ロシアン・キャラバン
マリヤとシュタージ、二人のオルロフスキー家の娘たちと年老いた祖母、よく知らない親戚たちを乗せたイギリス海軍HMSネレイドはオデッサの港を離れ、コンスタンティノープルへ向かった。
娘たちの故郷、港湾都市オデッサに逃れてきた市民は大勢いたが、そのすべてが船に乗れたわけではない。
幼い子供と妻を連れて来た若い帝国役人は、赤軍が市内に突入する間際まで市民の避難に奔走し、最後は自ら望んだ妻、そしてわけも分からず泣き叫ぶ子供を撃ち殺し、自分も脳髄に弾を撃ち込んで死んだ。
ドイツ、フランス、イギリスら外国の干渉部隊、ウクライナ人民共和国のディレクトリーリャ(執政内閣)、そしてポリシェヴィキと目まぐるしく支配者が変わったが、それはとりもなおさずこの国際港湾都市に暮らす多民族が、為政者によって翻弄される近代ヨーロッパ史の常でもある。
中でもポリシェヴィキと司令官デニーキン率いる白軍の攻防が激しさを増すとともに、海路から陸路から、多数の逃亡者が国境目指して脱出を試みた。
オルロフスキー姉妹と同じ船には、皇帝ニコライ二世の弟ミハイル大公の妻で平民出身の美女ナターリア・プラソヴァも同乗していた。
11月26日にオデッサを発ったネレイデは、まずオスマン帝国のコンスタンティノープルに寄港した。
オスマン帝国黄昏の時ではあったが、露土戦争で母国と激しく戦っていたこの国は、オデッサと黒海で繋がっており、わけてもコンスタンティノープルは古くからの国際都市で、海上物流の拠点であった。
港湾での仕事も多く、外国人を受け入れる体制もできており、ロシア人やウクライナ人のコミュニティーも出来上がっていたので、仕事を求めて降りるものも多かった。
特に体力のある若い軍人や、ロシアからあまり離れたくない家族連れ、ヨーロッパ諸国に係累のない者にとっては、ここは働き口を見つける機会も多い。
ポリシェヴィキと白軍、諸外国との戦いの最中、100万人から200万人のロシアと周辺諸国の人々が、国外へ逃れた。
だがこの革命の激しい波が永久に続くとは、皆思っていなかった。
実際、ヨーロッパ大陸を翻弄する大戦の嵐が集結し、諸国の政府がポリシェヴィキ・ソビエト政権となんとなく折り合いをつける時期に、『母なるロシア』に帰国した者も多かった。
また異国にそのまま留まりながら、現在の急進的な赤い政権はまもなく倒れるはずで、そうしたら安心して帰国し、新生ロシアを推し進められようと期待する者も多かった。
コンスタンティノープルを出た英国艦隊は地中海に入った。
皇族やオルロフスキー姉妹はHMSアガメムノンに乗り換え、シチリア島の南に浮かぶ要塞島、マルタに向かった。
そこからまた商船に乗り換えて南仏のまぶしい光あふれる都市マルセイユへ、そしてロンドンへと帰投するよていだった。
だがマリヤたちオルロフスキーの者たちはマルセイユで船を降り、陸路を鉄道でひとまずパリへ、そして亡命ロシア人が数多く流入しているプロイセンの都ベルリンへ向かった。
マリヤ8歳、妹のシュタージことアナスタシア7歳と、幼い子供二人なので、一緒に亡命してきた親戚や家庭教師が面倒を見てくれた。
また、両親が資産を外貨で銀行に預けていたことも幸いした。
遠縁の貴族が保護者となり、オデッサの貴族令嬢たちは『避難民』として、大戦にざわつくプロイセンの都ベルリンに住むことになった。




