ベルリンの日々・2
「スズランの香りって素敵よね」
マリヤはほんの少しそばかすの浮出た鼻先を白い小花の束にうずめ、深く息を吸った。
本当に幸せな香り。
春の森の木漏れ日の下に咲く天使の休息地のような、濃い緑の葉と白い花房。
郊外のヴァンゼー湖畔で、自分と同じ亡命ロシア人の青少年たちとボート遊びに興じたあと、メイドが用意した軽食…バンとローストチキンとチーズと果物。
そしてほの甘くレモンシロップの味がするビアカクテル。
南ドイツのサイクリストたちが好む、『ラドラー』とかいう飲み物らしい。
乾いた森の空気のなか、白い喉を鳴らして飲めば(少し品を欠く行為だ) 少年たちも砂垂らした水があっという間に吸い込まれるように、右に倣う。
骨ばった首筋の上下するのどぼとけが赤く染まっているのは、ロシアの男として少々情けない。
微量のアルコールとサイクリングで火照った体に、色白なサンクトペテルブルク出身の青年から渡された、森でつんだスズランの花束。
それだけでマリヤの心は高ぶった。
妹のシュタージはと言うと、青年たちからスズランの生えている場所を聞き出し、両手を泥だらけにして苗を掘り起こし、花の刺繍を施したエプロンに包んで満足げだ。
「君の妹って、少し風変わりだね」
「ええそうなの。他の女友達と違うことに興味を持ちがちね。それに一度気になったら、それにしか心が向かない子なのよ」
「君は? スズランの花束だけに夢中になってしまう?」
そんなことはないわ。あなたがくれたからこそ、この花はいっそう素敵なのよ。
マリヤはささやいて、青年の耳元に口づけをする。
巻き毛をとかしつけた髪油の香料が匂った。
5月1日
フランスではこの日、愛する女性にスズランの花束を渡して愛を示すという習慣がある。
「姉さん、あのニコライ氏から愛の告白を受けたの?」
湖水からの帰り、運転手の操るT型フォード車の座席で、シュタージは問いかけた。
アメリカのメーカーで作られたこの史上初の一般向け四輪車は、元貴族の子弟が乗るにはやや安っぽかったが、なにしろ大量に売られて敗戦後のドイツにも流入している。
イギリスでも『自動車』は作られているが、こちらは超高級路線だ。
「ううん、はっきりとは。でも彼は情熱的ではあるわね」
シュタージはまた思った。
この人はまた『恋愛ゲーム』を楽しもうとしている。
自分のふくよかな胸と細い腰、長い手足と美しい顔を材料に、バラの花のように男たちを吸い寄せ、開きかけた官能的な花弁の中に誘い、男がおぼれきる寸前にすっと手を離すのだ。
私にはできない。
私はせいぜい、野に在って、咲いたか咲かないかわからないうちに踏まれて潰されるハコベの花よ。
1924年5月1日。
ベルリンの目抜き通りには不穏な空気が漂っていた。
ドイツ共産党の若者たち、党幹部がスカウトした学生グループ、労働者。
何千人もの人たちが手にプラカードを持ち集まりつつあった。
政治活動は禁じられていたが、そんなことは構わない。
数人ずつ、あるいは十数人ずつのグループが、通りの角を通過するたびに加わり、すぐに若者たちは道いっぱいに膨れ上がった。
緑の制服のベルリン市警官たち、茶褐色の『突撃隊』の奴らが鋭い敵意をむき出しにして、沿道の両脇から睨みつけている。
その数は青年たちの数に比例して、すぐに沿道の野次馬市民たちを凌駕するまでに増えた。
一部の若者たちは、体に赤いカーネーションを着けている。
「なに、あれ……」
マリヤは美しい顔をしかめた。
「デモ行進でしょう。ドイツ共産党という、ソヴィエトロシアの手先たちの集団よ」
シュタージが出入りの本屋の常連客から聞いたままに応える。
小娘だと思って、大人たちは彼女の前でも大っぴらに政治の話をするのだ。
シュタージにとってはそれがすこし小気味よい。
「嫌だわね……」
マリヤは物憂げな表情を崩さなかった。
5月1日は労働者の祭典「メーデー」と言うらしい。
元々はヨーロッパの素朴な春祭りだったのだが、なぜか隊列の人々は『ソヴィエト・ロシアに干渉するな』と叫んでいる。
その叫びを耳にすると、マリヤもシュタージも体の奥底から叫び出しそうな恐怖が湧いてくる。
親戚たちとロシアを脱出した時はまだ幼かったが、港への逃亡、帰ってこない、もう生きてはいないだろう両親、厳めしい顔つきで船に乗せてくれた軍人たち、そして生きて港までたどり着けなかった友人やご近所の人たち……
どうしても色あせることなんかない、忘れようにも記憶が甦る。
ドイツと和平を結んだソヴィエト・ロシアはブランデンブルク門の東側、ウンターデンリンデン通りのそばの、元ロシア帝国大使館を使っている。
ロシア帝国の駐独外交官たちはどうなっただろうか。
幼女から少女に成長した姉妹は自分たちと故国のたどってきた道を思い出し、車の中で身をこわばらせた。
「姉さん見てよ。あれウルズラじゃない?」
窓の外を物憂げに眺めていたシュタージが、不意に大声を上げた。
