第七話 紙に油
昼の強い日差し。
吹き抜ける風に、ミナの黒髪が靡いた。
揺れた黒い瞳の奥で、唇の端だけがゆっくり吊り上がる。
これはきっと、楽しんでる顔。
ーーいいじゃねぇか。ならまずは…
「二手に別れたい。その前に、すり合わせと……腹ごしらえだ」
俺は軽く振り向き、視線で店の看板を示す。小洒落た軒先に、真鍮の鈴の飾りが陽に反射して揺れている。
「……お前が目立ち過ぎたおかげでな。そこに丁度、知ってる店がある」
カランカラン――扉が開くと、乾いた鈴の音が店内に響いた。
昼時とあって少し混んでる、少しいい食堂。
木張りの床は陽に温められ、壁には季節の絵皿が飾られている。料理の湯気と香草の匂いが空気に混じり、どこか懐かしい感じがする。
「いらっしゃいませ、アーサー様」
制服姿の店員が慣れた調子で迎える。
「こんちには。上、空いてますか?」
「ご案内いたします」
通されたのは食堂の2階、角。
一階から吹き抜けた中央の天井を囲うように作られた半個室。下の騒がしさも、ここでは遠くひそやかに感じられる。
周囲からの死角に、ふかふかの長椅子が据えられている。深い葡萄色の布地に、陽が差し込んで柔らかい陰影を落としていた。
「ここ、よく来るの?」
「ん、ああ。商会の人に連れられてな。飯なんか食えればいい」
テーブルに無造作に肘をつきながら外を眺めた。窓の外では、馬車がきしみを上げて曲がっていく。
「………密談ね、おあつらえ向きじゃない」
「取り敢えず適当に、食えるうちに食おうか」
「そうね」
チリンチリーン――小さな金の鐘を鳴らすと、メイド姿の給仕が上がってきた。
「……それで?」
「ああ、公開しないってんなら、あのタールが使われた場合より小さい被害にするのが、最低限の義務。これは最低条件、絶対だ」
「そうね、異論はないわ。考えがあるって言ってたわよね?教えてくれる?」
「単純な方法だ。……保管所で見た時から薄々な。……ちぃと、踏ん切りは必要だったが」
話しているうちに、卓上には注文した料理が次々と運ばれてくる。しっかり焼かれた魚介のムニエルと根菜のグリル、スープ皿から立ちのぼる湯気。サラダ。パンとチーズの盛り合わせが、ボードと共に置かれた。
「………想像ついたわ。見張って通報でもするのかと思ってたわ?思い切った手段ね?…ふふっ、まごまごしてた人とは思えない」
「ほう? そう言うお前こそ、察しが早かったな。……頭の片隅にはあったってことだろ?なら話は早ぇ。向こうが大所帯なら、当然ながら“別口”を用意してると見るのが妥当だ」
テーブルに置かれた深皿からは、澄んだコンソメの湯気がたなびいている。
ミナは、ふんわりと溶ける卵にそっとスプーンを滑らせて言う。
「あなたは別ルートを潰したいってことでしょ?……違うか、別ルートが残ってるなら、その方法に意味は無いってことね?異論はないわ。…で、達成目標は人的被害ゼロよね?そして理想目標が組織の捕捉とゴルダニルさんの犯人の確保でいい?」
「可能な限り人的被害を抑えていくのはもちろんだ。だが最後の二つはノルマじゃねぇ。ダメだ。組織の補足も殺した犯人の確保も、騎士団の仕事だ」
「違う違う。提出できる証拠の確保という意味よ」
「それなら異論はない。ところでミナ……その手を使うなら“いつまで”が期限だ?」
パンの端をちぎりながら口に運ぶ。
ヴィネガー香るサラダに手を伸ばしながらミナは続く。
「今日のうち。理由は連中がいつ動くかわからないから。その方法が使えなくなる前にやらないとダメね。そうね…昼間は人の目が多すぎる。撒いて点火するにも向かない。だから、夜明け前までに運搬と散布、それに点火まで……だから、今日の日付が変わる二刻前ってとこじゃない?」
