最終話:黒緋色の旅立ち
夜が明けた。
霧に覆われていた大地は、うっすらとした朝焼けに染まり、ようやくその輪郭を取り戻していた。
イスカとクエラという赤子が時の裂け目へ消えていった夜から、まだ幾ばくも経っていない。
けれど苗にとっては、長い長い時を越えてきたように思えた。
腕に抱いていた温もりはもうない。
静寂の中に立ち尽くす苗は、境界の門の脈動と、まだ眠り続ける村人たちの気配を見渡した。
__ここに残された者たちを、守らねばならない。
その思いだけが、彼女を支えていた。
人間へと戻った元魔人たちは、当初こそ互いを疑い、罵り合い、村としてまとまることなど到底できぬ有様だった。
けれど境界の門は日ごとに不安定さを増し、誰かが力を注ぎ続けねば崩れてしまう。
苗は彼らを導き、小さな術を分け与え、共同で門を支える術を教えた。
「門を守る村を作りましょう。
境界がある限り、私たちは生きていける。」
その一言に従い、人々は家を建て、畑を耕し、焚火を囲む。
”魔法使いの村”と呼ばれる営みが、こうして始まった。
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年月は流れる。
春が巡り、冬が訪れ、また春が来た。
人々は魔法を受け継ぎ、境界を守る術を日常に馴染ませていった。
苗は村の長として敬われ、女神と呼ばれ、やがて子どもたちに語り継がれる存在になった。
だが彼女の眼差しはいつも遠くを見ていた。
どれほどの年月が経とうとも、その姿は衰えず、村人たちとの間には決して埋まらぬ隔たりがあった。
⸻
ある日、境界の門が安定し、村人だけで維持できるようになった。
その日、苗は何も告げずに旅支度を整えた。
振り返れば、村の焚火に人々の笑い声が響いている。
彼らはもう、自分の助けなしに生きていける。
苗は境界を見渡せる丘の上に立ち、そっと目を閉じ呟いた。
「…私の役目は、まだ残ってる。」
風が吹く。
花の種がひとつ、夜明けの空へ舞い上がり、光に溶けて消えた。
苗はそれを見届けると、誰に別れを告げることもなく、ただ静かに歩き出した。
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こうして魔法使いの村は残り、境界は守られ、未来へと繋がっていく。
けれど“苗”という名の旅人の行方を、誰も知らない。
ただ人々は、時折こう語るのだ。
…あの日、夜明けに去った女神は、災いが起こる前に現れるのだと。




