ベルリンの日々・1
「なんて混んでいるんでしょう……」
ベルリンの道路のこの混雑具合はどうだ。
イギリスの戦艦でロシアを脱出したマリヤたちが住んだのは、ベルリンの南西シェーネベルクという区だった。
市の中心よりの、中産階級から高収入の商人や学者などが住む地域で、プロイセン時代から建つ古めかしい石造りのビルに劇場や映画館、デパート、カバレットや大きな書店、そして高級アパルトマンなどが軒を連ねるにぎやかな商業地だ。
目ぬき通りもけして狭苦しくはない。むしろ幅も長さも申し分ないはずなのに、なにしろ人が多すぎる。
貴族、金持ちの大きく豪華なものから一般市民が使う質素なものまで、色んなあつらえの馬車が行き交い、その真ん中を市電が派手な音を立ててすり抜ける。
そしてその間をちょこちょこと横断する人々。
交通事故はしょっちゅうで、バスや電車の前を横切り轢かれる人は珍しくない。
現にいま、最新式の「少年風」のデイドレスを身に着け文学者サロンに出かけるオルロフスキー家の姉妹たちは、警笛を鳴らして急停車する市電のとばっちりをくらい、長いこと道路が開くのを待っている。
さいわい腕の良い御者が急いで手綱を引き馬を止めてくれたおかげで、ピンでとめたお気に入りの帽子が傾いだくらいで済んだ。
「そろそろ開きそうですよ。作業員が片づけていくわ」
家庭教師が姉妹に囁く。
姉妹の馬車の2台ほど前、暗い市電の陰から陽光の中に、突然布に載せられ運ばれていく轢死体が現れた。
ありえない方向にねじ曲がった首、一本ずつ足りない手足に粗末な杖。
戦争中に負傷し、街に放逐された負傷兵だった。
1918年秋のドイツは革命に揺れていた。
1914年に始まったドイツ、オーストリアと英仏他連合軍との衝突は、それほど拡大せず短期間で終結するだろうという楽観的な両軍の見通し通りにはいかなかった。
『クリスマスまでには帰ってくる』という、前線に赴く若い兵士たちの言葉は空しく空に消えた。
天候不順による農作物の不作、同盟国の戦線離脱、そして1917年4月の、アメリカの連合国としての参戦が体力を失いつつあるドイツへの大きな一撃となり、皇帝とその子どもたる兵士を苦しつつあった。
1918年11月初め、北ドイツの軍港キールで起こった、無謀な突撃戦に対する海軍兵士のサボタージュに端を発し、瞬く間にドイツ中に反皇帝の動乱が広がった。
キールの反乱が鎮圧されても、リューベック、ハンブルク、ハノーファー、ケルンなど主要都市に労働運動系の組織が立ち上がり、街頭での軍との衝突が繰り返された。
『母なるドイツ』に戦争を完遂する力がもはや残っていないのは、誰の目にも明らかだった。
11月の終わりにオデッサの港を出て船を乗り継ぎ、南仏に上陸したのち陸路ベルリンに到着したロシア人たちを待っていたのは、こうした混乱のドイツだった。
ロシア貴族の令嬢として育ったマリヤとシュタージは、職業に結び付くような訓練は一切受けてこなかった。
両親は小規模とはいえ貴族らしく領地で小作人を使い、また商売や金融の才にも長けていたので汗水たらして働く必要がなかった。
厳しく教育されたピアノやダンスはプロ並みの腕、また六か国語を流暢に話すことができても、それが日々の糧を得る『仕事』に結び付くという発想はない。
だが、それで困るような事態は皆無だ。
ベルリンに数多あるロシア人コミュニティー、その中でも貴族たちの集まりの中で、美貌の亡命少女たちはすぐに注目されはじめた。
ベルリンに着いた姉妹と親戚たちは、はじめ高級ホテル、次にシェーネベルク地区の高級アパートにメイドと住んだ。
さまざまな階層のロシア人たちがベルリンに宿をとり、仕事と日々の糧を求めた。幸いキリスト教会など支援団体も少なくなかった。
11月11日、ドイツと連合国との休戦協定が成立してはいたが、社会情勢の不安は増大する一方で、政府内社会民主党により結成された『保安隊』や『人民海兵団』という名の警備組織は、治安維持とは反対に王宮に侵入し略奪を行う始末だった。
