夜明け
真夏。夜明け前の暗い海は夜空との境界を失い、目の前に横たわるのは先の見えない深い闇だった。私は細い三日月を見上げて、海岸にぼんやりと佇んでいた。
「先生、私を忘れて」
女は少し先で振り返り、長い髪を風に揺らして呟いた。膝丈の黒いワンピースから透き通るように白い脚が覗き、その足先が闇に浸っている。波は脚に絡み付いて、幾本もの白い筋を残して消えていった。私は、忘れないよ、と応えた。女は私に背を向けて水平線の方へと歩き出した。
女の腰が波に呑まれる距離まで、その姿が遠くなった時。私は、行かないでくれ、そちら側は世界の終わりだ。と震える声で呟いた。女は波に身体を委ねたまま、丸い大きな瞳を艶やかに潤ませて、知っています、と応えた。
戻って来るんだ、こちら側に。私は諭すように語り掛けた。すると、「忘れて下さい」と、女はもう一度、震える、しかしはっきりとした口調でそう告げた。
「かたちをなくしたら、私は空となり、海となり、ただ巡るに任せて、この世界の一部となるでしょう。姿は見えなくなっても、そこには『存在』しているのです」
「だから、私のために、私を忘れて」
私はその緊迫した声色に押され、ただ頷いた。忘れないよ。私はもう一度、噛み締めるように呟いた。女は少し首を傾けて、再び水平線の向こうを目指した。それきり、もう振り返ることは無かった。女の腰、背中、肩、そして髪……月が傾き、星が輝きを増し、降るような星空が目に鮮明になると同時に、女の姿は豆粒ほどにも遠くなった。そうしていつの間にか、女の姿は果ての無い闇の中へとするりと落ちていた。
私はしばらく呆然としていた。その後靴を脱いで裸足になり、恐る恐る波打ち際へと歩き出した。足裏に、水を含んでじっとりと重い地面を感じる。歩くたびにふくらはぎに泥が跳ねる。月は空に無く、星屑の微細な光だけがぼんやりと夜空に浮かんでいる。
打ち寄せる波の手前で立ち止まると、近づいてくる波の音に合わせて深い闇が私の足首を包んだ。冷たさの中にあって皮膚を刺さないその感覚は、ひんやりとした滑らかなビロードが纏わりつくようだった。波の音に、女の声が繰り返し重なった。
(先生、お幸せに)
気がつくと、私の身体は膝頭までが闇に浸っていた。
(さようなら)
引き際の波がそう囁いたとき、私は弾かれたように水平線に向かって駆け出していた。波に脚を取られ、身体が思うように先に進まない。打ち寄せる波を掻き分けてまた歩き出す。忘れられるものか。私は今更、自身の気持ちに気がついたことを激しく後悔した。所詮許されぬ感情と、自身の心すら欺いたことが恥ずかしかった。
自身の身体が深く沈むにつれ、身体の自由は効かなくなっていく。波は大きくうねって時折私を飲み込んだ。腰、背中、肩、そして髪……私の身体はとうとう全て、深く冷たい闇に包まれた。
静かな水底の世界で、自身の鼓動だけがとくとくと規則正しく波打つ。目を開けると、闇の中に無数の星屑がぼんやりと瞬いていた。そのうちに鼓動はあちらこちらから聞こえてきた。様々なリズムで、様々に波打つその音は次第に自身の鼓動と重なり、全身が生ぬるい液体に満たされるような不思議な感覚に包まれた。視界が黄金に満たされて、意識が遠のいていく―。
不意に頬に温かい何かが触れた。
波の音で目が覚めた。私は波打ち際に佇んでいた。
西の空に白い三日月がくっきりと浮かび、東の空から群青の濃淡が広がり始めていた。空と海とを分かつ水平線が、次第に姿を現した。
髪や服は、ぐっしょりと濡れていた。拒まれたのか。例えようもない悲しみが、青い波となって幾度も足元に打ち寄せた。
「生まれたときから永久に感じなければならなかった孤独の悲しみから、ようやく開放されるのです―あの深い夜の空と海の向こうで」
女は言った。けれど、それは叶わないことと私は知った。
忘れよう。記憶の中にさえかたちが残らないように。彼女の望みどおりに。
空が明るくなり、白い三日月は次第に光に溶けて見えなくなった。雲ひとつ無い、一枚の硝子のような夜明けの空は曇りなく澄んでいる。自分を見つめる女の瞳が、頬を撫でる白い指先が、一瞬鮮やかに思い出されて―そうしてそのかたちは、記憶の深い海の中に沈んでいった。