第四話:赤子
イレーネの家を後にし、街を出ようとしたその時、苗はふと、足を止めた。
視界の端で、濃い毒の霧がざわめいている。風もないのに揺れ、やがて一本の流れを作り出す。まるで見えない糸に導かれるように、霧は一定の場所へと吸い込まれていった。
その中心は__イレーネの家だった。
「……どういうこと?」
苗の胸がざわめく。霧は自然に集まるのではない。何かが引き寄せている。しかも、それは人の気配に近いものを帯びていた。
一度は背を向けかけた足が、再び家へと向かう。
理屈ではなく、直感だった。ここには見過ごせない“何か”がある。
戸を叩くと、中からわずかに焦った声が返ってきた。
「……君は、もう出て行ったはずだろう?」
扉を開けたイレーネの表情は、前とは違っていた。笑顔を作ろうとしても頬が引きつり、視線は落ち着きなく泳いでいる。
「なにか忘れ物でも?」
「いいえ。ただ……毒の霧が、この家に集まっている気がして。」
苗の言葉に、イレーネの肩がぴくりと揺れた。
「気のせいだよ。ここは沼地に近いから、霧が溜まりやすいだけさ。」
そう言いながらも、声にはわずかな震えが混じっている。
苗は一歩、家の中に踏み込んだ。
「……貴方、何か隠してるでしょう?」
イレーネはすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、彼女はため息を吐き、作り笑いを浮かべる。
「警戒心が強いんだね。子どもみたいな見た目なのに。」
「子どもみたいに見えても、私はもう長く生きてるの。」
苗の声は冷静だった。その大人びた響きに、イレーネの表情が固まる。
部屋の奥__閉ざされた扉が一つある。
苗の視線がそこに向いた瞬間、イレーネは慌てて立ちふさがった。
「そこは駄目だ。」
「どうして?」
「客人に見せるような場所じゃない。ただの、物置きだよ。」
遮る言葉は不自然に急ぎすぎていた。
苗は一瞬の迷いもなく扉に近づく。
「物置なら、見せてくれてもいいはず。」
イレーネの腕が伸び、苗の肩を掴もうとしたが、その手は震えていた。強く掴むこともできず、ただ空を切る。
「やめて……お願いだから…!」
それは懇願に近かった。
苗は小さく首を振り、扉に手をかける。
蝶番が軋む音が部屋に響いた。
暗がりの中、微かな泣き声が聞こえた。
か細く、それでも確かに生きている声。
目が慣れてくると、布に包まれた小さな姿が二つ。
一つはまだ魔人になっていない、人間の赤子。
もう一つは__蠢く肉塊だった。
苗は息を呑んだ。
肉塊は毒を吸い上げ、脈打っている。一方で、赤子は苦しそうに泣いている。小さな胸が上下するたびに、毒の霧がほんのわずか吸い寄せられては、赤子の周囲で霧散していく。それはまるで、二人でひとつとばかりに、毒の霧のサイクルを作っていた。
「……これっ、て…。」
苗が振り返ると、イレーネは扉の前に立ち尽くし、唇を強く噛んでいた。
「他人の子を、預かっているだけだよ。肉塊は…実験の産物さ…。」
絞り出すような声。
「違うわ。」
苗は即座に返した。
イレーネの瞳が大きく揺れた。
「な、何を根拠に__」
「見れば分かる……二人とも、貴方の子でしょう?」
苗の言葉は淡々としていたが、
その響きには確信があった。