軍が出動し鎮圧はしたが、その最中、軍が反対に労働者市民団体に取り囲まれ武装解除されてしまうという1幕もあり、その場に出くわし目撃したベルリン市民に深い絶望と無力感を植え付ける羽目になる。
皇帝のため、母なる大地のため、家族のため。
命や体の一部を失っても守ろうとしたドイツ。
それが今や、背骨は折れ内臓は腐臭を放ち、何をどうしたら『祖国』としての形を保てるのか、国民は日々のパンを求めながら、暗い怒りを蓄えていた。
オルロフスキー家の姉妹がベルリンに暮らしていたのは、そうした時代である。
12月、貧しきものと富める者の差がシュヴァルツヴァルトの針葉樹のように広がっているベルリンの街にも、待降節がやってきた。
夜も昼もパーティー、映画、デパートでの買い物に明け暮れる富裕なロシア上流階級たちは当然目立った。少し手元不如意であっても、ロシアから持ち出した宝石や家財、毛皮や装飾品を買い取らせれば問題などない。
このころは目抜き通りにロシア人富裕層専門の質屋、デパート、本屋に食料品屋とロシア人のための街ができるほどだ。
『第二のロシアの首都ベルリン』『シュプレー川沿いのモスクワ』そしてロシア人が多く住むベルリン南西部のシャルロッテンブルク地区は『シャーロッテングラード』と揶揄される始末だった。
ロシア大使館のあったミッテ区から伸びる通りクーアフュルステンダムは、ソビエトの発表した新経済政策『ネップ』になぞらえて『ネップスキー・プロスペクト』と呼ばれ、保守派のドイツ市民の中にはそれを喜ばないものも多かった。
ともあれ、大半のドイツ市民は少なくとも表面上はロシア人に同情的で、それは多分に急進的な共産主義への恐れも含んでいたのだろう。
ドイツで過ごす時間、社交の場に率先して出てゆき、カールさせた艶やかな黒髪に流行りの化粧をした姉のマリヤは『亡命令嬢』としてちやほやされたが、妹のシュタージことアナスタシアは違った。
金髪をセットするでもなく長い三つ編みにして(断髪をセットするのが面倒だったのだ)頭周りにぐるぐる巻きつけ、黒い服に黒い上着、外出するときには行方不明になった父のウールのコートを羽織ったりもしていた。
本が好きで華やかな世界になど全く興味がなく、親戚にいろんな本を買ってきてもらっては読んでいた。だからなのか、視力が低く黒縁の眼鏡をかけていた。
少し大きくなると亡命ロシア人芸術家がよく出入りする、本屋に出かけるようになった。
男装の美少年のような妹と、年若いが妖艶な姉娘。
心配したドイツに住むおばたちは、健全な体を育てるためにと、姉妹をベルリン郊外、グリューネヴァルト南西の森の中にたたずむ湖『ヴァンゼー』に連れて行った。
後に『ヴァンゼー会議』が開催される地である。
シェーネベルクには立派な国民のリゾート施設たる『スポーツ宮殿』もあった。
姉はダンスや体操で、その健康的な肉体美を他の利用者に誇示していたが、妹シュタージはひとり孤独に乗馬用のズボンをはいて、森の中を自転車ではぐるぐるめぐっていた。
「あの子はちょっと風変わりなのよ。父や叔父たちに似て頭が良すぎるの。本の虫なのよ」
マリヤは社交の場で妹について話を向けられると、きまってそう答えた。
自分とは違う性質の妹。貴族の娘として、ロシアの令嬢として絶えず求められているものにそっぽを向くブービーコップフ(少年面)の小娘。
でも姉妹は互いに愛し合っていた。
1922年、ソビエト連邦が成立し国際的に認められた。亡命ロシア人たちが「ロシア」に帰り祖国を再建するという夢は潰え、大人たちは落胆した。
それでも大勢の大人たちが、『祖国が必要としているから』という、ソビエトから来た文化人たちの呼びかけに応じ、『ロシアに』戻った。
後に呼び戻しに来たものも、招きに応じたものも、大勢が『大粛清』にあって外国のスパイの嫌疑をかけられ殺されることになる。
マリヤとシュタージを取り巻く大人たちの中にも、『祖国ロシア』を諦めイギリスやフランス、アメリカに渡って腰を据えるものが現れ始めた。
ドイツはインフレが激しく、それでも少女たちは何不自由ない暮らしを続けていた。




