プロローグ
お読みいただきありがとうございます。
晩酌のお供にしていただければ幸いです。
馬の脚を緩める。
真夜中、月光が石畳の果てを照らす。
俺は腰に掴まる女に短く告げた。
「ミナ、引き返すならこの辺までだ」
「今更?…一人じゃ…寂しいでしょ?」
ミナの柔らかく温度を乗せた声が返ってくる。
肩越しに振り返ると、ちょうどミナの掻き上げた黒髪が、俺の目を掠めた。
街の端が近づく。
「何言ってんだ。こいつを捨ててくるだけだ。それにーー」
そう言って、俺は布に包んだ秘宝の香炉を叩く。
遠くに廃棄しなければ街が全滅する。
「それに誰かいたら、寝るにも寝らんねぇだろ?」
「あら?一人で寝るつもり?」
泥に薄く染まった白シャツの袖でミナは目を拭う。
その大きく丸みを帯びた瞳と、ふっくらとした唇で艶っぽい笑みを作る。
「随分と情熱的なお誘いじゃねぇか?」
「…ふふ、急ごう?」
ミナは黒スカートのスリットを指先で少し捲り、太ももで馬腹を抑え込んだ。
騎士団の一隊が火線を張り、魔物とぶつかり合っている音が聞こえる。
馬の腹を再び蹴る。
騎士団が後退している。
見える範囲で総勢三百というところ。
「このまま抜けましょう」
「わかってる」
少なくとも正面には六つの集団。
いずれも戦線が崩れかけている。
夜の風が強まり、魔物の咆哮が耳奥を刺す。
寄せる波のように押してくる魔物達。
「押せぇ!押せぇ!」
「「おお!!」」
右前方では方陣で耐える騎士の一団。
蟷螂のような腕が斧を握る騎士に重く襲いかかる。
狼型が大きな爪を盾にぶつけている。
火花が散り、鎧がひしゃげる音が響く。
「耐えろ!引くなぁ!アタシに続け!!」
「「おお!!」」
「左を援護する!続けぇ!!」
左手では、二列に組んだ集団。
返り血を全身に浴びた女騎士が鼓舞する。
一刀の元に二匹の虫型を両断し発破をかけ突撃していく。
女騎士が向かう先はすぐ左の一団の援護。
「円陣を組み直せぇぇぇ!」
「「おお!!」」
死戦を続ける騎士たちを横目に乱戦を通り抜ける。
魔物達を通り過ぎれば魔物はこちらに振り返る。
ーー来いっ!ついて来い!!
気配を感じて右をみれば、影が俺に躍りかかる。
剣を抜く。
片手で手綱を操りつつ、右肩の反動を殺して斬り払う。
跳ねた狼型が地に沈む。
木々の狭間からさらに複数の影が迫る。
「踏み込むぞ!」
「ええ!」
馬が高く嘶き、森へ突入する。
視界が悪すぎる。
森はさすがに暗すぎる。
「ミナっ!方向だけ頼む!」
「わかったわ!」
右に左にと体を傾け、魔物を躱しつつ抑え気味に馬を急がせる。
一際大きな振動。
ズジンという重すぎる足音。
空気の軋み…
呼吸が乱れる。
しがみつくミナの手。
「ちゃんと掴まってろよ!」
「アーサー!右!!」
飛びかかってきた大きな狼を切り捨てる。
次は前から何かが来る。手綱を左へ。
見上げれば、木々の隙間から一際太く高い樹が見えてきた。
馬から跳び降り、濡れた地面を駆け出す。
目の前には、巨大な魔樹が、夜空に黒い塔のようにそびえている。
そして地鳴り。
「登るぞ!」
「先に行くわ!」
「来い!」
両手を下げて構える。
手のひらを上に向け、膝をひとつ曲げる。
ミナが走り込み、踏みつけられる衝撃が掌に落ちた。
鋭く、軽い。
ミナの片足が俺の手を蹴り、一気に体重を預けながら空へと抜けていく。
そのまま俺は剣を抜く。
唸り声。飛び込んできた小型の影を、一閃。
血と黒い体毛が混ざって地面を転がる。
一段高い蔦に登り、ミナの様子を確認する。
続けざまに飛び込んでくる影を斬る。
一匹。二匹。
もう一段高い蔦へ。
追いすがる魔物たちの群れ。
目の数だけ光がちらつく――まるで地獄の口。
魔物の喉笛を裂くような咆哮が鳴り響いた。
