第十話:鍵
住民たちは暫し、自分の体を見つめ喜び合っていた。人間に戻れたことが、彼らにとってどれほど嬉しいことなのか、苗には分からない。苗にはもう、人間的な感情が残っていなかった。
突如、苗の腕の中で、赤子が泣いた。
実の母がもう帰ってこないことを悟ったかのように、大声で泣いた。
その声は住民の耳にも聞こえ、再び騒ぎ立てる要因になった。
「イレーネの赤子だ…忌々しい…。」
「いつまた災いが起こるか分からんぞ…。」
「今のうちに殺したほうが…。」
苗の腕の中で泣くクエラに、視線と怒号が集中する。
「私たちはこんなに苦しんだのに、最初から人間のままなんておかしいわ!」
その言葉に、苗の手が僅かに震える。その時__
「やめな。」
重い声が群衆を割った。
声の主はイスカだった。彼だけは魔人の姿のまま、人間に戻れなかった。片腕は未だ失っており、背中からは炎の翼が生えている。その姿は、住民にとって“異物”にしか見えない。
「赤子を責めるなよ。お前らは人間に戻れても、心は魔人のままなんだな。」
皮肉交じりにそう言い放つイスカに、
群衆は罵声を浴びせた。
「コイツ人間に戻ってないぞ!人間じゃない!」
「化け物!手遅れなんだよお前は!」
空気が重くなる。
苗はピリつく空気の中、ふと思い立ち、
腕の中の赤子__クエラに、特殊な魔術を施していた。
人間を守ることは、本当に正しいのだろうか。
そう考えながら、苗は赤子を抱きしめた。
__
その夜。
草原の瓦礫の上に腰を下ろし、月を仰ぐイスカのもとに、苗が現れた。
腕には、静かに眠る赤子を抱いて。
「…顔に痣ができてるわ。」
「顔見知りにやられた…人間の醜さを知ったよ。」
イスカは短く答え、目を逸らす。
苗は暫し沈黙し、そこから口を開いた。
「イスカ…この赤子…クエラを未来へ連れて行ってほしい。」
イスカは怪訝そうに顔を上げる。
「さっきまで術を施していたの。境界の門を開閉するための、たった一つの鍵。その役割を、この子に持たせた。これは誰にも言っていないことよ…貴方にしか頼めないの。」
「っ…なんでオレに!」
イスカは立ち上がり、拳を固く握りしめた。
「…貴方、最初からこの子を救う気だったのでしょう?私の力が、私自身の命を削る行為だと知って、わざと種も払い除けた…貴方にとって、人間に戻るよりも大事なことが、人を救うこと。合ってるかしら?」
苗は全てを知っているかのように言葉を続ける。
「…それに、貴方は一連の騒ぎ…異形化によって、時渡りの力を手に入れている…それも自覚しているのでしょう?」
イスカは黙っていたが、やがてため息を付いて、手をひらひらと振り答えた。
「女神様にはお見通しってことか。分かったぜ…未来に連れていけばいいんだな。」
苗はクエラを彼に託す。
小さな命が、限りなく重く感じる。
「…初めて使うから、どうなるか分かんねぇぞッ!」
光が走り、時の裂け目が開く。夜の草原を、緑の淡い光が照らす。イスカはクエラを抱き、振り返ることなく歩みを進めた。
「先に未来で待ってて…また会いましょう…イスカ…。」
苗は呟いた。その声は裂け目が閉じる音に遮られ、誰にも届くことはなかった。
残された苗は一人、静かに夜風を受けて立ち尽くしていた。