「同じ見立てだ。だったら、街の連中が酒場へ流れ始める頃……その時間に決まりでいいな?…ああ、手伝いは助かるが…気が乗らねぇなら来なくていい」
「いえ、二人でやりましょう?狙われる場所については?」
「公共施設。お前は?」
ミナは器用にナイフでチーズを切り分けながら返す。
「住宅街よ。理由をおしえてくれる?」
「計画性と規模、そしてタールを使うことを考えると……目的の類型から消去法で整理すれば、現体制・社会秩序の破壊、体制転覆、影響力行使ぐらいだろう。そうすると社会秩序、既存体制、権力構造への打撃が狙いになる。ただ…被害を与えること自体が目的って線もないことはない。そこで、相談なんだがーー」
ミナはナイフを手に取り、魚介のムニエルにそっと刃を入れた。表面はこんがりと黄金色に焼き上がり、バターの芳ばしい香りがふんわりと立ちのぼる。
「いいわよ。お願い聞いてくれる?って、頼んだの…私なんだから。あなたが別ルートを探す間に私は公共施設を回って…痕跡色を探せばいいわけよね?公共施設と仮定しましょう。先に公共施設からの方が、広過ぎる住宅街を回るより効率もいいわ。……広場、市場、集会所、タールで燃やせない場所は完全に外していいわね?」
「頼む。あと住宅街ーー」
「大丈夫よ。わかってるわ?…さっきのその方法と別ルートが上手くいけば焼かれるは心配ないもの。手掛りが得られそうな方から、当たるのが…当然よね?」
輪切りにされた柑橘が入ったお茶を一口飲んで、ミナは頬杖をつく。頬骨をトントン、と叩き上目遣いでこちらを見る。
「…それで?別ルートを潰すのに、…いったいあなたは…どこにいくの?」
わざとらしい態度を鼻先であしらう。
「行政、都市開発事務所だ」
ーーーーーーーー
重厚な石造りの外壁が威厳を放つ行政施設。
石造りの壁に囲まれた部屋の中、昼下がりの光が、大きな地図を貼った壁に斜めに差している。
腰を下ろすと、古びた木製の椅子がきしんだ。
机には山ほどの行政資料。
指をゆっくり組み鳴らす。
都市開発事務所――ここが俺の戦場だ。
さて、仕事だ。
使える時間は、5刻ってとこだな。
馴染んだ緊張が喉元を通り、無意識に口角が上がる。
気分が乗ってきた。こんな高揚感なんていつぶりだ?
紙の上に指先を4本揃えてまずは、一呼吸。
ーーよし、やろうじゃねぇか
紙の束、指先を擦り上げて掴む。建築許可申請の山から「道路計画」をめくり出す。
――どれだ?
――いや、ちがう。これは?
連中はタールの出口を抑えた。
保険のための別ルートだとしたら入り口か真ん中だ。
――これか?古すぎる。
――いや、これはタールを使わない。
目を細めて文字を拾いつつ、視線は自然と資料の構成を分類していく。情報の連なり。どこかに必ず兆しがあるはずだ。
大量のタールが欲しいんだろ?入り口側じゃたいして集まらない。
――……これは?
――違う。これもこれも…
密輸するぐらいなら最初から廃棄場に集めない。
だったら真ん中に絶対にあるはず。
掌に滲んだ汗が紙にじわりと染み込む。
――道路維持管理報告…こっちだな。
――どれも新しすぎる。
束ごと引き寄せる。
指先にわずかな重みを感じながら、次々に読み捌いていく。
目が紙面を滑っては止まり、また滑る。
一拍おきに、首筋が熱を帯びる。
絶対にこの中だ。
――これも外れか…。
――なら、切る。追うのは建物側。
現場そのものを潰す。
視線が止まる。今度は建築台帳。
使われた場所、搬入された物、踏み込む。
――これは?
