第八話:許されずとも
イレーネは赤子と肉塊を抱え、群衆の罵声を振り切るように走っていた。
「裏切り者!」
「あの女のせいで夫が死んだ!」
「化け物を隠していたのか!」
言葉の刃は、霧より鋭く胸を裂いた。耳を塞ぎたくても、腕の中の存在を守るために、塞ぐことすらできない。
「……はあっ、はぁっ…!」
呼吸は荒れ、足は鉛のように重い。それでも、止まれなかった。
そんなとき、背後から低い声が響いた。
「落ち着け!そこまで言わなくてもいいだろ!」
群衆がざわめき、振り返ると、片腕を失ったイスカが立っていた。
顔は険しいが、怒りではなく、住民をなだめようとする必死さがにじむ。
「罵る前に、まず真実を知る必要がある。オレらが声を上げたところで、死んだ奴は戻ってこねぇし、オレらももとに戻らねぇよ!」
その言葉に、怒号の勢いはわずかに沈む。しかし疑念と恐怖は消えず、重苦しい空気が漂い続けていた。
イレーネはイスカに心のなかで感謝の言葉を唱え、再び苗のもとへ駆け出した。
――
一方その頃。
苗は街の外れに立ち、両の手を組み合わせるようにして、光の膜を編んでいた。
人界と魔界を分かつ“境界“。彼女の体を削りながら、少しずつ世界を裂く術が進行していた。
鼻から血が滴り、吐息は黒い霧に混じる。
「……もう少し……あと少しで……。」
背後から、誰かの荒い息づかいが迫った。振り返ると、イレーネだった。
腕の中に抱かれた赤子と肉塊。そして彼女自身の身体は霧に蝕まれ、肌の一部が黒く爛れていた。
「イレーネ!?その身体……!」
苗は驚愕するが、イレーネは苦しげに笑みを浮かべた。
「大丈夫…分かってる…私はもう、限界なの…。」
イレーネの視線には疲労と諦観が混ざっていた。
「…そろそろ住民に…真実を伝えなくちゃいけないね…。でも、私は長くもたない。」
彼女は赤子を苗に託すように差し出した。
「肉塊と、異形化した手遅れの住民たちは……私が責任をもって魔界に連れていく。だから……私たちを魔界に封じ込めて。せめてその赤子__クエラだけは、お願い。」
「待って、イレーネ!」
苗は必死に手を伸ばした。
しかしイレーネはもう振り返らなかった。彼女の全身には毒が広がり、背中から大きな触手が生えていた。それでも、最後の使命とばかりに彼女が叫ぶと、異形となった住民たちは不思議と彼女に従い、黒い霧の奥へと歩みを進めていく。
苗は託された赤子を抱きしめるしかなかった。
イレーネが最後まで守りたかった赤子、クエラ。
彼女は一体、どんな気持ちで双子を育てていたのだろうか。
それを知る術はもう、ない。
小さな命の温もりだけが、彼女をこの場に縫いとめていた。