「あれって、どこの人?」
路地と言う路地から大勢の若者たちが合流し、大通りは人の洪水になりつつあった。
「あれよ。先頭のプラカードを掲げている男物の帽子をかぶった女性。子供のころ一緒に遊んだマリアだわよ」
運転手に車を止めさせ、目を凝らしてデモ隊の先を眺めると、なるほど、男物のハンチング帽に男物の服、そして眼鏡に黒い髪と面長の顔。
少し前まで、今日のような休日に郊外の森や湖で一緒に遊んだユダヤ人商人の娘ウルズラ・マリア・クチンスキーがプラカードを持ち、隊列の先頭を歩いている。
ひょろりとやせっぽちで手足が長く、16歳という年の割に大人びた風貌だ。
母親であるクチンスキー夫人は、叔母たちが道で出逢うと
「うちの娘は何を考えているか、皆目見当がつかないわ」
と嘆いていたが、なるほどそういうことか。
ドイツ共産党という政治団体の、分裂を重ねた最も過激な『ソビエト主義者』たちの仲間になったわけか。
「ウルズラはロシアを崩壊させたコミュニストたちの仲間になったのね……」
同じマリヤと言う名を持つ姉が、平らかな声で呟いた。
その目は獲物を狙う烏のように冷ややかだ。
「残念ね。もう私とあの子は分かり合えないわ」
私も……と言おうとして、シュタージは口ごもった。
でも姉さん、社会を下支えしている、大多数の労働者が一番貧しく打ちのめされているのは何故?
それはどこの国でも同様よ。
暴力はいけないわ。
でも、上の階層の人間が下のものを踏みつけ打ち従えるのは咎められないの?
もっと言えば、男は女より上なの?
『自分のもの』として認識した瞬間、上位の者としてふるまうのは変じゃないの?
姉のマリヤと違い、ロシア人経営の書店に出入りし大勢の文化人の討論や言い争いを目にしてきた『かわいこちゃん」13歳のシュタージは、官能的でなく美しくない平凡な女が男にどう扱われるか、幼くして理解していた。
姉と違って。
「お嬢さんたち、どうしますか? このままこの通りを走ってもデモ隊に邪魔されるし、おっつけ警官隊との衝突に巻き込まれて、厄介な目に遭いますよ」
「お勧めは?」
マリヤが運転手の後ろ首をじっと見つめた。
初老のドイツ人運転手は、襟が薄汚れたシャツを着て、脂じみた体臭が頭と後ろ首から漂っている。
「すぐに抜け道の路地に入って、この場を離れることですね。お屋敷までちょっと遠回りになってもその方が安全です」
「じゃそうしてちょうだい」
運転手は快諾してエンジンをふかした。
隊列の若者たちの歌う革命歌「インターナショナル」が通りにこだまする。
ひと際高く響くのは、先頭の旗手ウルズラの声だが、彼女以外の女性の声も多数聞こえる。
若い労働男性だけでなく、女もそれなりに参加しているのだとシュタージは知った。
Leute, hört die Signale,
auf zum Kampf, zum Gefecht,
die Internationale
kämpft für das Menschenrecht!
通りに出て取り巻く集団が動いた。
建物の奥や路地から緑の制服の警官隊が、一斉に若者たちに殺到した。
手に手に警棒を持ち、頭上高く振り回しながら青年を蹴散らし、少女を突き飛ばして警棒でめったやたらに打ち据える。
ウルズラは?
窓から顔を出し、先頭を見ると、彼女は大柄な警官に地面に引き倒され、警棒で激しく殴打されていた。
取り落したプラカードを拾おうと伸ばした手のひらを、警官が思い切り踏みつける。
「シュトルム ! (嵐) 」
仲間の青年が叫ぶ。
それが彼女の党内での名前なのだろうか。
青年はウルズラを引きずり、建物の壁に沿ってもたれかけさせた。
警官たちは既にほかの学生の群れに襲い掛かっている。
「さあ行進を続けるんだ。我々の印をもって」
青年は警官隊が後方に走るのを見届けてからプラカードを拾い、ウルズラの血だらけの手に持たせた。
ひびの入った眼鏡に血糊のついた黒髪、
苦痛に背中をかばい足を引きずりながら、ウルズラは再び立って歩き続けた。
Steht auf, Verdammte dieser Erde,
die euch man noch zum Hunger zwingt,
「まったく、なんて馬鹿げているんでしょう」
姉のマリヤはあきれた表情で、前を見つめている。
この裏道を通って、少しでも早く家に帰りつきたいという表情がありありと浮かんでいる。
心底うんざりしているのだ。
「あなたはああいうのに近づいちゃだめよ」
「え?」
何とも形容しがたい気持ちでデモ隊を見つめていたシュタージは、不意を突かれて曖昧な返事をした。
「あなたは変なことに惹かれていく、困った傾向があるから」
「そんなこと……」
ないわよ。あんな恐ろしいコミュニストどもになんて。
そう答えながらシュタージは、半ばもやもやとした憧れめいた気分を抱き、蹴散らされては歩き続けるデモ隊を見ていた。