――施主は……
――搬入記録、ん……違うか。
無意識の舌打ち。
資料を手前に積み上げていく。
「これはありそうだ」という直感で数枚を横に分け、選別の山とする。
額にかかってきた髪を片手で掃いながら、動きは止まらない。
――これじゃない。
――これは、一応キープ。
――使用記録……少ない。まだだ。
焦れる指が無意識に爪を弾き、唇を噛み締める。
視線が資料の束を彷徨い、ため息交じりに首を振る。
ーー経由か?
ーーここからか?
ーー工事中の建物に集めた?
道路計画の束を再度引摺りだす。
ペンを握り、視線が資料を走る。
文字を追う目が細まり、呼吸が浅くなる。
汗が額に滲む。袖で拭って、集中を戻す。
手応えはある——ここにきっとある。
ーーとっかかりを探せ…
ーー…キープだ
掌に滲んだ汗が紙にじわりと染み込む。
小さな苛立ちが手元に伝わってくる。
深く息を吸い込み、目を閉じる。
絶対この中にある。
ーー隙をみつけろ
ーーひとつでいい…
ーー後は勝手に組み上がる
繰り返す。
繰り返すーー
繰り返す。
繰り返すーー
呼吸がごく自然に整う。
指でページの角をゆっくり抑えながら、文字列を目でなぞる。
【ー教会修繕計画書ー】
資材搬入記録。搬出、廃棄、融通、共用、日付、数量、用途。
パズルのように推計を重ねた先ーー
……あった。
脳から一瞬、音が消える。
全身が静まる。
確信と同時に、呼吸が戻る。
拳をゆっくり握りなおす。じわりじわりと強く。固く。
胸を抑えて静かに息を吐く。
天井を見上げる。
「…お前、やるじゃん」
書類の向こうの相手に呟く。
間違いない、当たりだ。
狡猾に、厳重な警備の目を潜り抜けて……
ーータールは教会に集められた。
そこでふと思い至る。
「ちょっと待て、お前は誰だ?」
……どこを見るか知ってやがる。完全に同業だろお前。
上手いやつだった。ほんの少しも舐めてない。
……まさかな
これ本ルートじゃねぇか?……えっ?
消防・防災の配置は?
水源の制限?こっちは……塞いである。
行政報告、議事録はどうなってる?
――まじか……
もう一度、教会修繕計画書を確認する。
運河網、交通規制の資料に手を伸ばす。
全ての経路を繋ぐ線が、視界内に形を成す。
ページを閉じた。
これは大国による軍事作戦行動だ。
目標は作戦行動の中心。
狙いはわかった。
「……教会そのものが狙いだ」
ーーーーーーー
都市開発事務所を飛び出す。
集中し過ぎてしまったが、収穫もあり過ぎた。
受付での謝礼の支払いにも手間取ってしまった。
急いで走る。
空は薄紫や灰色で覆われ始めていた。
西側だけは、まだ深い茜色や朱色が柔らかく広がっている。
ひたすらに運河沿いの道を茜色に向かって走る。
「はぁ、はぁ…」
橋を渡る風が、汗ばんだ肌をなぞる。
昼と夜の狭間が過ぎたころ、待ち合わせの広場に到着した。
合流場所には誰もいない。
「はぁ、はぁ…遅れてしまった、どこだ?」
周りを見渡すも誰もいない。
ベンチに座り、息を整える。
井戸で顔を洗い、冷たい水に少しだけ心が落ち着く。
辺りを見回す。
そして目を疑った。
落ちたはずの空に、茜色が戻っている。
廃棄場の方向だ。
………おいおい。
「やりやがったな」
こちらに影を伸ばした女がひとり、ゆっくりと歩いてくる。
朱に染まる夜空に黒煙が膨れ上がる。
俺は少しだけ声を張る。
「火遊びが、似合うな?」
女は、細い人差し指を向け、ゆるやかに「おいで」と動かす。
その指先に魔法で火を灯し、そして、ふっと吹き消す。
「そう?遅いから…ちょっと先に燃やしてきたわ?」
廃棄場の豪炎を背にミナが言う。
片眉をあげ、まるで悪戯を終えた子供のような顔をして。
「もう1箇所のタールの場所もわかった」
「あら?奇遇ね、私も……情報の女を見つけた」