心臓が跳ね、汗が流れる。
ひと踏ん張りで一段、また一段。
勘のまま剣を振り、狼型を叩き落とす。
下に迫る足音が木肌に響く。
音がして振り返れば、魔物が細い木をなぎ倒したのが見えた。
「あの分かれ枝!のぼって!!」
叫んだミナに俺が返す。
「虫型だ!来たぞ!」
虫型が魔樹に登り始めそうだ。
俺もたまらず登りだす。
幸い数はまだ少なそうだ。
蔦を伝ってさらに上へ登っていく。
爪先がひっかった。滑る。蔦を掴んで体勢をもどす。
上を見上げると、ミナはスカートの裾を腹側で押さえこんだまま、片膝を高く持ち上げて、驚くほど滑らかに枝へと身体を移した。
「アーサー!!早く!!」
下では、魔物どもがうじゃうじゃ湧く。
数は、そろそろ数えられない。
本能的な恐怖が背に走る。
俺も続く、登っていく。
何匹もの昆虫型が、幹を這い、爪を立て、枝によじ登ってくる。
近づく昆虫型を都度、剣で払う。
足元が滑る。蔦を引き寄せ踏みとどまる、
「アーサー!」
ミナが太すぎる枝に体を横たえ、俺に向かって手を伸ばす。
上へ上へ進む。
「エスコートが上手いじゃないか?」
「手が震えてるのかと思ったの。いらなかったみたいね?」
「お前ほど演技は上手くなくてな?飛べ!」
そう言いながら再度、両手を組む。
ミナが俺の肩に手をかけ、俺の手に右足をのせる。
蹴る。風を裂くように跳んだが、枝に乗せた片足が滑った。
バサッ、と枝葉が落ちる音。
すかさず腕を伸ばし、もう一度枝を掴んで堪える。
上からミナがまた手を伸ばす。
二歩駆けて、踏み切った足が空を蹴る。
ミナの手首を捕まえる。
ミナは不敵な笑みで、登る俺を見る。
すでに周りの木々よりも高く、遠くには街の灯り。
見たくない気持ちに蓋をして下を覗く。
魔物で埋め尽くされていた。
そして近くなる地響き。
「来たわね」
「もうちょっと上に登った方がいいかもな」
繰り返す地響きーー足音。
メキメキと木々を倒しながら姿を現す赤目の化け物。
人が十人ほどの高さだろうか。
黒く粗い毛に覆われた巨大な獣。
四本の太い脚で大地を踏みしめる。
筋肉が浮き出た体は岩のように重厚で、目は血のように赤く光っている。
顔は獰猛な獣そのもので、牙が唇の隙間から覗き、唸り声が地を震わせる。
長い黒い爪が地面をひっかきながらさらに近づいてくる。
「――ッ゛ゥ゛ォ゛゛ォ゛オ゛オオオオオオオッッッッ!!!」
空気が破れた。思わず耳を塞ぐ。
化け物は足下の魔獣を踏み潰しながら魔樹に取り付く。
そして揺らし始める。
「ちょっ」
「下は足の踏み場もねえな……」
魔樹にしがみつくが、揺れが大きくなっていく。
「火遊びが得意なお嬢様」
さらに揺れが大きくなる。
魔樹から音がする。
揺れの度にバキバキと割れるような音。
「……死ぬんだな?」
「あら?違うの?」
「恨まれるような別れ方はしない主義なんでね」
「そうね、信頼してるわ?」
ミナはふと横顔を見せると、唇に微かな笑みを浮かべ、
指先にそっと、色香を纏った息を吹きかけた。
ミナのシルエットだけが、どこまでも麗しく――まばゆかった。
ーーーー
と、こんな危機があっという間に来るんだが……
切っ掛けは、ビッチピンクのパンツから始まった。
別にたいした事じゃねぇ。
いつも通り帳簿と埃を相手にしてたら、夜にはこれだ。
冗談じゃねぇ。
一体の死体と帳簿とピンクが揃っちまっただけの話。
不思議な力を持つ年下の女と、世界を巡る旅。
各地の伝承の下に眠る秘宝を探す旅。
その始まりはピンク色からってだけの話だ。
まぁ、愚痴みたいにはなっちまうが、そこまで長げぇ話にはならねぇ。
ゆっくり三杯も空になる頃にはちょうど終わる。
……酒の肴にでも、ちょいと付き合ってくれるよな?