第七話:隠したかったもの
「……私に考えがある。」
苗の声はかすれていた。
イレーネは不安げに目を見開く。苗は口元に手を寄せると、彼女の耳元に何事かを囁いた。イレーネは最初、強く首を振ったが、やがてその表情が決意に変わっていく。
二人だけに共有された密やかな作戦。外にいる誰も、それを知ることはなかった。
――
街は、もはや瓦礫と霧に呑まれた。
崩れた石畳の上を、黒い影が蠢いていた。牙を剥いた魔人の成れ果てが、力弱い者に食らいつく。喉を裂かれた悲鳴が空気を震わせ、すぐに霧に掻き消される。
壁を叩き壊す音。倒れ伏した住民の呻き。骨が砕ける湿った響き。
地獄が、目の前に広がっていた。
苗は足元から溢れる血を拭いもせず、霧に向かって歩みを進める。両手を広げると、そこに淡い光が集まり、花々が次々と咲き誇った。白く透きとおる浄化の花。その小さな命が群れをなし、毒を吸い上げて霧を薄めていく。
まだ正気でいる街の住民に、苗は叫び伝えた。
「早く逃げて!ここは長く持たないわ!イレーネの家に避難して!!」
苗は小さな浄化の花畑を作り、少しでも住民が避難する時間を稼いだ。イレーネは住民たちを必死に家へ誘導した。怯えた目をした子供、足腰の弱い老人。誰もが飲まず食わずで数日を過ごし、ただ苗の作った花畑が広がるイレーネの家に、身を寄せるしかなかった。
やがて、最後に避難してきたのは、イスカだった。
片腕は肩から先がなく、黒く爛れた傷口からは腐臭が漂っていた。
「……霧にやられたんだ。気づいた時には、もう骨まで腐って落ちてた。」
イレーネは顔を歪めたが、何も言えなかった。
やがてイスカは、鋭い目をイレーネに向ける。
「なぁ……苗はどこへ行った?」
イレーネは息を呑む。
「彼女は…霧を封じるために、世界を分断させると言っていたわ。大丈夫。私たちは助かるのよ…。」
しかしイスカは首を振り、会話を続けた。
「…オレは知ってるんだ。お前の家には、人間の赤子と化け物がいるのをな。」
イレーネは凍りついたように動けなかった。
次の瞬間、イスカは振り絞るような声で叫んだ。
「なぁ!この家の何処かに化け物がいるんだろう!オレたちをこんな醜い姿にした元凶が!しかも自分の子供だけ人間の姿のまま!オレ達の未来はどうなったっていいのかよ!」
住民たちの視線が、一斉にイレーネへと向けられる。
驚きと恐怖、そして疑い。
「…化け物……?」
「じゃあ今の惨状は…?元の姿には戻れないのか…?」
「そもそも私たちが魔人に成り果てる原因を作ったのって…!」
混乱した住民の怒号が飛び交う。
イレーネは必死に首を振るが、声は掻き消されるばかりだった。
「ちがう……!あの子は……!」
しかし誰も聞こうとはしなかった。
ついに耐えきれず、イレーネは赤子と肉塊を抱き上げ、群衆を振り切るように駆け出した。
目指すのは、ただひとり__苗のもとだった。




