでザブン、と水柱が上がった。